なつかしいみらいに向かって

に ん げ ん。 人 間。
ひと と ひと の あいだ。 人 と 人 の 間。
あいだ には 目に見えない 儚い もの が ある。
それが ひと を 人 に させる。

◎ ◎ ◎

橋本一郎さんがライブにゲストとして呼んでくれた。橋本一郎さん(以下、イッチロー)は、元ろう学校/養護学校の教員で、現在は、大学講師、手話通訳、歌手、パラリンピック応援と、もともとマルチに活躍していたのをさらに深めている。ぼくが石神井ろう学校に在校していたときの2年間、教師としてお世話になったのが出会いのきっかけだ。

イッチローは、とにかくやわらかい。こんにゃくよりもやわらかい。ふるふる。うれしくやわらかい人。はんぺんみたいな感じのやわらかさ。めちゃくちゃおいしい牛肉みたいな感じかもしれない。
なにがやわらかいのだろう、と、ふと思う。性格? いや、あきらかな芯がある。だらしないやわらかさではない。物腰? いや、そんな表面上のことではない。

……抱擁。そうだなあ、そうだ。抱擁だ。抱擁が、深くやわらかいんだ。

パウル・ツェランの言葉。
「様々な喪失の只中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残った。そうです。すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉は自分自身の答えのなさを、恐ろしい沈黙を、死をもたらす弁舌の千の闇を抜けて来なければならなかった。そして言葉はそれを抜けて来たのです。」

ろう者ひとりひとりの中に閉じ込められている、それでも失われることのない「言葉」への渇望があるからこそ、手話はおのずと求められ生まれた。生まれるしかなかった。生まれて当然だった。その切実さが、手話という言語にはまずある。
まず、そんな切実な「言葉」をすくいとり続ける、もとい、聴き続ける人がいることで、いつしか渇望から生まれる言葉ではなく、日向ぼっこの猫のようにぐんにゃりやわらかく生きた「ただのにんげん」としての生きた言葉へと、ぐっと質が深まる瞬間がある。心が身体を信頼し、身体も心を信頼する。心と身体のお互いが手をとりあう時がおとずれる。「ただいま」という感じ。
ぼく自身の実感としても、それは本当に、ある。

◎ ◎ ◎

イッチローは、ろう者の虐げられてきた歴史や、今もなおどこかで行われる、いじめ、差別、孤独、偏見を人生のこれまでに浴びてきたであろう聴覚障害者としてのその人が、歴史や過去を越えた最先端に立つ「ただのにんげん」として存在していることを心から喜べる人。
「ろう者」でなく、「ただのにんげん」を抱擁することに、無類の喜びを感じている人。
「ただのにんげん」に至るまでの長い時間を待ちながら、手話に限らずその人にあった言葉で、一度会った人の名前やエピソードを忘れないという当たり前のでもとてもむずかしい勤勉さを備えた、ねばりづよく、しなやかに強いやわらかさでもって、未来に生きる「ただのにんげん」と出会おうとすることを目的としている人。

そういう人だと、ぼくは思っている。
これはイッチローに限らず、ろう者の教育に携わる人で、本当にほんとうに心から営める人は皆すべからくそういう人なのだろう。

「ただのにんげん」と出会う長い旅を目的としているからこそ、イッチローは、教師になったのだろうし、手話通訳を続けているのだろうし、その姿はきっと生涯を通して変わらないだろうと思える。そのことを疑いはみじんもなく素直に思えるから、ライブ会場の「晴れたら空に豆まいて」が昼夜含めて満員になるくらいに(すごいよ)イッチローを深く信頼する人がたくさんいるのだと思う。ぼくもそういう思いで、イッチローを深く信頼している。

そうして、イッチローは人が人へとめぐりめぐる活動をしている。
最近は、車椅子サッカーやブラインドサッカーをきっかけに盲者、車椅子の人とも仲良くなり、彼らを、ろう者たちの世界とクロスオーバーさせることを考えてくれているみたいだ。

今回のライブでは、ろう者が「ただのにんげん」として、ふつうにはたらけていることを紹介するコーナーもあった。デフリンピックメダリストや、歌手、バス運転士、ラーメン屋。ぼくはそのコーナーに写真家のゲストとして呼ばれた。
ちょっとしたイベントのそのコーナーも楽しかったけれど、改めて、「ああ、やっぱりイッチローの目指す方向は変わっていないな」と思った。

◎ ◎ ◎

5年くらい前、どこだったか忘れてしまったけれどぼくの写真展を観に来てくれた時から、会うたびに相談のように、グチのように、自分の考えをまとめるぼやきのように、語ることがあった。

「最近の聞こえないこどもたち、将来の仕事のイメージが乏しい」
「みんなもっといろんな仕事ができるのに」
その話を聴きながら、ぼくもそうだったな、と思った。

小さいとき、周りに聞こえない大人がいなかった。それを伝えるような書籍もなかった。大人になったらどんな職業に就けるのかというビジョンがまるでなかった。周囲の大人たちはことごとく「公務員になりなさい、安心だから」という。そういうものなのかなと思っていた。就職するにあたっても、なんの野心も希望もなく、とにかく入社してお金を貯めることができれば御の字という消極的な思いだった。そんな思いで始まったサラリーマン生活は、毎夜、大吾郎を浴びるように飲まないと寝られないというストレスフルな日々だった。

それから数年後、ぼくは写真家としておぼつかないながらもデビューする。そうして、様々に数奇な縁によって、現在、なんと写真だけで生活ができるようになった。
正直、今でも写真で食べていられることに不思議な思いが抜けずにいる。それはつまり「聴覚障害者は、ろくな仕事に就けない」という呪縛に今もとらわれているということでもある。

大人になって、いろんな人に会うようになってみれば、実にいろんな方法で「はたらいて」いる、ろう者たちがいた。
格闘家、カフェ、バス運転手弁護士映画監督映画プロデューサーラーメン屋、ウェブデザイナー、大学教授農業アジアンショップ空手家、大学教師、劇団、ホステル……。会ってはないけれど、聞いたところでは、水中カメラマン、学芸員、理容師、水族館、野球選手スカイダイバー、警察官、冒険家……。
こんなにも、こんなにも!ああ、どうしよう、こんなにも!

聞こえない大人が社会で活躍できることも知らず、サラリーマンか公務員しか選択肢がないと信じていた小学生のぼくが、彼らの存在を知ったならどう思うだろう。「ろう者は結婚なんてできない」と思っている、ろうの子どもが知ったらどう思うだろう。

そもそも、「はたらく」という「人が人のために動く」という、喜びの根源でもある願いをどうしてこんなにも狭くしか考えられないようになってしまったのだろう。この呪縛。この呪縛を解きたい。解かなくちゃならない。
ろう者という、目で生きる者が介入してこそ、その仕事がより思ってもない形でひろがることもある。新しい仕事の分野ではたらく人を知るにつれ、ぼく自身もふくめ、つくづくそう思う。その価値を見抜けない会社や社会なんかクソだ。

「目で生きている者だから、真新しい価値をもって、はたらける」
そんななつかしいみらいを思い描いている。

「聞こえないけど、はたらける」という消極的なところからスタートしたくない。「目で生きている者」というフラットなところから始めなきゃね。
「けど」よりも「から」!

◎ ◎ ◎

イッチローの話を受けてから数年、今、ぼくは「ろう者の職業」を伝える写真を撮りたい/その人の声を残したい、と構想している。

けれども、日本中にいるろう者(願わくば、世界中)を視野に入れると、ぼくの手にあまる大掛かりなプロジェクトになってしまい、資金繰りやアポとか、移動の足とか……、映像も撮りたいけど話を聞いては写真も映像もとなると自信がない……などど、どこからどう手をつけたらいいのかわからずにいた。
もともと個人プレーばかりで、だれかといっしょにやるということがとことん苦手なので、なおさらわからなかった。

そんな悩みを抱えていた2018年の年末、藤本さんに声をかけてもらい、『魔法をかける編集』を再読する。

最高!快刀乱麻!

「広大無辺な世界のなかのちっちゃなきれっぱしに立って生きているグレートにちっぽけなわたし」という認識が、なつかしいみらいをこの手につかむためにまず必要な想いなのだった。
何年、何十年かければ実現するのかわからねども、それでも、数字に還元することのできないなまなましくグレートなビジョンであればあるほど、わたしじゃない存在に対する謙虚がそなわる。そのビジョンを語る言葉には、異なるものをやわらかくつなげる詩情がやどる。

ちいさな声を見過ごすことなく、なおかつそれを信じること。ひとつの場所にいつづけることの価値を、無限大に高めてくれる。「あたりまえ」を恐れないこの本、今のぼくにとても響くものでした。
読後、ぼくのビジョンをいっしょに目指してくれるんじゃないかなと思える仲間の顔をたのしく思い浮かべていた。取らぬ狸の皮算用のうちではあるけれど、これもまた思いもよらず幸せな時間でした。

『魔法をかける編集』は、世界を変える魔法のヒントが確かにある。

あんまりにも熱のこもる本なもんだから、ぼくにも熱が伝播して、つい長くなっちゃった!

◎ ◎ ◎

魔法をかける編集』の著者、藤本智士さんもまたイッチローのように「あたらしいふつう」を通して「ただのにほん」という、ありふれているがゆえに見えなくなりがちなすばらしさをこそ見つめている。
人と人をめぐる人。
異なるふたりを通して、なんだかぼくは、なにかができそうな、直感が、している。この直感は、シャッターを押す直前からもう「めちゃくちゃいい写真が撮れたな」と理解しているときに感じているものといっしょだ。

「目で生きている者だから、真新しい価値をもって、はたらける」
この、なつかしいみらいを形にしたい。
「神話」シリーズもそうだけど、大きくて長いまなざしが必要になってきている。がんばらないとなあ、もとい、生ききらなきゃなあ。

2018年の年末、来年のみならず、十数年かけてやるべきことを言葉にして公開する。人から人へとめぐるように、予期せぬなにかがなにかへとめぐることを願って。

今年もたのしかった。
来年もどうぞよろしくね。


【本文は、ここまでです。以下は、この最近の写真20枚と、日記的なちょっとの文章がついたものがあります。今年最後なので、いつもの2倍です!2倍! 見ても見なくても変わりないですが、応援するかんじで、投げ銭的に、見てもらえたらうれしいです。
それがぼくの、黒豆代になります。あるいは、まなみの、ゆでたまご代。またもやのあるいは樹さんの、ハッシュドポテト代。ふたりめの子の、はらまき代。 ありがとう。】

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齋藤陽道

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