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「知的誠実さ」とマジカルバナナ。

はてなで話題になっている「知的誠実さ」を巡る話に、いくつか気になったポイントがあるので考えをまとめたい。

*知らない人のためのざっくりとしたあらすじ。(正確な内容は自分で確かめて下さい。)

①手嶋海嶺という人が「性的表現は性犯罪や性的攻撃性の抑止効果がある」というnoteを上げた。
②①の「手嶋氏のnote」の人気コメントに「性犯罪で問題なのは攻撃性ではなく認知の歪みではないか」というブコメが上がった。
③②のブコメに「知的誠実さがない」というブコメがついた。
④↓の増田がホッテントリに上がった。(以下「知的不誠実さ増田」)

⑤「『知的不誠実さ増田』は、『手嶋氏のnote』は批判しながら『認知の歪みブコメ』は批判しない。その態度のほうが『知的誠実さ』に欠けるのではないか」という意見が上がっている。←いまココ。

こんな感じで、最終的には「『知的誠実さ』とは何か」という話になりつつある。


◆自分が気になったポイント。

(1)「知的誠実さ」とはそもそも何なのか。
(2)各人の「知的誠実さ」の定義は、(大雑把でもいいので)合っているのか?
(3)②のブコメは「知的誠実さ」で測ることに「?」と思ったが、それは何故か。
(4)④の「知的不誠実さ増田」は、①の「手嶋氏note」のことのみを言及しているのではないか。

ひとつひとつ考えたい。


◆「知的誠実さ」について自分の考え。「自分にとって都合が悪いもの」を認めるかどうかがポイントでは。

「誠実さ」という概念が曖昧なので難しいけれど、
①偏見をなるべく取り払って、自説にとって都合が悪い結果も含めて全てを検証する。→自説を証明することよりも、事実を追求することに重きを置く姿勢。
②自説について多くの人に納得してもらうために、第三者が検証できるものを用意する。
この二点が「知的誠実さ」かなあと思う。

考えて思ったのが、ポイントは「自分にとって都合が悪い」ではないかと思った。
「自分にとって都合が悪い結果も、それが事実であれば認める」
「自分にとって都合が悪い意見を持つ他人に、どうすれば納得してもらえるかという方法を模索する」

「自分にとって都合が悪いものをどう扱うか」
これが「知」の範囲では、「誠実さ」を測るポイントのひとつかなと自分は思う。


◆②のブコメはマジカルバナナでは。

②のブコメは、「マジカルバナナ」ではと思った。

*「マジカルバナナ」とは。→「人の話に乗っかって、全然主旨の違う話をすること」。……本文が消えていた。

手嶋氏の主張は「性表現は性犯罪を誘発するという悪影響を与える、というがそれは間違っている」というものだ。
noteを読むと、「悪影響」の中に「攻撃性」や「性差別的信念」も含まれている。

①主題は「性表現は性犯罪の誘発に影響するか否か」
②「悪影響」の中に、「認知の歪み」も包摂されていると考えられる。

「性表現は性犯罪を誘発する悪影響(攻撃性や性差別的信念)を与えるというが、それは間違っている」
→「性表現は性犯罪の誘発に悪影響を与えるか否かを考えたい」という話に対して、「私は性犯罪の原因は、攻撃性ではなく認知の歪みだと思う」は同じ言葉からの連想を行っているだけで、話している主旨が違う。

バナナに例えると
「バナナって甘くて美味しいよね」
「私はバナナは黄色いと思う」
こんな感じだ。
*自分もブコメでマジカルバナナをする(というか、手嶋氏のnoteでしている)のでこれはマジカルバナナだよなと思ったという話をしたいだけで、批判ではない。


◆マジカルバナナを測る尺度は、「知的誠実さ」ではないのでは。

自分の感覚で言うと、マジカルバナナは「知的誠実さ」というレイヤーで測るものではない。
それこそ認知の歪みに近い話になる。(認知の歪みは誰にでもあると思っているので、それ自体は悪ではないと思う)

話し手や周りの人は「意図をわざと受け取らないのか」「何らかの理由で受け取れないのか」どちらかだと考えるしかない。
前者であればそもそも対話を成り立たせようという意思がないので、「知的誠実さ」ではなく「相手に対する対話を成り立たせようという誠実さ」がない。(「対話を成り立たせる誠実さ」を誰に発揮するかは、個人の自由なので「人に対して誠実さを発揮しないなんて」と言いたいわけではない)
後者は、誠実さ自体はあるが発揮できない状況だ。
どちらにしろ「知的誠実さ」ではなく、「語られている内容や語っている人への誠実さ」の話に思えるので、最初にこの話を見たときに引っかかった。


◆④の「知的不誠実さ増田」は、手嶋氏以外のことは気にしていないのでは。

④の「知的不誠実さ増田」は、「手嶋氏の論文の扱い方」に物申したいのであって、他のことには特に関心を持っていないように見える。

本人とおぼしきトラバでも下記のように述べている。

私個人はポルノ消費と性犯罪の関係については、あるともないとも直観的に言えない、という立場です。この投稿は自分の主張をどうこうしたい、ということではなく、あくまで手嶋氏が学問を扱う人間としての基本的な倫理、知的誠実さを欠いていることを知ってほしい、という理由で投稿しています。

https://anond.hatelabo.jp/20220606232556

これが本人の投稿だとすると「ブコメと手嶋氏の記事を比較して、どちらが知的に誠実か」という話は、「知的不誠実さ増田」にとってマジカルバナナである。

https://anond.hatelabo.jp/20220607101211)では、「知的不誠実さ増田」らしき人が書いた「ブコメがどうこうというレベルじゃない」というコメを引いて「『知的不誠実さ増田』は②のブコメを擁護している」と書かれていた。
これについては別のトラバで書かれた

テーブルの上とゴミ箱の中を一緒くたに論じるんじゃないよ。
これからはテーブルの上の話をしようってことだろ。

https://anond.hatelabo.jp/20220607121212

こういうことではないかなと自分も思う。(この言い方はどうかと思うが)

前提としてマジカルバナナを度外視して話をしているので、「マジカルバナナを批判しないのは何故だ」というが指摘がマジカルバナナになってしまう。


◆書き手の「含意」対読み手の「認知の歪み」

書き手(語り手)が「書いていないことを読み取るのは認知の歪みだ」と言うのに対して、読み手(受け取り手)は「こう書いてあったら、当然、こういう意味を含むはずだ」と思う。

書き手はなるべく「自分が言いたいこと以外は伝わらないように言葉を選ぶ」、読み手はなるべく「『自分』というバイアスを外し、相手の言いたいこと以外のものを読み取らないようにする」

これが対話をする上での誠意であり、この誠意は信頼関係がなければ成り立たない。
自分がネットでの対話が難しいと思うのは、そもそも信頼関係を形成する土壌がないからだ。

「知的誠実さ」ではなく「相手に対する対話を成り立たせようという誠実さ」がない。(「対話を成り立たせる誠実さ」を誰に発揮するかは、個人の自由なので「人に対して誠実さを発揮しないなんて」と言いたいわけではない)

上記も「誠実さがない」という言葉が何らかの是非の判定と受け取られやすいと思うから、「『対話を成り立たせる誠実さ』を誰に発揮するかは個人の自由で、その誠実を発揮しているかしていないかの是非は、ケースバイケースで判断します」と断りを入れている。

書くときは自分でも知らず知らずに含意と取られることをしてしまい、読む時は知らず知らず認知の歪みを発揮してしまう、という前提で書いたり読んだりすることで「信頼関係がない土壌」を補完していくしかないと思う。

難しいのは不特定多数の人に書くときは、そういう断りを入れるのも
・そんな当たり前のこと、書かなくともわかるのに。こちらの読解力を信頼していないのか。
と思う人もいるところだ。

どこで「ここまで書けば、これくらいの人にはわかってもらえるのでは」と思い、相手(読み手)にゆだねるかだ。
凄く難しい部分だけれど、「あんまり伝わらなかったな」と思う時でも意図を読み取ってくれる人は幾人かいるので、「自分の書いたものを読んで、わかってくれようとして、わかってくれた人がいただけで幸運」と思うくらいがちょうどいいかもしれない。

◆まとめ

自分の考えでは、「知的誠実さ」は「全員が話の主旨を共有する」ことで、初めて発揮する前提が整う。
「その前提を作るために、なるべく主旨を共有しようとすること」は、「知的誠実さ」の手前の「対話の主旨や相手に対する誠実さ」だ。

「対話したい」と思えばそれが大前提だろうし、「対話したくない」というのであればそれを発揮しないのも自由だ。

「知的誠実さ」を発揮できる条件は、
①書き手が、自分とは考えが違う相手に自分の考えが伝わるような書き方をするようにする。
②読み手は、いったん自分というバイアスを外し、相手の主旨を正確に読み取ろうとする。
③①②をする相手である、という信頼関係がお互いの中で形成される。
④主旨を共有することで、「知的誠実さ」を発揮する条件が整う。

こういう形ではないかなと思った。

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