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なぜ、無数にある人間的な側面の中で「新海誠の(特に前期)作品が好きなこと」がやり玉に上げられるのか。

 新海誠作品(特に「君の名は。」より前の作品→この記事では「前期新海作品」とする)が好きな元彼について語る同人誌が制作中止になった、という記事を読んだ。

 自分は企画のターゲットになった「元彼たち」と同じで、「君の名は。」より前の新海作品が大好きである。特に「秒速」は、最初に見た時の衝撃が今でも忘れられない。
 なので「前期新海作品のファン」という立場では、企画に対して「何だかな」とは思う。
 ただそれはそれとして、企画自体は(元彼が個人として特定できない限りは)やればいいのにと思う。

「新海作品が好きな元彼」が概念化されるということは「新海作品が好きな元彼について語る元彼女」も概念化される。
という前提に基づいて「新海作品が好きな元彼を語る元彼女は、なぜ元彼の数ある人間的側面の中で『新海誠の作品が好きなこと』にフォーカスするのか」について考えを述べたい。

 元彼たちの無数にある人間的な側面の中で「新海誠の(特に前期が)作品が好きなこと」がやり玉に上げられるのは何故か。
 前期新海作品が「自己完結した閉じられた世界」だからではないか。
 他者に関わらず生きられる世界と、その中で生きることによる「他者との関わりのなさ」(デタッチメント)について描いている。(例えば「言の葉の庭」なら、タカオとユキノの交流について描いているが、この交流自体が社会から隔絶している)

 どれほど働きかけてもコミットメントできない。
 自分が相手に作用しない。
「秒速五センチメートル」で理沙が言っていたように、「1000回くらいメールでやり取りして、心は1センチくらいしか近づけませんでした」の世界なのだ。

 前期新海作品は、他者を疎外することによって完結性を保っている。
 そこに入れるものと入れないものをはっきりと分けており、入れないものは残酷なほどはっきりと拒絶する。(というより認識しなかったり、できなかったりする)
 その疎外感が痛みとなり揶揄や自虐を生む。
「元彼の数ある面の中で、『前期新海作品が好き』という部分を揶揄する元彼女たち」が存在することが、「前期新海作品がどういうものか」をよく表している。

 新海誠自身は前期の作品の特徴について自覚的で、「君の名は。」以降はそうではない方向に進もうと模索していると語っている。

若い頃は、自分自身が未知なる他者であり、自分と対話するように物語が進んだ。年を重ねて自分のことが分かってくると、自分の外側にある他者を真剣に知りたくなった。

(引用元:「オリジナルの道を行く」新海誠/2022年11月16日(水)読売新聞27面掲載/太字は引用者)

 他人も社会も世界の法則も関係なく、自分にとっての意味だけをひたすら追求する前期新海作品が今も好きだ。
 対して「他者を知ろうとする」「君の名は。」以降の作品には、ほとんど興味が持てない。「すずめの戸締まり」を見て、新海作品は本当に「他者(社会)を描く」「関わり(コミットメント)を描く」ことが苦手なんだなと思ってしまった(好きな人はスマン) 
 国民的監督になった今の立場でもう一度デタッチメントの作品を作らないか、そうしたらもっと凄いものが見れるんじゃないかと今でも勝手な期待をしてしまう。

 ただ「人を知るために人との関わりを描きたい」「それがここまでの立場になった自分が人に対して出来ることではないか」と思うことが凄いなと思うので、それはそれで応援したい。
 何だかんだファンなのだ。

 次回作は自分が「大変申し訳ありませんでした」と画面にひれ伏すような、コミットメント作品が観れるかもしれない。

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