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映画『月』を観てもまだ「命は尊い」と言えるのか

考えがうまくまとまらない。
まとまらないのではなく目を背けていただけで、この映画が無理矢理目をこじ開けてきただけだ。

以下の文章は映画『月』の内容に触れるが、未見の方がすでに想像している通りの映画だ。ネタバレというものにはならないだろう。

◾️感想が言えない

映画自体の感想は簡単に出来る。
演技力の高い出演者たち。
わかりやすい演出。
詩的な映像表現。
期待通りのストーリー。
というように。
(誰かに見られている気がする、というのが我々観客とリンクしている演出や、幸せな日常が窓ガラスの破壊と共に砕け散る演出など、とてもわかりやすく詩的な演出が随所に見られる)

だが作品が放つメッセージや倫理観。社会観。自分自身の人生との対比などが混ざり合うことで言葉を失う。
文字通り何も言えなくなってしまう。
何を言ってもこの映画には通じない。
正義感バキバキで命の尊さを訴えても無駄だ。その上から押し潰される。
「人の命は尊い」というのが建前でしかないことは分かってるが、それをここまでぶっ刺して来なくてもいいじゃないですか、と半泣きだ。
「人の命は尊い」の「人」ってどこからどこまでを意味しますか?
これがさとくん(磯村勇斗)の疑問だ。

◾️なぜ僕はさとくんにならなかったんだろう

話が通じず心があると判断出来ないような重度障害者は排除した方が良い、とさとくんは考えた。
さとくんはとても真面目で異常さは見られない。
僕と同じようにしか見えないのになぜさとくんは何十人も殺し、僕は誰も殺さないんだろう。

さとくんは勤務態度も真面目で恋人を愛しそして知的だ。
絵をたしなみ障害者をいじめることもしない。
多くの観客はさとくんに感情移入するだろう。
(磯村勇斗はすごい役者だと改めて思った)
だが彼が起こした大量殺人については感情移入出来ない。

ものすごく大雑把に言うが、彼には哲学的深度が足りなかったのではないか。
倫理観もそう。
(この映画を観るとキリスト教が救いにならないのを痛感する)

何も言ってないに等しいのは百も承知であえて言うが、哲学的深度と倫理観を獲得することでさとくんはもっと別の人生が開けていたはずだ。
少なくとも愛する恋人を置いて社会を逸脱するような真似は出来なかっただろう。

いや、何を言っても無駄だな。
答えや解決策など無い。
この映画を観ればそれが分かる。
この映画を非難できるのは重度知的障害者だけなのかも知れないが、当人たちにはそのための言葉も、感情も、思考も持ち得ていないのだ。

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