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『イニシェリン島の精霊』の不可解さを読み解く

自分の指を切り落としてまで避けたいことってなんだろう。
相手の家を焼いてもまだ許せないことってなんだろう。
『イニシェリン島の精霊』(The Banshees of Inisherin)は『スリー・ビルボード』のマーティン・マクドナー監督最新作です。
観た後もずっと思考が引っ張られてしまう作品です。
鑑賞し感じた違和と感情の動きを文章にまとめてみたいと思います。
主に「人生の残り時間の短さを理由に絶縁したのか?」「指と家を失うほどの事態とは?」「キャッチコピーのミスリード」の3点をメインに書いていきたいと思います。
ネタバレを含みますのでご了承ください。

■ 残り時間が原因?

物語はコルム(ブレンダン・グリーソン)がパードリック(コリン・ファレル)に絶縁を告げることから始まります。
昨日までは仲良くバーで酒を酌み交わしていた親友同士の二人ですが、コルムはパードリックに「話しかけるな。近づくな」と理由も伝えずに遠ざけます。
パードリックはケンカの原因が分からず、ジョークのつもりかと考えたのですが、コルムから「今後話しかける度に自分の指を切り落としてお前の家のドアにぶつける」と到底理解できない宣言をされてしまいました。
パードリックは、どうしても理由が知りたくてコルムに問いただしてしまいました。
するとコルムはパードリックを突き放すように「お前がつまらない男だからだ。残りの人生を音楽の為に使うからお前とは関わらない」と告げました。
そしてコルムは本当に自分の左手の人差し指を切り落としパードリックの家のドアにぶつけたのでした。
異常な行動にますます混乱するパードリックは、周囲の反応やアドバイスを受けコルムに食って掛かり、コルムから「今までで一番おもしろい」と評されましたが、その結果コルムは左手の指全部を切り落とし、すべてドアにぶつけたのでした。

物語の大まかな内容を踏まえた上で冒頭の問いに戻ります。
自分の左手の指をすべて失ってまで避けたい事態とはいったいどんなものなのでしょうか。
作中コルムは常に冷静のはずなのに、作曲や演奏の為に時間を使いたいと言っていた大事な指を自ら切り落とします。その後も冷静で指の痛みを感じさせず普段通りに過ごすので、鑑賞していると指を失うことの重大さをつい忘れてしまい理解が追い付かなくなります。
そのため静かに語られる絶縁の理由をそのまま受け取ってしまいそうになります。
ですがよくよく考えてみると演奏をするために使う指を切り落とすのは矛盾しているのではないかと違和感を覚えました。
本当はもっと大きな理由があったのではないでしょうか。
残念ながら作中には他に理由が語られませんでした。
そこで自分事として考えてみます。
どうしても避けたいもの。絶対に守りたいもののために指を切り落とすとしたら何に相当するでしょう。
例えば親や兄弟、友人や大切な人のためだったら。より大きなもの(信仰遵守や社会崩壊阻止)のためだったら。逆により矮小に腕ごと切り落とされるくらいなら指の方が、という理由も思い浮かびました。
これらに相当するくらいの意味合いが絶縁宣言に込められていると考えると、ますますコルムの想いが理解不能になっていきます。

彼は絶縁宣言後も、パードリックが警官に殴られたら助け起こし警官を殴り返すような人物なのです。
パードリックを嫌いになったのでしたら助け起こすことなどせず、無視をしたりつばを吐きかけたりするでしょう。コルムは彼のことが嫌いなわけではないようなのです。
「指を切り落としてでも避けたい」「でも嫌いなわけではない」というコルム自身でなければ理解も納得もできないような振る舞いに対し、僕はひとつの答えにすがり付きました。
「そもそも理解可能な理由など無いのでは」と。

イニシェリン島という狭い共同体を穏やかに過ごすためには当然人間関係を保つことが大事です。
それを壊してでも貫く信念があるのだとしたら、その答えは狭い共同体の中には無く外部に存在します。
コルムは教会に足を運びますが神父と言い争うなど信心深くは無いようです。
共同体よりも、宗教よりも大きな何かのためにこのような振る舞いをしている。
こう考えるのが僕は一番納得できます。

■ 指と家を失った側からの手打ち

当人以外には理解が出来ないほど遠大な理由を持つであろうコルムの振る舞いは、コルム自身も予想しなかった出来事を引き起こしてしまいます。
パードリックが家族同然でかわいがっていたロバが、コルムの指を誤飲して死んでしまったのです。
悲しみに打ちひしがれるパードリックに心から哀悼の意を告げるコルムですが、パードリックの怒りは収まらず、14時にコルムの家に放火すると宣言します。14時は彼らがいつもバーに向かっていた時間です。そしてパードリックは家の中にコルムが居るのを知りながら宣言通り火を放ったのでした。

イニシェリン島から見える本土では毎日のように砲撃が飛び交い終わらない内戦が続いています。
そしてパードリックからもコルムに対し宣戦布告が行われたのでした。
一方コルムはパードリックの悲しみを理解し、家を焼き払われても、焼き殺されそうになっても「これて手打ちにしよう」と休戦を提案します。
ですがつまらない男から変貌したパードリックはそれを拒絶し、二人の関係は今後ますます激化していくのであろうと想像させて物語は幕を閉じました。

コルムはここでも理解不能な振る舞いをしました。
家に居る状態で火を付けられ、逃げる素振りも見せず、殺されてしまうところだったのです。
ここからも「残りの人生を音楽の為に使いたい」という理由が嘘だったのではないかと推測できます。
そしてコルムは殺そうとした相手に対し、左手の指と家を失った状態で「これで手打ちにしよう」と提案するのです。
パードリックの想いを尊重し、ロバの死を共に悼むかのようです。
ここも自分事として置き換えてみたいと思います。
家を焼かれ殺されそうになってなお、相手に「これで手を打つ」と言える状況というのはどんな時でしょうか。
僕だったらまず家の建築費用と慰謝料を受け取った時に「わかった。これで全て水に流そう」と言えると思います。こちらは指まで失っているのです。何か貰わなければ収まりません。
それなのにコルムは失った状態のまま手打ちを提案したのです。
そこまでしてパードリックと関わりたくない理由はやはり僕にはわかりませんでした。
もちらん家に火を付けるような相手をもはや親友と呼べるはずも無いことは理解できますが、どうやらコルムは放火については怒ってもいないようなのです。
コルムの振る舞いは理解できない。ただ彼の佇まいは信頼に値する。
この映画的な演出により理解不能という混乱と共に、どこか言語を超えて納得させられる部分がありました。
戦争勃発やロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まるきっかけが理解不能なように。
この世界はそもそも僕ごときには理解できないほど複雑で不条理である、ということだけは強く理解できたのです。

■ キャッチコピーの違和感

以上を踏まえて、本作のキャッチコピーについて考えてみたいと思います。
日本版は「すべてがうまく行っていた、昨日までは。」です。
オリジナル版は「everything was fine yesterday(直訳:昨日はすべて順調だった)」です。
どちらも昨日以前と今日以降の大きな違いを示唆しています。
「すべてがうまく行っていた」「すべて順調だった」というのは普通に考えるとパードリックの視線でしょう。
ではもしコルムも同じ想いだとしたらどうでしょうか。
昨日は今まで通りパードリックや他の飲み仲間とバーで酒を酌み交わし談笑した。
だが今日は昨日までとは違う。
コルムもパードリックと同じように絶縁の原因をよく理解しておらず、ただ絶縁しなければならないという感情が訪れたのかも知れません。指を切り落とすほどの覚悟と共に。
嫌いになったわけではないパードリックに対し、彼が絶縁を受け入れてくれるとしたらどんな方法が最適かを優しいコルムは考えたでしょう。その結果自らを傷つける行為をひらめいたのではないでしょうか。パードリックを傷付けて絶縁する方法は思い付きすらしなかったでしょう。
自傷行為はキリスト教の教えに背く行為であり、コルムを親友として大切に想ってくれているであろうパードリックにとっても避けて欲しい行為のはずです。
でもコルムの望むような結果とはならず、指一本では済まず、やがて家族同然のロバを死なせてしまい、我が家に火を放たれてしまいました。コルムにとっては家と指を失い、パードリックにとっては放火犯の大罪を背負うことになりました。そう考えると焼死を免れたのは死にたくないというよりもパードリックに殺人の罪を背負わせないためなのかも知れません。
この世の行いは絶対に願うようにはならない、というテーマは前作の『スリー・ビルボード』でも描かれていました。
これらを踏まえてまとめてみたいと思います。

■ まとめ

僕はコルムが作中に語った「つまらない男だから云々」の絶縁理由は嘘だと考えます。
そして「すべてがうまく行っていた、昨日までは。」というのはパードリックだけでなくコルム自身にも起こったことなのではないかと考えます。
この世は昨日と同じように今日は訪れません。
それが誰の身に起こるかもわかりません。
理解不能な出来事は、理不尽にもいつか我が身に巻き起こり、絶対に願う通りにはならないのです。
前作『スリー・ビルボード』では分かり合えないであろう二人がなぜが分かり合い魂の結び付きを感じさせました。不条理なこの世の中でも希望が見出せるようなラストです。
一方『イニシェリン島の精霊』は対立構造のようになっていて、お互いに同じような世界を見て、同じような体験が訪れながらも、片方は絶縁を申し出、もう片方はいつまでも復讐し続けると宣言します。
分かり合えているにも関わらずお互いに傷つけ合わなければならない理不尽さ。
とても悲しみに満ちた映画なのだと改めて感じました。

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