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【映画】『PERFECT DAYS』鑑賞後に頭の近くに漂ってる淡い感覚をまとめました

いまだに『PERFECT DAYS』に思考が引きずられている。
「引きずられる」だとネガティブな感じだから、言い換えると「側頭部の近くを漂っている」という感じが近い。

※前回記事 世界を愛するか、社会にすがるか【映画】『PERFECT DAYS』の世界観


鑑賞後いろんな人の感想を拝読し、新たに思いついたことを書いていきたい。
すでにご鑑賞いただいている方には「そうそう、そんなこともあった」と思っていただけたらありがたいです。
以下ネタバレを含む。

■缶コーヒーを補充する人

本作は平山(役所広司)の仕事に対する向き合い方が注視されているため、意識がそちらに傾くが、彼が毎朝自動販売機で購入する缶コーヒーが品切れにならないのも、この映画には登場しない誰かが補充しているおかげであり、平山の毎朝の儀式に欠くことのできない存在だ。
そして平山は、仕事を真摯に全うする缶コーヒーを補充する誰かに対しても日々感謝しているであろうことが、この映画を観れば誰にでも伝わる。このように観客は、描かれていない部分にまで想像を広げ続けていることだろう。
それが本作の魅力を高めている。

■施錠しない平山

平山は施錠しない。家の玄関や部屋の窓。それに仕事で使っている車も施錠していなかった気がする。
これはある種の映画的表現のように感じた。
平山は精神を閉ざさない生き方をしている。その比喩、というような。
姪のニコ(中野有紗)が家出してきた時は家に施錠していたらしいが見落としていた。
守るべきものがある時には施錠するのだろう。
もう少し自分を大事にして欲しいが。食生活とか。

■浅草駅地下の居酒屋の昭和と令和

席に着くと「おかえりー!」と出迎えてくれる店主(甲本雅裕)の人柄が気持ち良い浅草駅地下の居酒屋は、見る位置によって昭和にも令和にもなる象徴的な場所だ。
ある意味「時代に取り残された店」とも言えて、その店に足繁く通う平山の人となりを説明するのに十分なシーンだ。
平山のことも店主のことも好きになるだろう。

■居酒屋のママにひいきにしてもらってご満悦な平山

美人ママ(石川さゆり)が居る居酒屋も印象的なお店。
他の客よりもひいきにしてもらって嬉しそうな平山が愛らしく映る。
胸ポケットに忍ばせた文庫本に気付いてもらえるというのは、読書好きな人であれば誰もが嬉しくなるシチュエーションでは?

■母親の不在、ニコの父親の不在

平山は姪と妹(麻生祐未)に会い、妹の口から父が認知症であることを聞く。
この時母親については語られない。
また、姪の父親(つまり妹の夫)についても語られない。
そして平山自身も結婚経験があるのか、その場合子どもがいるのか、ということは語られない。

もしかしたら平山は「父性」というものを信頼していない、もしくは嫌悪感のようなものを抱いているのかもしれないと感じた。
平山が父性を忌避するのは、母親が幸せそうに見えなかったのが原因のひとつなのかも知れない。

■綺麗すぎるトイレ

批判として「トイレが綺麗すぎる」というのをよく見かける。
鑑賞時は「平山が常に綺麗にしているんだな」としか思わなかったし、映画作品としてわざわざ汚物を映さないだろうとも思った。
そもそも物事を全て記述したり映像に収めることなど不可能に決まっているではないか。
1日は24時間あるんだぞ。24時間の映画なんか見れるわけないだろ。

■ホームレスが他の人の目に入らないという風刺

ヴィム・ヴェンダース監督が「公園のホームレスは他の人には見えない」ということを語っており、それをそのまま受け取る方がいるが、これは平山にしか見えない存在という意味ではなく、他の人はホームレスが存在していないかのように扱っている、という意味だろう。
ホームレスは邪魔な存在、汚い存在、見る価値が無い存在、という認識を持つ大多数。それに対して、居て欲しい存在、表現者という存在、見る価値がある存在、という認識を持つ平山との対立図式だ。

■性格が悪い批判へ

今作に対して性格が悪い批判をする人が結構居て、それに賛同する人も結構居ることが悲しい。
認知の歪みということなのか。
この映画を観ても偏った見方になってしまうのは性格が悪いからでは?と思ってしまう。
「気付かれてない部分をあばいてやった。それがバズって嬉しい」という価値観の持ち主なのか。

キャッチコピーの「こんなふうに生きていけたなら」というのに対して、「トイレ清掃の仕事をして清貧に暮らせってことか」という見方をする人もいる。
僕は鑑賞後に「側ではなく内面。他人による評価ではなく自分だけの評価。数値化できるものではなく精神的な豊かさ」を描いた作品だと受け取った。
平山と同じ生活をしろ、という意味ではないに決まってるだろ。
監督が言うように、みんなの中に「平山的素養」があって、それぞれが自分の中にある精神的豊かさを発見し尊重して生きれば良い。
決して平山の真似をすれば幸せになる、という映画ではない。

こうなってくると、性格が悪いから変な見方をあえてしてるのか、それともそもそも詩的表現を感受する経験が少ないせいなのかわからなくなってきました。
今作の気に食わない点をあげつらって悦に入るのはあまりにももったいなさ過ぎます。
「10のうち2ッスよー」と評価を下すのではなく、自分だけが愛せるポイントを探すための視線を持ってみるのも良いと思います。

■まとめ

2024年になってますます「性格が悪い人」が生き残れないような社会になっていると感じる。
言い換えるならそれは「利己的な人」であり「他責思考の人」であり「言い逃れをする人」だ。
つまり「自分は正しい。自分は間違ってない。自分は悪くない」という人。
以前からこういう人たちは周囲にはばれてはいたものの、権力に守られたり口の上手さで生き延びてきたのだろう。
だが最近はSNSによる監視で白日の下にさらされる。

今後はそれが加速するだろう。
AIが性格の悪い人を検知してその人のアカウントのスコアを下げたり、感受性が高く見る目もある人によって性格の悪さを見抜かれていくはずだ。

多くの人が鑑賞後に平山のことが好きになり、平山が愛しているこの世界のことが好きになり、平山が存在しているこの世界のことが好きになったはずだ。
嫌いな物を数えるより、好きな物を数えて生きた方がずっと充実した人生になる。

この映画は僕やあなたが幸せになるために人生に必要な映画だ。

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