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世界を愛するか、社会にすがるか【映画】『PERFECT DAYS』の世界観

世界を愛するのが上手い人と苦手な人がいる。
平山(役所広司)は渋谷区の公衆トイレを清掃する仕事をしている。スカイツリーが近くにある足立区で暮らしており(訂正:車のナンバーが足立区なだけで、墨田区に住んでるそうです)、毎日渋谷区と家を車で往復している。
休みの日は木漏れ日を撮影したカメラのフィルムを現像に出し前回の現像分を受け取ったり、古本屋で100円の小説を買ったり、行きつけの居酒屋でママ(石川さゆり)の歌声に身をゆだねたりして過ごす。
言葉にすると毎日が同じことの繰り返しにしか感じられないが、平山にとっては日々世界に感謝し幸せに暮らしている。それは彼の所作や微笑みからわかる。
そう、彼は世界を愛するのがとても上手いのだ。
彼は音楽を愛している。小説を読む時間を愛している。植物を愛している。木漏れ日も、枝葉の影のゆらめきも愛している。トイレ清掃に誇りを持っているし、態度の悪い人々のことすら愛している。
このように書くと聖人君子のように感じられるが、決してそのようには描いていないのがとても巧妙だ。
(シフトがいっぱいいっぱいで自分の時間が削られてしまうことに不快感を示すシーンが象徴的だ)
平山の日々の暮らしを見て自分と近いと感じた方も多いだろう。
一方、面白みを感じなかったり遠い世界の話だと感じた方は、世界を愛するのが苦手な人だろう。

その違いが何か。それは平山と妹、そして姪の存在によりわかりやすく比較されている。
以下ネタバレを含むが、ネタバレというほどのものは存在しないように感じる。
それは僕やあなたの日々にネタバレなど無いのと似ている。

■社会に縛られて生きるか、世界に融解して過ごすか

世界を愛するのが上手いか苦手かは、世界を味わえるか社会を抜け出せないか、で比較することが出来る。
【世界】というのは物質だけでなく精神や思考、過去や現在や未来など見えるものと見えないもの、触れられるものと触れられないものを含むこの宇宙全体のこと。
【社会】というのは物質や介在するアクセス可能なもの全体のことを指す。

平山には特定の信仰する宗教は無いようだが、彼の日々の過ごし方を見ていると敬虔な修行僧のように映る。
彼はこの世界を信仰しているのだ。
平山とは逆に、妹(麻生祐未)は極めて社会的な存在として描かれる。
資産家の父の跡を継いだ妹は、兄である平山とは別世界の住人だ。運転手を従え高級車に乗る。兄の仕事が公衆トイレの清掃員であるのを知り不快な表情が出てしまう。なぜなら金持ちの方がトイレ清掃員よりも上だと思い込んでいるからだ。
この映画が巧妙なのは、妹が決して嫌な存在として描かないところにも表れている。
平山は妹のことを強く想っているし、姪のことも愛しているし、姪の人間性から妹の子育ての素晴らしさも伝わっている。ただ、平山と妹とでは住む世界が違うだけだ。
すなわち、平山は【世界】でしか生きられず、妹と資産家の父は【社会】でしか生きられないということだ。

では姪のニコ(中野有紗)はどちらの住人か。
それは、社会に違和感を感じ世界に生きたい存在として描かれる。

■社会と世界を行き来して生きるニコ

ニコは母親と喧嘩をして家出をし平山のところにやってきた。
家出するとしたら平山伯父さんのところにすると以前から決めていたようで、それを聞いた平山は「なんだよそれ」と頬をゆるませる。
おそらくニコは幼少期から母と伯父さんは違う思想の持ち主であると嗅ぎ取っていたのだろう。

平山の部屋にあった短編集『11の物語』(パトリシア・ハイスミス著)に登場するビクターを自己と重ねるニコ。
未読のため内容を検索してみると、母親から可愛い男の子というカテゴリに押し込まれた少年がビクターらしい。
ニコも母親から社会性の檻に閉じ込められそうになり、そこから抜け出してきたのではないか。
母親に連れ戻されそうになった時、ニコは平山に「私もビクターみたくなっちゃうかも」と耳打ちし、それをたしなめられる。
小説ではビクターはその後、母が買ってきたスッポンをペットとして愛でるも、料理用のスッポンであったため調理されてしまい、思わず母親に危害を加えるという展開らしい。平山は姪の冗談をたしなめ、いつでも会いに来なさいと優しく告げる。

改めて【世界】と【社会】の違いをわかりやすく対比させてみよう。

【世界】見えないもの、感情が動くもの、理解不可能性、優劣が無い、有り得なさに気付く、ありとあらゆるもの全て
【社会】見えるもの、数字に変換できるもの、理解可能性、優劣を競う、確証があるものにすがる、アクセス可能なもの全て


平山は世界を生きている。世界にしか生きられない存在である。
毎朝空を見上げて空の違いを愛することが出来、木々のさえずりや影のゆらめきを愛することが出来る。
平山の父と妹は社会にしか生きられない存在である。
おそらく資産価値を大事にし、ニコが世間に出ても恥ずかしくない女性になることを望んでいて、兄がトイレの清掃員であることを恥だと思っている。

そしてニコは母親の下で生き、時々伯父さんのもとを訪れて生きるだろう。
ニコにとって社会はつまらなく、世界にこそ生きる価値があると感じている。
伯父さんの生き方の方が誇らしく見えるし、輝いて見えるからだ。

■仏教観を獲得して平山的にこの世界を見つめる方法

平山の生き方はとても仏教的だと感じた。
それは平山の眼差しからも感じたし、姪との会話からも感じた。

この世界は、いくつもの世界が存在し、決して交わらない世界もあると姪に説明する平山。
自分と妹(と父親)が決して分かり合えないことを示唆している。
同じシーンで、姪に「海に行きたい」と言われ「今度行こう」と返すと、「今度っていつ?」と聞かれる。すると平山は「今度は今度。今は今」と返す。
今度とは決まった日付のことではない。もしかしたら今度はずっと来ないかも知れない。でも「今度海に行く」という約束を交わす。それは今ではないいつかだ。

平山は妹のことが嫌いなわけではなく、妹もそれは同じだ。
ただ世界が違う。世界が違うから共に生きられない。
平山が世界を見つめている時、妹は社会を押し付けてくるわけで、共に生きられないのがとてもわかりやすく、そしてとても悲しく描かれる。

撮影に失敗することがあるフィルムカメラ。
ホームレスの肉体表現。
空。
カセットテープの曲。
毎日汚れ、毎日綺麗にする公衆トイレ。
平山のことを忌避する社会を生きる人々。
きっとこれらのことを妹は愛せないだろう。
平山は愛せる。この世界のすごさに撃ち抜かれているからだ。

木漏れ日を撮影していると、姪が平山にたずねる。
「あの木は伯父さんの友達なんだね」
平山は友達という表現が気に入ったようで、木に優しく触れる。
そしてこのシーンは姪のニコの豊かな世界観が描かれている僕の好きなシーンだ。

■世界は残酷だ そして世界は素晴らしい

平山は、姪と妹、そして居酒屋のママの元夫(三浦友和)に出会い日常が変化する。
ありきたりな言葉で言うならそれは「出会いと別れ」だ。
分かり合えないことを改めて確認し合い、おそらくもう会わないだろう妹との別れ。
ママの元夫が癌でおそらく余命がわずかであり、そのため色々な人に会いに行くという小さな旅を続けていることを知る。そして親友のような瞬間を体感するが、おそらくもう会うことは無いだろう。
愛する妹とも、束の間の親友とも、もう会うことは無いという残酷な世界を生きている平山は、それでもこの世界を愛さずにいられない。
それが映画ラストの彼の表情だ。
喜怒哀楽どれでも無いようで、どれでも有るような表情をする。
悲しみの涙なのか、この美しい世界を讃える涙なのかわからないし、どちらでもあるような涙だ。

Nina Simone『Feeling  Good』が車中に流れる。
歌詞の内容を意訳するとこうだ。

鳥の視線、太陽の気持ち、新しい日、新しい世界、星の輝き、あなたの人生の輝き、私の人生の輝き、全てが言葉ではなく実感できる
とても幸せな気持ちだ


数枚に1枚の美しい木漏れ日の写真。木と触れ合う姪っ子の姿の写真。まだ見ぬ名著。計算不能な出会いと別れ。勝敗がつかない○×ゲーム。社会に埋没してしまった後輩(柄本時生)。
全てが愛おしい。
平山を苦しめたり傷つけたりするものも当然あるし、平山のことを社会に引き戻そうとするものも当然ある。それでもこの世界は豊潤で美しい。そしてそれは人生を賭ける価値がある。

■最後に

最後までお読みいただきありがとうございます。
あなたは世界を愛するのが上手ですか?それとも苦手ですか?
もしも苦手で、だけど愛してみたいと思っているのであれば、本作はとても大きなヒントをあなたに与えてくれることでしょう。
もし本作を鑑賞しても何も感じなかったり、つまらないと感じるのであれば、きっとあなたは社会を生きるのが得意なのでしょう。それはとても幸運なことです。ただ、この社会を生きるのが苦手で、世界を生きるしかない人がいるということを知っていただけると嬉しいです。

久しぶりにとても素晴らしい映画体験、世界体験が出来ました。
役所広司さんをはじめ、ご出演なさった皆さん、ヴィム・ヴェンダース監督、脚本の高崎卓馬さん、その他スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。
社会を愛する人も世界を愛する人も、皆さんに祝福の日々が訪れますように。

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