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映画『Village』がこの現実と地続きになっている理由

とても救いのない物語だ。
父親が殺人を犯し直後に自殺。母親(西田尚美)がギャンブル依存症。そしてその息子の片山優(横浜流星)は親の借金のために村のゴミ処理施設でいじめに遭いながら抜け殻のように働き続けている。

以下ネタバレを含む。


能の「邯鄲」という演目が作中に登場するため内容を調べてみると、この映画は「邯鄲」をなぞらえていることがわかる。

「邯鄲」について要約してみる。

にわか雨が降ったため宿に行くと、そこには自分の人生の行く先を知ることができるという邯鄲の枕があった。
女主人から一眠りしている間に食事の用意をしておくと言われ、男は枕で眠りにつく。
目を覚ますと豪華絢爛な王の暮らし。
酒を飲み舞を踊り喜ぶ。
50年過ごし、やがて神仙へと到達した彼は様々な季節や春夏秋冬の花々草木が同時に存在する不思議な体験をする。
そしてふと目が覚めると宿で眠りに落ちていたことに気づき女主人から食事の用意が出来たと告げられる。
栄華の暮らしは夢だったと気付いた男は50年の幸福も一炊の夢のようなものだと悟る。

■ 絶望を悟れ


「邯鄲」の男は栄華の50年も一炊の夢のようなものだと悟る。
では『Village』の優はどうか。
絶望の中を生きる彼はかつての幼なじみである中井美咲(黒木華)と再会する。
雨の中美咲の家に行き「邯鄲」の面をもらう。
美咲と恋仲になり、母親も更生し、少しずつ生活が上向きになり、村長から認められ酒を飲み能の振りを舞う。
だが事態は急転直下。美咲を襲う大橋透(一ノ瀬ワタル)を間一髪止めるも逆に一方的に殴打されてしまう。それを止めようとして美咲は透の首に刃物を突き立てる。そして透の死体を遺棄。
透という反社会的存在が消えたことでゴミ処理施設は労働環境が改善され、村は観光地としても輝き出す。
だがその輝きはほんの一瞬で潰えてしまう。
感染症廃棄物の違法廃棄が発覚。死体遺棄もばれてしまう。そして事件のもみ消しを促された優は村長を殺害し放火する。
結局優は父親と同じような振る舞いをし、さらに絶望の底に到る。おそらく死刑判決が下されるであろう彼の行く末は一瞬の輝きがあったからこそ余計に闇の黒が色濃くなっている。

以上のように『Village』は「邯鄲」をなぞりつつも、性質は正反対に絶望を観客に突きつけてくる。藤井道人監督が描く作品は、見たくなかったこの現実の暗黒面を描く。
犯罪者の息子で借金を背負わされた優はどう足掻いてもずっと絶望から抜け出せていなかったということだ。

■ ゴミ処理施設問題


村の存続とゴミ処理施設の問題はとても難しい。
村の良さを捨てて金を得る。
村の中での賛成派と反対派の対立がこの作品では事の発端となっていたが、本当の問題は我々にこそある。
現代的な暮らしを止めることができない我々は日々ゴミを吐き出し続ける。そしてそれらのゴミは我々の見えないところで処理されている。
わかりやすくするために論説をあえて飛躍させるが、片山優が絶望の道を歩いているのは我々の責任でもあるということだ。
村を統べる大橋ふみ(木野花)でも、その母に愛されるために過剰に村を守ろうとする大橋修作(古田新太)のせいでもない。
優をいじめる大橋透のせいでもない。
優の凶行を止められなかった大橋光吉(中村獅童)のせいでもない。
快適な暮らしを維持するために嫌なことを外に押し付け続けている我々のせいだ。

■ まとめ


優が犯罪者の父親と同じ轍を踏むように殺人を犯し家に火を放ったのは、決して村からは抜け出すことができないという決定論のように感じてしまう。
冒頭の穴から優にだけ聞こえた息づかいは、絶望の底に落ちた少し先の優のものだったのだろう。

エンドロール後に美咲の弟(作間龍斗)が姉のキャリーバッグを引きながら村を出て行った。吃音で引っ込み思案の彼はきっとどこにも馴染めないままいつかまた村に戻ってくるだろう。
ゴミ処理施設の問題は、ゴミ処理施設を無くせば全て解決するわけではない、ということがあのシーンだけで伝わってくる。
映画では解決策は描かずひたすら絶望だけを描く。
なぜならこの問題を解決するのは映画の中の登場人物ではなく我々だからだ。

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