一領具足⑨

「信長はなんと残酷なことをする」

元親は、荒木村重とその家臣の妻子が殺されたことに憤った。


武士はその発祥から、相矛盾するふたつの志向を持っている。

ひとつは、死を望む傾向が強いことである。武士の切腹や殉死などに、武士の死を強く望む性向が出ている。

もうひとつの矛盾する志向は、生きようと思えばとことん生き抜く性向であった。これは足軽から大名まで共通している性向で、大名はしばしば、領地を失っても生きながらえたりすることがあった。

信長は、最初の頃は占領した地の大名は追放していた。斎藤龍興や六角承禎などがそうやって生き延びていた。

大名を追放し、生かすメリットはあった。その寛大な措置により、占領地の土豪が慕って傘下に入ってきてくれることである。しかしまた、追放された大名も、他国で賓客として扱われ、政治利用された。

信長もこういうグレーな存在を長い間残してきたが、天下に織田家に対抗できる勢力がなくなったことで、敵対した大名は殺す方針に転換した。

その際、「領民を戦火で苦しめておいて、領主は土地を捨てて逃げて良いのか」という命題を、信長は敵に与えた。

この命題により、領主は城が落ちる時に、自らが落ち延びることができず、城を枕に討ち死にするか、落城、開城の際に切腹する運命となった。

敵が信長の作った新ルールに逆らい、あくまで逃げようとした場合どうなるか?

大名や家臣の妻子が、皆殺しにされるのである。荒木村重とその家臣の妻子のように。

信長の後、秀吉により大名はより公的な存在となった。そして大名は私的な部分を失っていった。

天正8年、播州の別所長治の切腹により、三木城が開城した。


(いくさを続ければ続けるほど、土佐一国主義になっていく)

元親は思った。

一領具足は土佐以外からも募集している。しかし土佐以外から一領具足が来ることはほとんどなかった。

史上最大の帝国を築いたモンゴル人がモンゴル人第一主義を取ったように、四国平定戦が進むほど、土佐人は土佐人だけを頼みにするようになっていった。

「我らは土佐の一領具足ぞ」

と、貧乏郷士にすぎない一領具足達が群れ集い、国人領主相手にも頭を下げることがない。元親もこの状態は黙認せざるを得なかった。

それに、問題は他にもあった。

改革をしようとすればするほど、他の問題と衝突する。

(戦費が足りない)

元親は御用商人に物資を優先的に購入できる権利など大幅な特権を与え、その代わり商人に戦費を出させた。

すると御用商人が特権を持っている分野では、商人が育たなくなり、物価も高くなった。

そこまでしてもやはり戦費が足りないので、漁業のかつら網や塩に税金をかけ、船舶や積荷に十分の一税をかけた。

(他国から鉄砲を買うと高い)

ということで、土佐国内の職人の育成に努めた。

また城下町を作ろうともした。

(岡豊は地が狭く、土佐の中心に向かない。やはり大高坂だな)

元親は思った。大高坂とは、現在の高知市のことである。

しかし、大高坂は家臣の土地で、元親が大高坂を拠点にするには、家臣に別な土地を与えて移動させなければならない。

それができなかった。土佐は今戦時体制で、上下皆、いくさに人も金も全てを注いでいる。

そのような時の配置替えは負担になり、ともすれば暴動になる危険があった。

やむなく、岡豊と白地に城下町を築こうとした。

いざという時に軍隊の移動が速くできるように、家臣を城下町に集めようとした。しかし土佐は村落領主が多く、家臣達は城下に集まってこなかった。

信長は昨年(天正七年、1579年)に、井戸才介という、安土に屋敷を立てて妻子を住まわせようとしない武士を成敗しているが、それも武田や上杉という脅威がなくなったことでできることだった。目一杯に土佐の兵を四国平定に使っていれば、内政に力を入れる余裕がない。

(物が安ければ集まるか)

とも思ったが、楽市楽座をするでもなく、長宗我部家の御用商人が幅をきかせている岡豊に商人を集めようとしても、商人が集まってこない。

(ならば道路を整備すればどうだ)

と元親は考えたが、土佐の土民の多くが他郷で戦っている中で、信長がやったように、道を広げて真っ直ぐにするということはできなかった。

せいぜい一里ごとに一里塚を置き、道路を利用する者が位置を把握できるようにし、計画的に物資の運搬ができるように図るだけだった。

(そろそろ淡路島に侵攻できるようにしなければ。それには水軍じゃ)

元親は、瀬戸内の村上水軍にも負けない水軍を作ろうと計った。

さながら近代国家を作っているようだった。

(このような国にしたいと思うのに、うまくいかない)

そう思っているうちに、変化がやってきた。

信長から阿波、讃岐、伊予の三州から撤兵するようにと要求してきたのである。

条件は、元親に土佐と阿波の半国を安堵することだった。

元親は、背筋が凍りついたような衝撃と共に、小動物のように周囲の気配を伺った。

(今この時に、なぜ信長は儂と手切れをしてくるのか?)

情勢の変化には、変化するだけの理由がある。その変化を解明しないと、正しく対応できず、中途半端な対応をして身の破滅に至ることにもなりかねない。

(信長は丹波八上城を落とし、摂津伊丹城を落とし、播州三木城を落とした。確かに信長が四国に手を出す条件は整いつつある。しかしまだ石山本願寺が残っている)

石山本願寺は勅命講和により和議が成立しており、本願寺法主顕如は大坂を退城していたが、まだ嫡子の教如が大坂に残り、抗戦を唱えていた。

(四国に兵を送るにしてもまだ間があるし、四国に兵を送ってくるにしても、信長は部将を派遣して、全面衝突にはならないだろう。ただーー)

元親は、淡路島のことを考えた。

(まだ淡路島に手を出す段階ではない。今は四国で領土を拡げる時。来たるべき織田軍の来襲に備えてな。織田軍が淡路に来る時には、奥から情報が入るだろう)

元親は、正室の兄の斎藤内蔵助利三から情報が入るだろうと考えた。

「我が分国は信長によって与えられたものではない。この元親が一代で切り取ったものだ。信長の好きにはさせぬ」

そう言って、信長からの使者を追い返した。

三好康俊は元親を裏切って織田方につき、元親の支配圏を侵してきた。

元親は、人質にしていた康俊の嫡子の俊長を送り返した。

康俊は感動し、感謝を述べる書状を送ってきた。裏切りの多い三好一族だからこそ、感動もひとしおだったのだろう。

「さすがは殿、器が大きゅうござる」

と、土佐では上下ともに元親の評判が上がった。しかし元親は、

(何が足りてない、何かが及んでない気がする)

と、内心の焦慮を抑えることができなかった。

「我らは殿に従う、何なりとお命じ下され」

と、香川信景が言ってきた。

元親は感動した。

(儂は讃岐の西半分を支配する、香川信景が心酔するほどの男なのか)

と、元親は多少の自信を取り戻した。

元親は始めて、年貢を六公四民にした。

そして一層の四国平定戦に乗り出した。香川信景は長宗我部軍の中でも特に、手を砕いて働いた。


時は遡り、天正8年(1580年)

波川清宗という家臣がいた。

土佐は面白い土地で、古代からの豪族の子孫を称する者が多くいる。元親の長宗我部氏も秦氏の子孫である。

波川氏は蘇我氏の子孫を称していた。かつて元親と戦った、安芸国虎も蘇我赤兄の子孫だという。

日本では平安時代から、源平藤橘という4つの氏族の子孫も称するのが流行になったが、土佐は中央から遠いため、その風潮にやや乗り遅れたらしい。そのかわり、土佐人は他国の者に比べて質朴である。

さて、その波川清宗。

一条兼定を追放するのに功のあった家臣で、元親は自分の娘を与えていた。

しかしこの波川清宗が、河野氏とのいくさの最中に、毛利氏に通じてしまった。

その罪で、蟄居させられていたが、それを恨みに思って謀反を起こした。清宗の一族はことごとく誅殺された。

ところが、清宗の謀反に、土佐国司の一条内政が加担していたという噂が流れた。

元親が流した噂だった。

元親は土佐の人民の反応を見た。

土佐人は、内政に同情的でなかった。

(これでよし)

土佐は一条氏より、元親という不世出の英雄を求めていた。

このまま一条内政をそのままにしておけば、信長が手を伸ばして、内政に謀反を起こさせようとするだろう。

しかし時勢は、かえって元親の元に、土佐の士民を結束させた。

(ここまでは、信長相手に対応できているはずじゃ)


信長と石山本願寺の和議が成立した後、柴田勝家の軍勢が加賀になだれ込み、一気に加賀を占領してしまった。

勝家の率いる北陸方面軍は、多方面展開する織田軍の中でも、特に進捗の遅れている軍だった。

勝家は何年もかけて、加賀の半分も取ることができなかった。それだけ一向一揆の本場の加賀の抵抗は頑強だった。

それが一気に崩れたのは、本願寺が信長と和睦したからで、一揆勢としては抵抗する理由を失ってしまったのである。

こうして勝家がようやく北陸を平定できるようになり、信長の領土が広がる条件が整ってきた。

6月、羽柴秀吉が因幡、伯耆を平定した。

そして8月、本願寺の教如が大坂を退去し、石山本願寺が焼亡した。信長にとっての最大の敵だった石山本願寺が消え、畿内で信長に敵対する勢力はなくなった。

天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は再び因幡に出兵し、鳥取城を包囲。8月に毛利が鳥取城を救援するという風聞があったが、信長が毛利の来襲には信長自身が出陣して対応する意志を表明すると、毛利の来襲の話は立ち消えになった。

10月、鳥取城陥落。伯耆国の羽衣石城を毛利の吉川元春が攻め、羽柴秀吉が救援した。

11月、羽柴秀吉、淡路国を平定。


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