一領具足⑮

(いずれこの日が来ると思ってはいたが…)
元親は呆然としていた。どこから手につけたものやら。
方途がつかない。
準備はしていた。
元親は一領具足6000を含む40000の軍勢を動員していた。多方面作戦になるので、元親は白地城に本陣を構えて、適宜に派兵するつもりだった。
しかし、羽柴軍の方が数が多い。羽柴軍は110000を超えているのである。
伊予では、先鋒として小早川隆景の軍が今治に上陸していた。
小早川軍の最初の攻撃目標は、宇摩を支配する石川氏と、東予の新居郡を支配する金子元宅だった。
金子元宅は、東予のまとめ役であり、元親の伊予平定において最も功のあった伊予の豪族である。
元宅の妻は石川家の出身だった。
元宅は石川家に行き、毛利軍と戦うか、降伏するかについて話し合った。
元宅は言った。「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本懐ではない」
元宅は30000の小早川軍相手にいくさをすることにした。金子軍2000。
小早川軍は東予に波のように押し寄せ、城を呑み込んでいった。
元宅は自ら兵を率いて援軍を送ったが、とても敵わない。やがて金子城も陥落した。
元宅は氷見の高峠城に入った。
「勝負は時の運、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れ矢尽きるまで身命を賭して戦うべし」
と、元宅は言った。
元宅は敗兵をまとめていった。2000いた将兵は討死したり逃亡したりして、600しか残っていなかった。しかし元宅は、
「おお、まだ儂に600もついてきてくれるか」
と言って笑った。
元宅は小早川軍を高峠城に引き付けて戦ったが、衆寡敵せず、城方の兵はことごとく討ち取られていった。いよいよ残り100人となった時、元宅は高峠城に火を放ち、大手門を開けた。
大手門の外は野々市ヶ原という。
「おお!」
小早川隆景は、元宅のいくさぶりを見て感動した。
元宅は手当り次第に小早川勢を倒し、最後に鉄砲で撃たれて死んだ。
やがて東予衆に動く者がなくなると、隆景は甲冑の上に法衣を着て、弔いの舞いを舞った。

讃岐では、西讃の陣代に入交蔵人を、弟の長宗我部親吉に讃岐全体の武将を統率させた。元親ーー親吉ーー入交蔵人という上下関係を作って、軍隊組織を有機的に動かそうとしたのである。
しかし宇喜多、蜂須賀、黒田、仙石の大軍の前に、諸城は洪水に流されるが如く流されるしかなかった。
元親は、讃岐にはひとつ、仕掛けをしていた。
戸波親武の守る植田城の兵と兵糧を増やし、堀を深くし塀を高くして、羽柴軍が攻城に手こずるようにしていた。その隙に、白地城から元親が羽柴軍の背後を襲って撃滅する算段だった。
しかし、植田城の様子を見た黒田官兵衛は、植田城に構わずに阿波攻撃を優先するように主張し、諸将も官兵衛の意見に従った。こうして備前から侵攻した軍は、阿波と讃岐の境の大坂越えをして秀長軍と合流した。
(植田城も駄目か)
元親は、深い落胆と共に思った。方策といえば、植田城に的を留めて奇襲する以外の策を、元親は持っていなかった。
(植田城には、儂は敵が留まってくれるのを期待しただけなのじゃ。さりとて敵は思うようには動いてはくれぬ)
元親にとっても、植田城は良策ではなかった。四国制覇に邁進していた頃の元親なら、この策を笑って切り捨てただろう。
(人間、死にたくないと思って悪あがきするものじゃ)
そう思うと、元親は、かつて自分が倒してきた武将達を思い出した。
元親が倒した武将達も、劣勢になると悪あがきをして、よく愚策に走ったものだった。
かつて姫若子と呼ばれた元親は、いつしか敵の悪あがきを嘲笑するようになっていた。
(しかし今、儂は儂が討った者達と同じになっている)
「申し上げます」
注進が次々と来る。どの報告も長宗我部軍の不利を伝えるものだ。報告を聞くたびに、 
「〜に兵〜を送れ!」
と言った。それしかできない。
阿波では、香宗我部親泰を総大将にしたが、羽柴秀長の大軍の前に為す術もない。

ここに、谷忠澄という家臣がいた。
元は土佐神社の神主で、主に外交面で活躍していた。
秀吉の四国征伐が始まる前には、忠澄は長宗我部家の四国安堵を求めて秀吉の元で交渉をしたことがある。その時は阿波、讃岐の返上、土佐、伊予の安堵の約束を取り付けたが、それも一時の方便に過ぎなかった。
その忠澄が、
(これは、どうにもならぬ)
と、羽柴勢の大軍を目の当たりにして、忠澄は思わざるを得なかった。
忠澄は、元親の元に進み出た。
「上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、兵糧も充分にある。これに対し、味方は10人中7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲がって木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れ、腐って麻の糸で綴り合せている有様。兵糧もなく、とてものこと長いくさはできませぬ」
と忠澄は言った。降伏せよということである。
忠澄に対し元親は、
「何を言うか、羽柴と一戦する覚悟の兵はここにも国元にも18000はいる。たとえ一宮、岩倉が落ちても、海部まで退いてそこから一戦すればよい。一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ土佐まで攻め込まれても徹底抗戦する。忠兵衛(忠澄の通称)、臆病風に吹かれたそちは腹を切れ!」
と言った。
その後も降伏か抗戦かで、家臣との間で議論が紛糾した。
元親は、降伏した場合が妥協点を探ろうとした。
「土佐一国の安堵」
が、秀長からの条件だった。
(もっと条件を良くできないか)
と元親は思ったが、そこに秀吉が自ら兵を率いて四国平定に乗り出すという報が入った。
それだけでなく、秀吉が率いる軍の先鋒が淡路に入ったという。
秀長は、秀吉が出征するのを必死になって諌止していた。
(何をいう、芝居じゃ、交渉を有利に進めるためのな。秀吉は来ぬ)
と元親は思ったが、家臣から将兵に至るまで、士気が大幅に低下したのを、元親は見た。
(なんとーー敗軍とはこのようなものか)
元親にはどうすることもできない。秀吉が絶対に来ないとは、元親は言えないのである。
元親はなお逡巡した。そして7月25日、
「土佐一国の安堵の条件で、降伏する」
と、羽柴秀長に申し送った。
すると、秀吉は電光石火で越中に向かい、佐々成政を討ち、成政は降伏した。
(やはり思った通り、秀吉は四国に来る気がなかった)
と思ったが、もうどうにもならない。そのことがわかっていても、秀吉相手には戦えないのである。
(強き者には選択肢があり、弱き者にはそれがない)
それは、元親が四国平定の過程で示してきたことだった。そして今度は、元親自身が弱者に転じ、選択肢を持たなくなった。
悔しくも、戦うことはもうできない。

元親が降伏することで、四国の領土配分が行われた。
阿波は、蜂須賀小六正勝の嫡子の家政が17万石を与えられた。
正勝は既に病がちだったようで、秀吉の側近として仕えることを求め、やむなく秀吉は家政に阿波を与えた。正勝はこの翌年に死ぬ。
(やはり阿波の三好の時代は終わっていたか)
元親は思った。三好の時代を終わらせ、阿波を我が物にしようと図っていくさを続けたが、阿波は他人のものになった。
自嘲するしかない。
讃岐も阿波と同様、三好の影響を排した論功行賞が行われた。
讃岐は仙石権兵衛に与えられ、権兵衛は精通寺城主となった。
十河存保には十河城3万石が与えられた。
十河存保は、兄の三好長治が死んでから、三好姓を名乗ることもあったが、存保は三好の名跡を継ぐことを禁じられた。
では三好の名跡を誰が継いだかといえば、秀吉の甥の秀次に与えられたのである。その秀次も、前年に羽柴姓に復帰していた。
こうして、戦国の阿波の名族としての三好氏は完全に滅んだ。
伊予は小早川隆景に与えられた。この頃から、秀吉は毛利両川体制の一翼の小早川隆景を独立の大名として扱うようになる。
(なんとも他人のための骨折りだったことよ)
元親は思ったが、もはや悔しさも湧いてこない。

元親は大坂城に向かい、秀吉に拝謁した。
「おう、土佐の荒大名よ、よう来た」
秀吉は例の人たらしと言われる、邪気のない顔で豪快に笑った。
この四国征伐の途中、7月11日に、秀吉は関白に任官されていた。
この関白任官が、秀吉の天下統一のための奥の手だった。
秀吉は自らに敵対した者を手懐けるために、その大名の本貫というべき地は安堵し、また大封を与えていった。
しかし大封を与えれば、足利尊氏のように、君主の力は低下し、やがて天下はばらばらになる。
それを防ぐ道が、秀吉の関白就任だった。
関白は「延喜・天暦の治」と言われるように、律令制度による政治が正しく行われていたことを示す官職だった。
実際には藤原摂関政治が律令制を破壊したのだが、この時代の認識はそうではない。
政治はイマジネーションである。
秀吉の関白就任は、律令制度への復帰を示すものだった。
つまり、公地公民制。
近代以前、日本人は律令制度を破壊し、土地を占有して国家への義務を怠ったことに後ろめたさを感じていた。
しかし、秀吉が関白になることで、人々はその後ろめたさから解放され、争って国家に、実際には秀吉に奉仕することで、自らが正しく生きていると実感することができる。
元親も、秀吉に接しながら、その感情を抱いている。今までにない、不思議な感情だった。

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