一領具足⑦

元親は、白地城の近くにある雲辺寺を訪れた。

白地を手に入れた感慨に浸るためである。

雲辺寺の住職は、俊崇坊と言った。

雲辺寺は、四国八十八ヶ所霊場第六十六番札所である。

弘法大師空海が、自分の生まれた場所に善通寺を建てる時に、木材をこの白地に求めた。その際この地を霊山として感得し、堂宇を建立したのがこの寺の縁起である。弘仁9年(818年)、嵯峨天皇の勅命により本尊を刻んだ。本尊は千手観音菩薩である。

俊崇坊は、元親が何を求めて白地城を手に入れたのかが見えていた。

「四国を統一なさるおつもりか」

俊崇坊は、元親に尋ねた。

元親は、軽く頷いた。占領地とはいえ、こういう話は困る。敵に聞かれていい話ではない。しかし、

(なんの!)

と思う気持ちも、元親にはある。

戦国の世は、多少大きめな話をしても通るのである。

既に周辺の国人達に警戒心を持たれている以上、多少は開き直って野心のあるところを見せた方が受けがいい場合もある、

「おやめなされ」

俊崇坊は元親の意図が見えていたが、時代の流れに対する定見のある人物ではなかったらしい。

加えて、元親に好意を持っていない。

「四国を統一しようとは、薬缶の蓋をもって水瓶に蓋をしようとするようなものじゃ」

(儂は薬缶の蓋か)

元親は、俊崇坊の表現を面白がった。それにしても、俊崇坊には、四国がよほど大きく見えるらしい。

「なんの、薬缶の蓋でも、この元親という名工が鋳た薬缶の蓋じゃ。この四国という水瓶に蓋ができぬことはない」

被征服者のほとんどは、征服者を快く思っていない。それでも征服者の武力を恐れてそれを口に出すことはないが、たまに俊崇坊のように、露骨に不快感を見せてくる者がいる。

征服者にとって、そのような者の扱いは重要であった。

決して怒らず、相手を不快にさせることなく心服させていかなければならない。

「良い眺望である」

元親は、縁側からの景色を見た。

雲辺寺山は、標高911メートル。四国八十八ヶ所で最も高所にある霊場である。

「ここから見れば、阿州、讃州、予州の三州が一望できる。三州が我が手にあるも同然」

そう言って、元親は豪快に笑った。

元親の目的は、相手に呆れさせることにある。

呆れさせれば、意見が違っても、相手はそんなに不快に思わなくなる。

(それには自分をひたすら大きく見せる。それに尽きる)

元親は、雲辺寺に100石を寄進した。

何しろ、この白地城がこれからの四国制覇の震源地となる、

当然元親も、白地城に詰めることになる。そういう場所の名刹とは関係を良くしておいた方がいい。

元親の戦略は、単純である。

この白地城から、三州に大軍を派遣して平定事業を進めていく。それだけである。

当然ながら、元親の率いる土佐兵よりも、阿波、讃岐、伊予の三州の兵の方が人数が多い。四国を制覇する前に、元親の兵力の方が尽きてしまいそうである。

(それを、やる)

四国を統一するまで、土佐から一領具足を動員し続ける。

検地をより徹底し、商工業を盛んにして、農繁期でも大軍を動員できる国に、土佐を作り変えていく。

方法は簡単である。

中村御所の一条内政に、元親が求める改革の命令を出させる。

一条家は、もはや形骸化した権威だが、この権威を利用することで、必要な改革ができる。

もちろん改革をするためには、改革が必要と思わせる状況作りが必要性なる。

そのためには一にも二にも戦争である。

戦争が土佐人の危機意識を高め、一層の改革を受け入れさせる。

一領具足の継続的な動員により、土佐では階級意識が壊れ、平等意識が高まっていく。

関ヶ原の後、長宗我部家が改易され、山内家が進駐軍としてやってくるが、山内家は長宗我部家の家臣をほとんど抱え込まず、郷士として無禄なままにし、徹底して差別した。

有名な山内家の土佐郷士への圧政だが、そうでもしなければ、一領具足の平等意識を押さえ込めなかったのもまた真実である。

土佐郷士達は、江戸時代の朱子学の流行の中で尊王攘夷思想を受容し、天皇の下に万民は平等であるという意識を持つに至った。

その源流は元親の四国制覇にあり、幕末から明治にかけて、坂本龍馬や中岡慎太郎の活躍や、中江兆民や板垣退助の自由民権運動へと繋がっていくのである。


天正5年(1577年)、柴田勝家を総大将とする織田軍は、上杉謙信に手取川の戦いで敗れた。

信長の天下は、上杉謙信一人のためにその事業が完全に阻まれているかのようだった。しかし翌天正6年に謙信が死ぬと、信長の環境が少しずつ好転していく。

6月、信長は九鬼嘉隆に作らせた大船6艘と、滝川一益に作らせた白船1艘を大阪湾に向けて回漕させた。

7艘の船は7月17日に堺の町に着いて、11月に毛利の600艘の軍船が木津方面に進出してきて、織田軍の7艘の船と海戦になった。

「信長の鉄船」と言われるが、『信長公記』には「大船」と「白船」としか書いていない。鉄船というのは興福寺の多聞院英俊の誤伝である。

この海戦は織田軍の勝利に終わったが、その理由は銃火器が効かなかったからではなく、大砲を多く積んでいたため、毛利軍の焙烙や火矢よりも火力が高かったからである。もっともたった7艘の船が鉄砲や火矢を受けなかったはずがなく、相当頑丈な船だったのは確かである。


斎藤新五郎利治は、道三の末子である。

信長の美濃支配の根拠は、道三の美濃一国の譲状である。

しかし信長は道三の娘との間に子がおらず、家督を継いだ信忠も、斎藤氏との血縁関係はない。

信忠は岐阜城主だが、道三の斎藤氏が美濃の潜在的主権者だということになりかねない状況にあった。

斎藤利治は、将としての器は、秀吉や光秀、勝家ほどにあっただろう。しかし以上のような事情から、信長の方面軍司令官になる可能性はなかった。

その斎藤利治が越中で活躍することになる。それだけ信長は、現状を打開する人材を必要としていた。

月岡野の戦いで能登勢を破り、越中の中部を平定した。上杉景勝は加賀と能登への連絡を絶たれた。

このような状況下で、荒木村重が謀反を起こす。

その一方、信長の平定事業は丹波にも及び、明智光秀を丹波の八上城に派遣して、城を包囲させた。

信長の環境は少しずつ好転しているが、一進一退なのは変わっていない。


「一芸に秀でよ、多芸を欲張る者は巧みならず」

元親はそう言って触れを出した。触れを出すだけでなく、元親は暇があれば領内を回り、領民に接する機会がある毎にそのように言った。

元親は儒学をもって国の根本にしようとしたが、他の文学、軍記物でも和歌でも漢詩でも奨励した。優れた作品を作った者には報奨を与えることも約束した。

この時代、人が人を認めるという思想がほとんどない。

人間は人に認められたい欲求がある。それも多芸は難しいが、一芸なら人に認められる可能性も高い。

元親は、その人に認められたいという欲求を刺激し、商工業や文化の発展の機会を得ようとした。

土佐の人民は、上下ともに心が震えた。

自分が領主に、ひいては国に認められるという感動は、土佐をひとつにする原動力となる。

この時代、ほとんどの人は村落社会に住んでいる。

村社会ほど、人間の才能を潰すものはない。個人は村社会に抵抗するが、村社会は個人を押し潰す。こうして、新しい産業や文化はほとんど生まれなくなる。

そのようにして、個人が認められる道を求めた結果、より多くの者が一領具足として、戦場に出ることになるだろう。

元親は、そこまで読んでいる。

元親はは評定でも、人の意見を良く聞いた。

評定でばかりでなく、身分の低い者の意見を聞く機会があっても、

「それは良い考えじゃ!」

と、その意見が愚論であっても大げさに頷いたりした。

元親に接する者は、皆感動した。

こうして、元親のために死のうという者が数多く現れるようになる。


戦国時代の諸大名の利害関係はモザイクのように複雑で、しかも刻々と変化する。

毛利氏はそれまで、信長との対立を避け、阿波の三好氏と対立していた。

しかし羽柴秀吉が軍勢を率いて播州入りし、続いて但馬を平定すると、早晩信長との対立は避けられないと判断するに至った。そして信長と戦うにあたって三好との関係を良くしようとし、、三好長治の後を継いだ十河存保と和睦した。

すると、十河と隣接する勢力である、讃岐の香川之景の立場が危うくなってきた。

香川氏は讃岐の西半分の守護代である。讃岐の守護は細川氏だが、細川氏の力が衰えて三好氏が台頭すると、三好氏と対立したこともある。その時香川之景は18000もの大軍を率いて三好実休と戦った。

その後三好氏に帰服したが、三好長治が当主の頃からその治世に反発し、近隣の国人香西佳清と連名で、十河存保に三好からの離反を警告したことがある。

三好長治は元親に敗れて死んだが、中央で信長の勢力が台頭していることもあり、信長と通じ、この頃は信長の偏諱を受けて信景と名乗っていた。

信長の勢力は讃岐には届かない。毛利は阿波で三好氏と、伊予で河野氏と手を結び、香川信景は孤立する形勢にあった。

(今だ)

元親は思った。香川を攻める機と見たのである。

元親は織田方である。

香川信景も織田方である。織田方が織田方を攻撃する。

    

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