見出し画像

お正月に神社に行くのが苦手


あけましておめでとうございます。

2024年ですって。
2024年2024年2024年2024年

よし覚えた。

早くも新年が始まって2週間が経とうとしている。

お正月に神社に行くのが苦手だ。
毎年、誘いがなければ極力行かないようにしている。(極力行かないようにしているってなんか変な日本語)

お正月でなければ、比較的よく行く。
神社やお寺は、静かできれいなところが多くて好きだ。



人の大勢いる所で祈るのが得意ではない。

そもそも祈るのが得意ではなかった。
誰に祈ったら良いかわからないからだ。

子供の時から参拝は居心地の悪いものだった。
目的がわからず、どうしたらいいのかわからなくて怖かった。
誰に対しても、「お願い」をするのが苦手だったせいもあるかもしれない。


多くの人間は誰が祀られているかも知らず、場所を変えたりしながら、毎年毎年お正月になると一斉に祈り出す。

みんなは一体誰に、何を願って目を瞑って手を合わせているんだ?

ここには誰がいる?その誰かに、この心の中の声は聞こえているのだろうか。どの程度の願い事ならしていいのか。こんな大勢の祈りを聞けるのか、普段は祈っていない人でも、何故お正月になると祈るのか。

などと考えていた。今も少し考える。



6年前くらいから、神社に足を運ぶ機会が増えた。
道中で見かけると入ってみるようになったからだ。
東京はあちこちに神社がある。写真を撮るのも素敵だ。決して信心深くなったからではない。

そうして通ううちに段々と祈り方がわかってきた。この方向性にすると決めた、と言った方が正しいかもしれない。

私は大体、「自分がどんな時も手を抜くことがないように、頑張れるように」お願いする。絶妙に遠回しな他力本願である。
時々、「みんなが幸せになれるように」とふわっとした「お願い」をすることもある。



近年、お祈りは自分への意志・決意表明であるなと思えてきた。

誰かが願いを叶えてくれるわけではないのだから、もっと気楽に手を合わせてきたらよかった。他力本願への思いが本気すぎたのかもしれない。


だから多くの人々にとって、誰が祀られていたって構わないし、どこで手を合わせたっていいのかもしれない。ただしシチュエーションとしての神社は必要としている。形から入るのって大事だよね。

そしてその決意表明をするには、年が変わったという節目が絶好の機会というわけだ。


なるほどなるほど。


とここまで考えてもお正月に参拝に行くのは嫌だ。


なんか居心地悪いんだ…
こぞって祈りたくないんだよ…
祈りで盛り上がりたくもないんだ…
人が待ってると思うと気が散るし…
目瞑ってる間に無防備になった背後もとられたくないし…


そう、そうなんだよ、なんか背後とられるのすごい嫌なんだよ、いつでも。
落ち着かない。
生物は全員そうなのかな。

でも昔知人に「背後に立たれると嫌なんですよね」って言ったら「ゴルゴか」って言われたから、多分全員ではないんだな…



ごめんね新年早々お正月の参拝に否定的でね。

私が根暗なだけだから気にしないでね…

参拝は好きなのでね、ぜひ皆様には健やかな参拝をね、してほしいと思っていますよ。本当に。



近々参拝に行こう。



それでは本年もよろしくお願いします。


貯金