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はじまりの日(8)

重い頭で目覚めた翌日は、匠を連れて佳寿美のもとを訪れた。
病室を覗くと、ただでさえ動くことが困難になった身体の佳寿美が、まるで死の淵をなぞるかのような目をして横になっていた。一瞬菜月は及び腰になったが、腹にぐっと力を入れて声を掛けた。
すると、佳寿美は最後の力を振り絞るように目に力を宿し、菜月が持ちかけた娘二人の葬儀の相談へ気丈に応じてくれた。
菜月が他人だったことが幸いしたのかもしれなかった。
その横で匠は飛び出す絵本を黙って何往復も読んでいた。

梅雨が明けて、ジリジリと陽が射す日、紗都美と愛由美の姉妹は荼毘に付されて無形の白煙となり、漂いながら空へ消えていった。空にはもう、跡形もなかった。
佳寿美の弟で、紗都美と愛由美の叔父にあたる、寿夫が葬儀に来られない佳寿美の代わりにその場を仕切った。
二人の姪を亡くした寿夫もまた、その死を深く悼み、遠方に住む自分たちに代わって葬儀の準備を進めた菜月に何度も礼を言った。
当日も多くのことを手伝った菜月だったが、火葬場では親族の集まりからこっそりと離れ、正面のガラス戸から外に出た。
独りで庇の下のベンチに座ろうとして、駐車場の隅の花壇の中で丸くなってしゃがみこんでいる匠の姿を見つけた。
「匠くん」
名前を呼ばれた匠はビクッと身体を震わせてこちらを向いた。
「なにやってるの?」
「いしころ」
「石ころ集めてるんだ」
匠は手元に集めた石ころを見つめ、弄びながら頷いた。
「おばちゃん」
「なっちゃん」
匠は地面から顔をあげて、隣にしゃがむ菜月の方に首を傾げるように目を向けた。
「おばちゃんじゃなくて、なっちゃんって呼んで。まだ三十歳なんだから」
「なっちゃん」
「なに?」
「ママは?」
菜月はその当たり前の質問に答えることができなかった。
匠が最後に愛由美の顔を見たのは、家でそうめんを食べている時だったはずだ。
その後、床で寝てしまった匠は愛由美の呼びかけにも応えず、眠ったままで、目が覚めた時にはもう母親は自分の元から居なくなってしまった。永遠に。
あの時、無理矢理にでも起こしていたら。
しかし、あの車に匠が乗っていたら、匠さえも今、ここにはいなかった。
どっちの結末を以ってしても、匠にとっては残酷この上ない禅問答だった。
「ママは?」
「ママは…」
見知らぬ大人と二人、この世に残された匠にいったいどんな言葉をかけてあげれば良いのだろう。
その時初めて、これまで匠が一切、自分を困らせるようなことを言わなかったことに菜月は気づいた。
その胸の内を想像すると、無性に切なくなり、自分を責めたくなり、子供の扱い方も、正しい答え方も分からない菜月は咄嗟に匠を抱きしめた。それしかできなかったのだ。
「ママは、遠いところに…遠いところに、行っちゃったの。匠くんが寝ている間にね、起こさないように行っちゃったんだよ」
「おむかえいく」
「ううん。ママがお迎えに来るまでいい子にして、なっちゃんと待っててって。ママ、そう言ってたよ」
匠の柔らかい頭から自分と同じシャンプーの香りがした。
事故があってから今日まで、匠はすでに菜月の家に二泊していた。
菜月が風呂に入れ、寝かしつけて、二人でソファの前のローテーブルでご飯を食べ、葬儀へ来た。
匠が葬儀で着る洋服も佳寿美から頼まれて菜月が買いに行った。
葬儀の準備に追われ、匠を親戚の住まう山間の町まで連れて行く時間がなかったのだ。
菜月は佳寿美にことわって、匠をそのままあずかることにした。
その二日間、匠は一度も「ママは?」と訊いては来なかった。
ただ黙って、菜月のそばにいた。
菜月もそんな匠を気にしていあげられる余裕がなく、きちんとした説明もしてあげられないままに、愛由美は空へ昇って行ってしまった。
「ねぇ、匠くん、ママがお迎えに来るまで、なっちゃんとなっちゃんのお家で一緒に待とう。やだ?」
菜月は、匠の小さい肩を両手で掴むと、目を合わせて問いかけた。
匠はなにかを考えるような間を開けてから、
「いいよ」
と、頷いた。
それから菜月は、匠を連れて親族が集まっている待機場に向かい、寿夫とその妻を待合室の外に呼び出した。
「佳寿美さんにはこれから正式にお願いに伺おうと思いますが、匠くんを私に引き取らせていただけませんか」
「でも、菜月さんだって、これからご結婚されたり、自分の人生があるだろう」
「そうよ。子供が、それも」
寿夫の妻は一瞬言いよどんで、菜月の手を握り、下から大人たちの顔をじっと見上げる匠に目をやった。
「他人の子供よ。菜月さんが本当に葬儀の準備も何から何まで、佳寿美ちゃんの代わりにしてくれたことは感謝してるの。でも、そこまで匠と愛由美や紗都美の人生を背負う必要はないのよ」
「違うんです!」
菜月は自分でも予想以上に大きな声が出て少々驚いた。
扉の向こうにいる少ない真野家の親類たちが耳をすませているのを肌で感じたが、それでも菜月は自分の言葉を続けた。
「私…ひとりで、紗都美の居なくなったあの家に一人で…帰りたくないんです。恋人もいません!結婚もしません!だから、匠くんをどうか、私に育てさせてください。紗都美と愛由美ちゃんが最後に過ごしたあの家で、匠くんをきっと立派に育てます。だから、お願いします」
菜月は限界まで身体を折って懇願した。
ぎゅっと目を強く強く瞑っていれば願いが叶うというわけでないのに、一筋の光も入らないほどにきつく目を閉じた。
寿夫夫妻は心底困った顔をしていたに違いない。瞼の裏に困り顔の寿夫夫妻、佳寿美の顔、愛由美の顔、そして、紗都美の心配そうな顔が浮かんで消えていった。
暗い世界でぎゅっと握られた小さな小さな右手だけが菜月を支えていた。

つづく

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