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ゴールデンウィークは苦手

ようやくゴールデンウィークが終わる。今年もやっぱり連休中私の情緒は不安定。仕事が休みなことが嬉しい以外、ゴールデンウィークは苦手。 家族で旅行。 家族でレジャー。 家族で買い物。 帰省。 BBQ。 ニュースを見ても、SNS眺めてもそんな話題ばかり。 幸せな家庭、お金のある人が正直うらやましいだけですが。 私だって家族旅行したい。 テーマパーク行きたい。 食べ歩きしたい。 BBQできるくらいの、仲の良い友達ファミリーがほしい。 子どもが小さい頃、夫は休日出勤でいなかったし、

    • 母との関係④自立

      重度身障者の双子の妹が家族の真ん中にいた。 人に迷惑をかけないように、空気を読んで生きることを余儀なくされ、手のかからない子だと言われて育った。 当然身辺自立は早かった。 母はそのことが自慢だったし、もっと自立を進めようと仕向けてきた。 1人でおつかいに出したり、地域のイベントに参加させたり回覧板を持って行かせたり、近所におすそ分けを配りにいかせたり、父の会社に電話をかけさせたり。 「1人で出来てえらいね、しっかりしてるね」 そうやって褒められて喜ぶのは母。 そして褒めて

      • 母との関係③母のせい

        前回の続き。 芸術系私立中学に進学したものの、母はそれをよく思ってはいなかった。 「勉強できる子の集まる学校じゃないんだから、1番になって当たり前」 と私にプレッシャーをかけ続けた。 母に嫌われきるほどの覚悟はまだなかったので、私はまた勉学に励んだ。やりたいことをやるために選んだ学校なのに、何かおかしいと嫌悪感を抱きながらも、専門科目よりも5教科の勉強の方をがんばった。 中学では親友をつくろう!とはりきっていたのに、人間関係もイマイチうまくいかなかった。中学の授業をくそ真

        • 母との関係②反発

          前回の続き。 「亡くなった妹の分まで」と、私に頑張りを求めた母。母が中でもこだわったことは、勉強ができる子であること。 首都圏住みだったこともあり、中学受験をする流れが自然にできた。 小3で大手受験塾のテスト生になった。日曜日に本科生に混ざってテストを受け、その解説だけ聞いてくるというもの。なぜ本科生ではなかったのか?それも妙な母のプライドで決められたことだ。 私が小学校に上がった頃から、寺子屋のような小さな学習塾で講師の仕事を始めた母。 「寺子屋で働いたお金で、我が子を

        ゴールデンウィークは苦手

          母との関係①

          一卵性双生児(姉)として生まれたが、脳性麻痺で重度身障者の妹とは子どもの頃に死別。 育ちの過程で背負ったものをこじらせたままおばさんになった。 自分の本音を言えない、人に甘えられない、頑張っていないと不安になる、自分を労われない…。そんな自分との決別を目標に書いています。 *** 育ち①〜⑤の章で記したように、私はとにかく頑張って子ども時代を生きた。母に愛されたい、母に認められたい、母にとっての一番手になりたい、その一心で。 一方で、どんなに頑張っても母の思うようにできな

          母との関係①

          一人っ子のイメージ

          日本という国の中では、一人っ子のイメージはどうもよろしくない。 わがまま、マイペース、協調性がない、空気読めない…ネガティブな単語が並ぶ。 「一人っ子はかわいそう」と決めつけられ、子どもを一人っ子にした親には罪悪感、劣等感がつきまとう。 きょうだい児からの一人っ子となった私も、ずっとコンプレックスを持っている。 周りの様子をうかがってから動いているだけなのに、協調性ない人扱い。 我先に大声で意見を言ってそれを押し切る、言ったもん勝ち系な人に限って、どんくさいこの子!みたいな

          一人っ子のイメージ

          きょうだいは?

          「きょうだいは?」 少し親しくなるとかならずといっていいほど交わされる、挨拶みたいな問答。古今東西、老若男女、他人を知るための入り口に使われている。 この質問に答えにくいと感じる人間は圧倒的に少数なんだろうが、ここでははっきり言う。私にとってはすごく答えに困るあるあるNo.1。 ①「双子の姉です」と答えた場合。 「えっ?双子?妹さんはどこにいる?何してる?」 「もう亡くなっていて」 …沈黙。聞いてはいけないことを聞いてしまったという重たい空気が流れる。 ②「双子の妹がい

          きょうだいは?

          育ち⑤

          重度身障者の一卵性双生児(妹)がいなくなって変わったこと。 今まで父と私の2人だった、休日のおでかけに母も時々一緒にくるようになった。 自分の家に友達を呼んで遊べるようになった。 母が、現代でいうママ友たちの井戸端会議に参加するようになった。 私がよく風邪をひくようになった。 反対に、変わらなかったこと。 母が私に「よい子」な言動を期待すること。 ひとりで公園に遊びに出されること。 ファミリアの青系の服を着せられること。 私が母に甘えられないこと。 「妹の分もがんばら

          育ち④

          お通夜、お葬式、火葬、納骨。 妹との別れの儀式の記憶は断片的にしかない。 「妹さんと本当にそっくり」 初めて会う親戚や父の職場関係者が遺影と私を交互に見て必ず口にする。 一卵性双生児だから当たり前なのだが、寝たきりで何もできない妹と似ていると言われることが恥ずかしいような、悔しいような気持ちだったことは今も忘れていない。 一段落したあと、母がしばらく寝込んでいた。ちょうど年度替わりの頃で私は幼稚園入園だったが、入園準備は祖母と近所の人がすすめてくれていた。 私と妹はいつも

          育ち③

          重度身障者の妹は寝たきりだった。 その傍で育つ生活は突然終わった。 5歳になることなく、妹は亡くなった。睡眠時に呼吸が止まり、そのまま目覚めることはなかった。 真夜中の、母の叫び声。 救急隊の人の話し声、足音。 何度も開く玄関のドア。 寝ていた部屋で聞こえた音で、ただならぬ空気を感じていた。 朝になり、父に声をかけられる。 「妹ちゃん、死んじゃった。」 部屋から出ると、知らないおじさんが数人いた。 当時「おじさん」が苦手だった私はすぐに逃げたい気持ちを我慢して礼儀正しく

          育ち②

          2歳の頃に我が家は引っ越しをした。障がい児がいることを理由に、住んでいた戸建て賃貸を追い出されたらしい。さすが昭和!不適切!! 父が奮起して購入した新築マンションで私の社会は大きく広がった。 同じ年頃の近所の子がたくさんいて、親しくなった近所のおばちゃんおばあちゃんが我が家の事情を察して何かと世話をやいてくれる。 毎日1人でマンション内の公園に行き、そこにいる子と遊び、昼食と昼寝のあとまた公園か誰かの家に行くのが日課だった。 雨の日も、カッパを着て公園で1人遊んだ。やること

          育ち①

          昭和の、ベビーブームが落ち着いた頃に、一卵性双生児(姉)として生を受けた。一卵性双生児(妹)は脳性麻痺の重度身障者。生まれながらの、きょうだい児。妹中心の生活の中で「手のかからない姉」として育つ。 昭和の日本。障がい児への理解も福祉も今のようには進んでいない時代。 両親は世間から妹を隠すように、ひっそりと暮らしていたように思う。ひっそりとはいえ、必死の介護と育児。母はいつも疲れていた。 私もそんな家族の空気を読んで、よい子でいることをいつのまにかに身につけていったのだろう。

          今は苦しい

          今まで誰にも話せずにきたこと。 話しても誰にも理解してもらえないこと。 心に積もったものが、自分を苦しめているかもしれない。 文章にすることで何かを変えるきっかけにしたいので、始めてみる。

          今は苦しい