東大入って鬱になった。

阪田健太郎です、塾の経営やあやふやなことをしています

1982年6月2日。広島県で誕生。2000gを切るほどの低体重児としてスリムかつスマートに生まれる。

幼稚園時代。NHK『人体の不思議』を見て、キラーT細胞とマクロファージのかっこよさに心酔し、祖母の買ってくれた本版を舐めるように読む。幼稚園の先生の「音が聞こえるのはなぜ〜?」という質問に周りが「耳ー!」と答えるなか、「外耳道を通って鼓膜を震わせ、それが耳小骨に伝わって、その振動が蝸牛のなかのリンパ液を震わせて、、、」とながなが説明をする。この伝説は天応めぐみ幼稚園で語り継がれた。この頃から空気が読めなかったことを示す逸話。

小学校低学年時代。読書好きで、週になんども呉の図書館につれていけとわめく子供。以前から小児喘息がひどく、夜間救急に行ったりや入院を繰り返したりしていた。夜、車で連れてってくれた父が、点滴中に読むためにマガジンとかジャンプとかをコンビニで買ってきてくれたのを覚えている(号がとんでいるので話はよくわからないけど、文字が読めればよかった)。入院中も進研ゼミのチャレンジをやっていたらしい。一日中勉強できて入院超楽しいっす!とか言ってたらしい。こないだ当時のお医者さんから聞いて、我ながらひいた。

そろばんや習字やスイミングやピアノなどさまざまな習い事をやっていたものの、そろばん以外は身に付かず。唯一身になったそろばんは小学校低学年で珠算1級・暗算2段(たしか)。計算なら誰にも負けないぜ!と思っていたさかた少年は、ある日授業での百ます計算早解き大会でU田君に惜敗。負けてなるものか!と思い、即日塾に通うことを決意。親に頼み込んでO州塾に入れてもらうことになる。4年生のころの話。

小学校高学年時代。塾に行くのが楽しくて仕方がない時期。早く行ったり残ったり塾の無い日も行ったりしながら先生にまとわりついていた。「先生、なんか問題ください」というと、適当に入試問題をワンセット出してくれたので解いて答え合わせをして質問して帰る。当時の先生が大好きで、良い先生に巡り合えてよかった。家での勉強は母親がついてスパルタで行われていたが、その甲斐あって成績は伸びていく。ラジオでオールナイトニッポンとか聞いてた記憶があるのだけれど、何時まで起きてたんだ、俺。まぁ勉強がんばった結果、スパ選組なる選抜クラスがあったのだが、そこに無事に入り、授業料は無料。親孝行。灘・ラサール・愛光とかも受けにいかせてくれて(行かせられて)旅行気分で写真を撮るも、宿の料理の写真ばかり。灘は不合格、ラサール・愛光は合格。寮生活への憧れもあったが、経済的な事情により断念。広島学院中学へ進学を決める。この時の塾の先生への憧れがのちの職業を決定することになる。

中学校時代。広島学院中学校に進学するも、しょっぱなからついていけなくなる。代数や幾何、英語、まったく何一つ理解できない。因数分解てなに?解の公式なんだこれ?Z会を始めたもののひとっつもわからなくて4月号から挫折する。とにかく授業がつまらない。なにも理解できない。太っちょで喘息もちだったので部活もできない。学校つまんない。質問にいこうにもなにを質問したらいいかわからない。進学校の環境に馴染めない典型的な生徒だった。中2のある日、英検3級受けたい人はあとで英語科研究室の先生のとこまで来い、ということだった。希望者だけ受ければいいものだったんだけど、なんとなく受けようと思って申し込みにいった、そしたらそこにいたO庭先生が、「お前なんか受かるわけないだろば〜か!」というようなことを言った。キャラ的にそう言うのが許されるような人ではあったのだが、これがめちゃくちゃ頭に来て、「いつかあいつを見返してやる、、、!」と固く決意するのだった。そこから英語をめちゃくちゃ勉強し始め、生活は英語一色になる。ラジオの英会話講座や、アルクの通信教育をやってた。学校の行き帰りの道は電車のなかはリスニング、市電に乗らず徒歩で20〜30分くらいかけて行き、ラジオ英会話のテキストを暗唱しながら歩く。学校の教科書に英語の雑誌の切り抜きを挟んで内職。隙間時間に英文解釈。この時期に吉ゆうそう『英語超独学法』を読み、國弘正雄・長崎玄弥・松本道弘などの英語の巨人の本を片っ端から読み、英語道にはまり込む。家ではひたすら音読とシャドーイングを繰り返していた。中2で英検3級、中3で英検準2級を取得。道を極める遠さを実感しながらも徐々に上達していく感覚が楽しかった。僕にとっての部活は英語で、生活のすべては英語を中心に回っていて、とにかく英語に惚れ込んでいた。始めたころは難しすぎたヒアリングマラソンも徐々に聞き取れるようになってきた。このころ英語の本を探しまくっていくうちに、ノートの取り方や参考書への取り組み方など学習法に関する本にも出会い、こちらも片っ端から読んでいく。他の科目にはまったく手をつけていなくてひどいもんだったが、学習法に関する知識だけは蓄積していった。

高校生になって、あいかわらず英語ばかりやっていた。高1で英検準1級を取った。ボランティア活動やジャグリングなどにも手を出して、放課後がとにかく楽しかった。たくさん本を読んで、いろんな人と出会い、人生で最も社交的な期間だったかもしれない。大西泰斗先生や横山雅彦先生といった英語の神と崇め奉っている方の著作に出会えたのもこの頃だ。まさか参考書でわかりやすさに感激して涙を流すなんてことがあるとは思わなかった。おかげで実用一本だった僕の英語も文法や長文問題に取り組むための視座を持つことができた。学問の広さを知ることができた。今でも全著作を本棚の一番いい場所に置いてある。このお二方との出会いがなければ今の僕はいなかっただろう。

高2の終わり、そろそろ受験を考えなくてはいけなくなり、英語以外はポンコツだった僕は困り果ててしまった。英語の勉強がしたいから、 ICU(国際基督教大学)に行きたいなぁ、それか上智の比較文化(現在の国際教養学部)かなぁ、ほぼ英語だけでいけるし、と思っていたものの、私立で授業料も高いから家の事情的に難しい。そうなると国公立。東京外国語大学が国公立の英語系ではトップだからここに行きたい。でもここはセンターも2次も英語以外の科目もある。うーん。まぁ、受験勉強は始めなければならない。学校の授業はつまらないわからない眠いの三重苦でほぼ聞いていなかったため、塾に行かないといけない。経済的に塾に通うのは難しかったのだけれど、幸い進学校だったので、テストを受ければ特待生制度があるO州塾がある。なんとかテストを潜り抜けて塾に通うことができた。世界史のF元先生、日本史のK坂先生、化学のY崎先生、ろくでもなかった副科目が最終的に間に合ったのはここでの先生方のおかげだった。これまで何もわからなかった化学が世界史が日本史が、すっと整理できて納得できて、知ることの楽しさを再び取り戻した。一心不乱でノートをとった。とくに世界史のF元先生が大好きで、あんなにつまらなかった世界史が、何一つ理解できていなかった世界史が、がらっと姿を変えた。膨大な知識がロジカルに整理されていく興奮。数学だけは親に頼みこんで、代ゼミの西岡先生のサテラインを受けさせてもらった。これも圧巻だった。公式ばかりで何をどうすればいいのかわからなかった数学が、こんなに楽しいものだったなんて。こんなに奥深いものだったなんて。これらの授業は、とにかくすべてを吸収したくて、狂ったようにノートを取って、授業後に調べて書き足して、整理し直して、何度も何度も読み返した。深い霧に囲まれていたのが、ぱーっと晴れていくような感覚。納得して理解できて、問題もどんどん解けるようになっていく。勉強するってなんて楽しいんだろう。僕の職業はここで決定された。塾の先生になろう。こんな知的興奮を与えられるような授業をしよう。今でも授業をするときは、あの頃の自分が後ろで見ている。わくわくさせられているかな、と。一番厳しいジャッジがいつもそばにいる。あの憧れに追いつけているだろうか、あんな魔法を自分もかけてあげられているだろうか。

夏頃、学校の担任だったO橋先生から声をかけられた。「慶應の推薦があるんだけど、条件満たしてるのが他にいないから受けてくれないか」。授業中は英語読んでるかほぼ寝ている、という奔放な高校生活を送っていた僕をO橋先生は目をかけてくれていた。ボランティア活動やジャグリングや課外活動に精を出していた僕をいつもにこにこして見守ってくれていた。携帯電話を他の先生に没収されたときも、「要るんじゃろ、見つからんようにせえよ」と翌日返してくれた。うち受かっても行くお金無いっすよ、と答えたが、それでいいけえ、と笑って言った。学校推薦なので、まぁ順当に受かって、いざ一般受験となったときに、O橋先生は「東京外国語大学は単科大学で小さくて狭いから東大受けんさい」とこともなげに言った。いやいやいや、受かるわけないじゃないすか。「まぁ受からんかったら慶應行きんさい、奨学金もあるし」なるほど、そういう手もあるのか。たぶんそんなふわふわした感じで決まったような気がする。もうこの時から慶應に行く気満点だったのだ。慶應ボーイ。素晴らしい。

センター試験はめちゃくちゃうまくいった。職員室はなんで寝ているあいつが!みたいな騒ぎになったらしい(学校で受ける模試はめんどくさいから適当に済ませていた)。弟の代にもO橋先生によって語り継がれていたらしい。足切りの心配は無くなって、2次試験は普通にきちんと受けたけど(英語と国語は時間余ったから寝た)世界史日本史の論述対策も不十分だったし、数学も手応えなんかまったくなかった。だから合格発表の日も、日吉のガイドブックを見ていた。発表見て、慶應の申し込みをして、日吉で家を探そうと思っていたのだ。どうせ受かってないな、と確認するような思いで掲示板を眺めると、自分の番号があった。え?まじで?は?みたいな驚きがまずきて、そしてそのあと俺の慶應ボーイ計画が音を立てて崩れた。あまりにも落胆していたので、名物の胴上げにも声をかけられず、生協の案内も渡されなかった。親に報告の電話をすると、絶叫が返ってきたが、お先まっくらな僕はそっけなく返事を返しただけだった。進学校の嫌なところを見てきたので、もうなんかそういう勉強秀才が集まるところは嫌だった。嫌だったけど受かってしまったからには行かざるをえない。嫌味なようだが、本当に暗雲が立ち込めていたのだ。不動産屋へ行き、京王線という知らない路線を紹介され、仙川という場所で部屋を決めた。6畳の畳の部屋で、古い建物。マンションではない、アパートというよりは文化住宅に近い場所。そこそこ近くて安いところを探すとそういうところしかなかった。広島に帰ってきた。みんな喜んでくれた。O橋先生ももちろん喜んでくれた。結局今の僕があるのは、この大学選択のおかげみたいなところは確実にあるので(よくもわるくも)O橋先生には感謝をしてもし切れない。

中学受験以降、親との関係が悪くなっていて、家が大嫌いだった僕はなるべく早く家を出ることにした。3月末には引越しをして、東京に住むことになる。

このころには最高学府で学べることへの期待も出てきて、どんな学問が広がっているんだろう、とわくわくしていた。

引越した日は、3月末にも関わらず、例年になく寒くて、雪が降っていた。電気も水道もまだ通ってないまま、布団も届いてないまま、寒さに震えながら夜を明かした。ずっと夢だった、一人で牛丼屋にいくという偉業を達成した。大人の階段を一つ上った。寒くて眠れなくて散歩に出たら、駅前の桜が満開で、そこに雪が降っていて、幻想の中のような美しい景色がそこにあった。新生活の幕開けを神様が応援してくれているようだった。そのあと人生初の職質を受けた。大学名を言ったら態度が180度変わって、学歴の力を初めて体感した。

 今でもあのときの不安とわくわくを覚えている。

これから何が待ち受けているんだろう。

 大学に入って、まず直面したのが、授業のつまらなさだ。

いまなら、楽しめると思う。ぜいたくな環境だったな、とうらやましくもある。1年数十万で最先端の研究者の話が毎週毎週何時間も聞ける。なんて素晴らしい環境なんだろう。

でもほとんどなんの準備もなく、心構えもなく大学に入ったぼくは、それがあまりにも思い描いていた大学の姿と違って、愕然とした。

最先端の学問を面白く熱く話してくれると思っていたのだ。知的好奇心が刺激され、わくわくするような学問が待っていると思ったのだ。自分の学問なんかなかったくせに。

いまならわかる。教授は研究が専門で教育はおまけ。あくまでもその背中を見て自分で育っていかなくてはいけない。

あまちゃんだった僕は、すぐに目的を見失った。

 

唯一の希望だった英語も、ただ読むだけ。ただ見るだけ。ただ話すだけ。

何をすれば効率的に話せるようになるのか、なんてことはまったくなくて、がっかりした。これも今思えば、そんなことは英会話学校行けってことなんだけれど。

だんだん足が遠のいていった。興味のある語学(スペイン語・韓国語・中国語・ギリシア語・ラテン語。これは今も役立っている。)とか美術とか仏教とかの授業だけつまみ食いして出てたけど、単位は全然足りるわけがなかった。テストのため、レポートのために勉強することにも目的を見いだせなかった。

大学に行ってうつ病になった。なんのために大学入ったんだろう。なんのために一人暮らししてるんだろう。なんのために生きているんだろう。全身に血のかわりに砂が流れて体が重くて起き上がれない。今でこそ、ユニバーシティブルーとかいって、認知されているけど、当時は自分がなんでこんな状態なのかさえわからなかった。

とはいえ、実家が豊かなわけじゃなかったので、アルバイトをしないといけない。コンビニからホテルのフロントから模試採点からいろんなバイトをした。仮面をつければいいバイトは唯一人間的に過ごせる場所だった。直前までうんうんいって布団の中にうずくまりながら、ぎりぎりの時間にようやく抜け出し、バイトに行くと元気になる。その繰り返し。

そんなときに僕を支えてくれたのは塾だった。はじめの塾は桜上水にある、離島の学校のような佇まいの古民家だった。小中学生向けのところ。まだパソコンなんかも導入されてなかったので、授業のプリントは全部手作りしなきゃいけなくて、リラックマのノートを買ってきて、それに手書きで英文法をまとめたり、文章の読み方をまとめたりした。練習問題も自分で作って、字が汚いのがコンプレックスだったから、すごく嫌だったけれど。でも人数も少ない分アットホームというか、密に話し込むことができた。今でいうLDの子が多い印象で、一緒に百ます計算をしたり、音読をしたりした。「先生、できるようになった!」って言ってくれるのがすごく嬉しくて、今でも僕の原点だ。

そのあとはいろんなところを転々とした。どうしても高校生を教えたかったんだけれど、なかなか難しくて。ようやく、三鷹の小中高対象の塾で、高校生を見ることができた。そこも最初は小中からだったんだけれど、高校生の子が、わざわざ中学部まできて、個別に質問させてほしいって言ってくれて、うれしかったなぁ。正規の英語の授業を休んで来てたりして、俺がしこたま怒られたりしたな。わざわざ来てくれるっていうのがどれほど嬉しかったか。その塾で、スパルタ式に教務はもちろん業務のあれこれを叩き込まれた。塾長がめちゃくちゃ怖くて。塾生保護者への電話掛けや営業の御用聞き、塾内報の作成から保護者会・イベントの準備、ビラくばり、進路指導、保護者面談。英語担当できたはずが他教科の授業もばんばん投げられる(ダメだったら外される)授業もきっちきちに詰まってて、夜遅くまでやってたから(たぶん23時近くまでやってたはず)、残務整理して、全体報告して、ってやってたら24時越えるのは当たり前。(ちなみに電話掛け等は授業の合間にやる)今でいうブラックもブラックなハイパーな塾だったけれど、下から上まであらゆる業務を教えてもらったおかげで、今の僕がある。というか、あのレベルで細かいケアを徹底している塾を僕は見たことがない。すごくいい経験をさせてもらった。雑務も全部回ってきたけど、それもそれでいい思い出だ。のちの塾で講師の方が、蛍光灯の交換とか、コピー機の故障とか、全部事務に投げちゃうのを見てすごくカルチャーショックを受けたのを覚えている。(大手で水とかおしぼりとかチョークセットとかを準備されるのは今でも恐縮して慣れない。下っ端根性が骨身にしみている。)でもあれがなかったら、雑務を全部自分で処理できなかったし、自分が動けば安くあがるのに、それが選べなかっただろう。いま思えば東大だから、と甘やかされることもなかったし、東大だからできて当然と言われることもなかったな、その意味ではいい環境だったな、と思う。ブラックだったけど。

それと並行して行ってた家の近くの個別の塾も印象深い。集団も個別もどっちもやりたかったので、並行してどっちも行くようにしてたんだけど、できたての塾で大学生ばかりで、かなりの部分を任せてくれていたので、授業研修をしたり、イベントを計画したり、すごく楽しかった。塾長変わってからそれができなくなっちゃったのでやめてしまったけれど。個別にもすごい先生はいるもんで(数は少ないながらも)、授業を受けるだけで人が変わったようにやる気にさせる先生がいて、僕はいつもその魔法のような手腕に憧れていた。生徒と先生の垣根なんか越えて、ほんとうに関わっていくことを自然とこなすその姿をみて、ぜったいその技を盗んでやる!と思っていつも後ろか横のブースで授業をして観察していた。

どこでも。

「先生、成績あがったよ!」とか「わかりやすかった!」とか「受かったよ!!!」って言ってくれるのが嬉しくて、すごくやりがいを感じた。ずっとやりたかった仕事ができて、そしておそらくは自分が向いてるんだろうってこともわかってきた。

三鷹の塾はそこそこ長いこといて、中退後も正社員にもしてもらっていたのだけれど、あまりに環境がブラックすぎて続けることができなかった。折良く広島の塾から声をかけてもらって、広島に戻ることになる。

この頃には数々の塾や予備校をみて、自分のやりたい教育の形が見えてきていた。

英語だけじゃダメだから、自分で全部の科目をみれるようになりたい。

ひとクラス20人くらいで、集団でありつつ、個のケアができる形がいい。

そんな塾を自分で作りたいと思うようになった。

でもまだ、経験も足りなければ、資金もない。

声をかけていただいた塾はちょうど拡大期にあって、社員も少人数でいろんなことをさせてもらえそうだったので、僕にとってはこの上ないオファーだったのだ。そして塾長の人柄も良かった。いまでも大好きなんだけど、ブラック塾長のあとで人柄の良さというのは最重要のファクターだったと言っても過言ではない。

そこで英語からはじめて、国語、社会ぜんぶ、理科ぜんぶ。校舎運営から塾長業務まで、すべて望むことをやらせてもらった。科目をまたぐのは、まして文理まで混ぜてまたぐのは、普通にやってたら決してできなかっただろうことだ。またいでやってて、中途半端なものになるのは嫌だったから死ぬほど努力した。ほとんど仕事しかしてなかった。ある年授業アンケートを取ろうということになって、その結果全担当科目で94%の満足度をとることができた。ひと科目だけみてる講師を大差でぶっちぎって1位だった。いうても小さな塾だし、それで満足することはなかったけれど、でも一つの目標を達成することができた。

ちょっと毒があることだけれど、大事なことだから言おうと思う。

それでも、「さすが東大だね」、と言われた。「やっぱり東大生は違うね。」努力をみられることはなかった。それは僕の態度の問題でもあるだろうけれど。若かったから、努力を見せたくなかったし、年上だからといって媚びたくもなかった。いまからすればバッカだなぁと思うし、無礼きわまりないな、と思う。でも、自分ががんばって結果を出して、それがもっともっと刺激になって全体が活性化してみんなが1科目でも2科目でも多科目教えられるようになれば収益が上がる、と思っていた。なのに東大だからの一言で終わってしまった。

ほかのとこでもさんざん言われた。東大だから東大なのに東大東大。もうほんとに嫌になって自分から言わなくなった時期もあった。今は割り切っているし、宣伝になるのでいうけども。それはそれ。歴としてみてもらう分には全然構わない。ただ授業には努力には

関係ないだろ。

うちはお金持ちでもないし、代々高学歴の家庭でもない。生まれつき頭が良かったわけでもなければ、東大だからうまく教えられるわけでもないし、おぎゃーと生まれたところが赤門だったわけじゃない。才能なんてないし、口下手だし。

ただただ他のひとが遊んでる時間を勉強と授業研究に費やしてきただけだ。

趣味らしい趣味もない。スポーツもからっきし。ほぼすべてが仕事とつながっているような生活をずっと送っているから。ほかのことをすべて犠牲にしているからだ。デスクワークばかりでこの年になって肥えてきた。やせたい。

だから授業以外のことはてんでできないし、授業以外の僕はぜんぜんつまらないくだらないダメ人間だ。

そういう生き方をしろというわけではない。

努力ができるということも環境や才能の問題があるかもしれない。それだけが価値があることではないかもしれない。でも。

 

自分が努力しない言い訳をするために他人の努力を見ないふり。そんな態度が我慢できない。

だから成績があがらないことを生徒のせいにする。

自分がやらなかったツケを生徒に払わせる。

生徒の人生を台無しにしていることにも気づかず自分のことばかり考えて。

汚い人間でもずるい人間でもいいけれど、それを自覚することがせめてもの誠実さではないだろうか。

だからうまくいかないことをひとのせいにする

だから怠けていることから目を背けてやってるフリばかりうまくなる

だからがんばってる他人を引きずり下ろすことに躍起になる

だから悪口ばかりいって、環境のせいばかりにして、自分は一歩も成長しない

そんな人間を再生産するだけだ。

 

教育業界もふつうの社会で、そんないいことばかりじゃねえなと嫌気がさしていたときに、それでも、と思わせてくれたのはやっぱり生徒たちだった。自分の塾をはじめてしばらくたって。

いつのまにか、みんなが掃除をしてくれるようになった。きづけば女子トイレが綺麗になってた。自習室はブースじゃなかったんだけど、それでも喋るひとはいなくなってた。帰るときにエレベーターを次のひとのために3階まであげといてくれた。言わなくても他人を気遣うことが自然にできていた。

すごく嬉しかった。

こういう世界を作りたいから、自分は教育をやっているんだな、と思った。

わからないものをわかろうとすること

こちらから手を伸ばすこと

その努力を決してやめないこと

こっぱずかしいので、授業のなかで真面目に話すことはないけれど、でもそれでも、伝わっているんだな、と思った。

伝わらない絶望が、少しだけ晴れた気がした。

僕の学問は理解すること、そして、伝えること。

それを人生通してやっていくんだ、と筋がすっと通った。

 

もっとたくさんのひとに伝えたい、もっと大きな仕事がしたいと思っていたら、紹介してくれるひとがいて、声をかけてくれるひとがいて、たまたまそういう仕事が回ってきた。ありがたい。難しいけれど、少しずついろんな形で、想いを込めて伝えられるようになっていきたい。

 

生きていく価値もないような汚い世界だな、と今でも中2全開で引きずっているんだけれど、それでもそれは変えることができる。今でもうつ気味で不眠症で、授業の前は怖くて仕方がないし、終わったあとはああ言えばよかったこうすればよかったと後悔することばっかりで、この仕事向いてねえわと思うことのほうが多いけれど。でもそれでも。

教育を通して若い世代を育てていけば、その人がまた周りへと次へと伝えていってくれる。

それは僕だけが幸せになるよりも、はるかに素晴らしいことだ。

 

自分が頭が悪いなんて間違った思い込みにとらわれることがないように。

努力によって自分が成長できるという自信をもてるように。

そして他者の努力と想いを理解することができるように。

そしてそれをきちんと相手に伝えることができるように。

 

そのために僕はこの仕事をしている。

大学に受かることは副次的なものだ。

そうしたひとがたくさん増えて影響力をもって各々が発言して、世界が少しでもよくなるように、あなた自身とあなたの周囲が輝くように。

ずっと祈っている。


どうかその先に、幸せがありますように。

 今でも僕はまだ鬱で、授業の直前まで体が重くて、死んでしまいたいという希死念慮もまだまだあって、生きててもなんもいいことねえや、と思うことがあるけれど、でも妻子がいて大好きで、この人たちのためなら生きていたい、この人たちと生きていたい。

いつかそんな時が必ずやってくるよ。

だから生き続けて。死なないで。そう思っていつもこの季節、巣立つ生徒たちを送り出す。