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『花束みたいな恋をした』感想

観よう観ようとは思いながら、忙しさにかまけている間に最寄の映画館でかかるようになったので、遅ればせながら『花束みたいな恋をした』を観てきたら、時間が経つごとに脳が侵食されて感想が湧き出てきたのでめちゃくちゃ久しぶりにnoteを開いています。刺さる!という前評判は聞いていたものの、鑑賞直後は「は~良い映画だったなぁ」くらいの気持ちでしたが、考えるにつれ、いやこれほんとにすごい作品なんじゃないか、と思うようになってきました(現在鑑賞後6時間経過)

だいぶ周回遅れで観たので、さすがに大丈夫かと思いますが、盛大にネタバレというか筋を明らかにして書くのでご注意ください。

ごく普通の恋愛の始まりと終わりを描いたものなので、映画的なドラマティックな作劇を期待すると肩透かしになってしまう人もいるかもしれません。ただそのごく普通の恋愛の始まりと終わりを描くそのテクニックがあまりにも超絶技巧、ほんとに一人脚本なの?ピクサー方式なんじゃないの?っていうくらいにすみずみにまで意図の行き届いた脚本、そしてその意図に乗った演出、劇伴。ありそうでなかった普通の恋の終わりをきめ細やかに描いた、きわめて完成度の高い作品だったなぁ、と時間が経つにつれ脳を揺さぶってきます。もう一回観に行きたい。

麦も絹も、あまり目立たない、普通だけど普通だと思われたくない、普通にはなりたくない、そんなサブカルの民として描かれています。”神”押井守を始め、2015年あたりのサブカルチャー、映画・音楽・文学そのどれもが当時のサブカル好きにはなじみのある固有名詞がこれでもかと並び、絹の「ほぼうちの本棚じゃん」という言葉に集約されるように、その共通項の多さに運命めいたものを感じる、自分の”好きなもの”を持った二人の出会いが描かれます。同じスニーカー。

それは大きな事件ではなく、親から頼まれたトイレットペーパーを買って終電を乗り過ごした後にたまたま出会った、頭数合わせのために呼ばれた場違いなカラオケの後にたまたま出会った、そうした日常と地続きのものとして穏やかな劇伴と共に描かれています。

そうした共通項の多さと裏腹に、本当に自分の好きなもの、自分が大事にしているものは結局二人ともが完全に受け入れているわけではないものとして描かれています。ガスタンク映画は途中で寝てしまい、ミイラ展は引いてしまって感想も出てこない。それでも「よかった」と伝え合って二人の恋愛は始まります。このそれとなく提示される異常なまでのバランスと対称性がこの映画の特筆するべき点だと思います。(ミイラ展の二人のコーディネイトの色味の一致良い)

そうして始まった二人の恋の終わりの始まり。ここからの倦怠を描くまでが素晴らしくうまいなぁと思いました。特にこれといった大きな理由はなくすれ違っていく。労働が個性を恋愛をダメにする、といった風にも最初は思えましたが、麦の会社はブラック風味に描かれているとはいえ、このご時世もっとぶっ飛んだブラック描写は出来たはずなのに、まぁまぁそれくらいあるよね最初はね、くらいで留められているので、結局は麦の不器用さというか、生真面目さというか、個人の問題となる程度になっています。よくある流れだと最初に就職した絹の方が生活リズムや考え方のズレを口にしそうなものですがそうはなっていません。だからこれは労働や社会の問題ではなく、時間。成長や変化がただ二人をすれ違わせていく。共通の趣味でつながった二人がそれを共有できなくなっていく。印象的かつ特徴的だったのが、ゼルダのシーン。ここでも一般的な物語描写とは異なり、会社員の麦がゲームをしている絹を糾弾することはありません。そしてまた絹もそれに甘んじてゲームをし続けるのではなく消しています。二人に決定的な悪手はほぼない。労働に取り込まれていく麦にしたって、その発端は絹を銀座で働かせたくないということだし。

ほとんど最善手を選んでいるにも関わらず、すれ違いはどうしようもなく大きくなっていく。繰り返される「じゃあ」、久しぶりに一緒に映画を見に行ったその夜に「他に何かしてほしいことある?」といった麦の言葉に忍ばせるのが坂本裕二イズムが宿っている。前半の明るい光の画作りと対照的に夜の暗い室内で、二人のすれ違いは広がっていく。『たべるのがおそい』を見つけたよ!!って駆け寄っていった相手が『人生の賞賛』を立ち読みしていた時の絶望感えぐい。

そのすれ違いの決定打となったのが、先輩の死で。そこでもまた、先輩の死を悼む麦にも、それに共感できない絹にも、どうしようもなく理由があって、麦そして絹には特段の問題はないように作られています。DV発覚のシーンには麦は存在していないのでここもまた不可避なものでしょう。(絹はDVで別れたんだって~とは打ち明けないように思う)(DV発覚のシーンでも明言しない目配せといちおうのフォローが入る。けど先輩だけちょっと悪として描かれているな。先輩がいなければほかの道もあった気がするぞ)

価値観に対する繊細なバランス感覚、どちらが悪いわけではないし、どちらが正しいわけでもない、ということが底に一貫しているのがこの映画の得難い素晴らしさだと思います。こうした物語の価値観としてはクリエイティブ側に立って絹側に軍配を挙げてしまいそうなものですが、麦が一方的に悪者として描かれておらず、絹も「好きなことを仕事に」と言いながらも、オダギリジョーの脱出ゲーム的な会社で入場案内の係をやっている姿が描かれていて、これを支持しているわけではないということが描かれます。またオダギリジョーと一線を越えるわけではないが(脚本中では)、そこはかとない後ろめたさを絹に抱えさせることにも繋がっています。このあたりの匙加減が後から考えるにつれ、匠の技!(さわやかのハンバーグはオダジョーと行ったんだろうか。行ったんだろうな…。だとすると絹ワンチャン浮気説に重みが増してしまうな)

そして別れの日。友人の結婚式の裏側で。これでもかというほどの恋愛の始まりのリフレインが、二人と観客を襲います。(おれはこのタイプのやつが大好物です)(ラ・ラ・ランドとか)

奇跡のように初めの輝きを取り戻した仮初のひと時。

人はなぜ別れるか、そうでなければ結婚だ!となってしまうんでしょうね。そしてここでも「そうだね」と麦の提案を受け入れようとしてしまう絹。トドメを刺しにやってくる若いカップル。枯れたままでも寄り添っていくことはできるし、その選択ももちろん良いものかもしれないけれど、枯れてしまった二人の恋愛に、今まさに花開こうとしている若い二人は、あまりにも痛々しいほどに眩しすぎて。手に入れられなかった、そうあり続けたかったのに。

最後のシーン、そして最初のシーン。ここで二人ともに恋人がいることもおそらく二人の判断、価値観を平等なものとして描くためだと思います。(1対1で再会だと話さないのおかしいし、どちらかにパートナーがいないと引きずっているように見えてしまう)

若い恋を戦った二人の戦友として、お互い振り返りもせずに片手をあげる。

そしてあの頃の輝いていた二人が、麦(とバロン)の目の前に現れる。もう二度と、こんな奇跡は起きないと思っていたのに。

どちらにも価値観のジャッジをせず、どちらに優劣をつけることもなく、わざとらしい起伏やドラマティックな盛り上がりも作ることもなく、だからこそ多くの恋愛との共通項を持つように、1つのピースの余りもなく精緻に配置し2時間を5年間を丁寧に描きながら非常に間口の広いものになっていると思います。


お互いの共通点で盛り上がったこと。
自分の大切なものを怖さ半分で披露してみせたこと。それを受け止めてくれたこと。
こんなはずじゃなかったどうしようも無いすれ違いそして別れ。

10代20代の青くて白くて眩ゆい恋愛。

花束のように輝かしくて、花束のように枯れてしまう。

でも枯れてしまうからと言って花束は意味のないものではないし、その記憶は感情は必ず心のどこかに残っている。

ありきたりな恋の始まりと終わりを超絶技巧で描いたこの作品。だからこそ普遍的で、いつまでも麦と絹は僕の頭の中で動き続けているし、自分が麦と絹になったような気持ちまでも呼び起こすようなものになっています。

誰かの恋愛ではなくて、私たちの恋愛の映画。

あの頃の輝いていた恋愛が花束となって再び目の前に現れる。もう二度と、こんな奇跡は起きないと思っていたのに。

2015年から2020年の固有名詞を散らして、おそらくは数年後数十年後にはこの映画もそのままには伝わらなくなるんだろうけれど、それでもこの映画はこの世代を生きた人たちに、花束を手渡してくれるものだと思います。

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