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サヨリは救われるのか

 アメリカの無料ダウンロードゲームで、過激な表現や演出で有名の『ドキドキ文芸部』という作品がある。そのゲームを精神科医の名越康文先生が実況している動画が面白くて、最近は週に一回上げられるこの実況動画を日々の楽しみとしてる。
 この実況動画を見ていく中で、登場人物の「サヨリ」という女の子(主人公の幼馴染)に対して、何か、自分と近いと感じるものがあった。他の配信者が実況してるものも見たことはあるのだが、名越先生の実況・解説(個人的見解)付きで使用して初めて、サヨリという人物はまるで私じゃないか! と気づいた。サヨリはこのゲームの中で悲しい最期を迎えてしまうのだが、それに至るまでのサヨリの心理描写に関する名越先生の解説がとても面白い。今回のnoteは動画内での名越先生の発言をまとめた。

【ドキドキ文芸部とは】
 チーム・サルバトによって開発されたインディーズ・フリーゲーム。
 学校の文芸部に入部した主人公の男子生徒と、ヒロインである四人の女子部員との交流を描く。(Wikipediaより)


“過剰適応”なサヨリ

 主人公の幼馴染として、物語の序盤から登場するキャラクター「サヨリ」。明るく転身爛漫だが、おっちょこちょいな面もあり、主人公はそんなサヨリに度々振り回されている。

ドキドキ文芸部【06】
名越「過剰適応…だから自分が無いねん。つまりは。小さい頃から人の顔色ばっかり伺っているから自分がある意味、一時的ではあるけど気を失せて隣の部屋、奥の部屋まで行っちゃってるって感じやね。サヨリをもしも、白馬の騎士になって背負おうと思ったら、もう10…数年背負うと思ってください。そんぐらいかかります。」

【過剰適応とは】
 …ある環境に合うように、自身の行動や考え方を変える程度が度を超えている状態を指す。その結果、うつ病やパニック障害といった二次障害を引き起こすこともあり、精神疾患者に陥りやすい人が持ち合わせている傾向ともいえる。人から良く思われたい、認められたいという欲求(承認欲求)が強くなるあまり、自己の本質よりも他者に認められるための行動を優先してしまい、心身を消耗してしまう。またそれを習慣的かつ反射的に行ってしまうのが過剰適応の特徴。(メンタルヘルス.jpより)
 名越先生が始めに提唱したと言われている。

先生曰く「過剰適応のクワガタ」ポーズ。
人前では明るく振る舞うことで、本来の自分を隠している。


サヨリが抱える“存在の病”

 学校に来ないサヨリを心配して、家に向かった主人公。そこでサヨリから「実は重い鬱病を患っていた」という(主人公にとっては)衝撃の事実を知らされる。主人公は驚きを隠せないでいる。サヨリは淡々と自分の現状を話すが…

ドキドキ文芸部【10】
ぼっちん(主人公)「何か起こったに違いない。お前がこうしていることに、ほかに理由のつけようがない。だから、ちゃんと言ってくれよ。それがわかるまで、俺はお前のことを考えるのをやめられないんだ…」
サヨリ「あ…。あはは。」「もう逃げ場なんてないんだね。でも。ぼっちんは間違ってるよ。私には何も起こってないよ。
サヨリ私はずっとこんな感じだったんだよ。
ーーー
名越「そうやな、二重世界を生きてたわけやから。ある意味何も起こってないって訳やんな。(サヨリ「私はずっとこんな感じだったよ」) まさに言ってるよね、一階と二階があって一階と二階の間に、何百メートルあるんやんな。」
*
名越「もちろん端的にうつ病、って言っていいかもしれないけど、この人(サヨリ)は非常に根本的な、まぁある種“存在論”に関わること、『自分がなぜここに存在しているのか』って鬱になると問うてしまうんですけど、すごく冷静にそれを問うてる、って気がします。感情的に、自己破壊的にやっているというよりも、ものすごい突き詰めてしまってる。そういうある種の“存在の病”。っていう感じですよね。」
(スタッフ「いわゆる、一般的なうつ病っていうのと違うんですよね、サヨリの状態っていうのは…」)
名越「そうですね、もちろんそういう過剰適応で、もう完璧に明るく振る舞ってるけど激鬱、っていう人僕何人も、診てきましたけど、どっかで破綻してました。例えば友達が知ってるとか、ネットではそう言うのを吐露してるとか…。」
人を幸せにするどころか、逆に迷惑をかけている(と思い込んでしまっている)
自分を激しく責めている。
突き詰めすぎて自分の存在理由が分からなくなっている
【10】続き
サヨリ
「みんなが幸せになることが私にとって1番だから」
ーーー
名越「まぁこれは“合理化”って言いますよね。人間の魂ってのはこれだけ浮かばれないんですよ。様々な修行を重ねていった人が最後こうなるんであって。やっぱりどこかに一抹ね、『ぼっちんを離したくない!から、自分の病気を離せない…! 』っていう、凄まじい執着があるんですよ。人間はその執着を認めないと。でも人間ってすごい不完全なもので、不完全だからこそ愛すべきものっていうことがあるなーと、僕は思うんですけどね。」
名越「だって、サヨリの思う“幸せ”の定義っていうのが、すっごい童話的(ファンタジック)な幸せですよね。でも、そこにサヨリがフックをつけないと生きていけなかった何かがあんねんな。(中略)どうしようもない欠落があって、『私はどう足掻いても幸せにはなれない』から、自己投影をして『周りの人には幸せでいてほしい』と。でもその“幸せ”って、サヨリが感じたことないんですよね…。」

 サヨリは主人公に本当の自分を隠して生きてきた。本当の自分として接することは、相手の不幸(サヨリの中での不幸)になるという不安があった。だから関係を続ける為、相手に合わせて自分を作った結果、側から見た「元気だけどちょっとヌケてる子」という印象と、本来の自分、がどんどん乖離していって、その乖離してる分サヨリは人知れず病んでいったのかもしれない。

 相手の求める自分でないと一緒に居られない、自分を犠牲にして周りが幸せにならなければいけない、という執着を捨てないといけない。でもこれって…先生のいうように何年もかかることなんだろうな。もう習慣化してしまっているものだから、自分を開示する必要性に迫られるような何か大きな出来事、ショッキングな出来事を経験して、理解していくことな気がする…。1人で意識から変えていくのでは難しいものがありそう。


サヨリは「ゴール」(人生の到達点)だけ見えていて、そこに至るまでの「過程」が見えていない。ーシルヴァスタインの『ぼくを探しに』

名越「もうそれ以上自分の犠牲になられんのは、引き裂かれんねんなぁー。」
ドキドキ文芸部【11】
名越「僕たちはなぜかね、最後心はまるであの満月のように完全に欠けることのないところまで、人間の心は成長するっていうか、本来はそういうものだって言うことを知ってるんですよね僕らは。このサヨリは、何か非常に、この世に、だから生まれた意味があると思うんですよ、サヨリは自分のことをこの世に必要がないって言ってるんですけど、どっかでサヨリは、私は、もう人の幸せのために生きれる、って思っちゃったんですよね。それはね、ゴールだけ見えてて、ゴールまで進んでないのにゴールだけ見て、そのゴールだけを実践しようとしてしまったんやな。でもそれは正しいから誰も文句は言わないんだけど、でもその過程がないやんな、過程でやっぱり、人に抱きしめられたり、あるいは人の前で何か自分を晒してしまったり、あるいは晒したことを自分の経験にしてその晒した人を、あなたと私は一緒だ、って言ってあげたり、なんかそういう過程を、うーん。どんなに人生が進んでる人でも、続けないと、サヨリが言っているように『全く人のために生きる』って言うことは、できない。」
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名越「ゴールが見えていてもゴールと一体化するには、さまざまな経験が必要やっていうね、でもサヨリは、もうそういう自分だと、自分はもう悟ったと、思い込まないと辛くて毎日過ごせなかったんやな。自分の中に執着なんかないと。今度は執着すると、執着している自分が醜くて辛くてそしてその執着することによって人の足手まといになって不幸にさせることが辛くて、自分を引き裂いて、自分を…消してしまいたい。ってその、境界線になっちゃったんですね…。」

 サヨリはもう自分が悟ったと、執着なんてないと思っていて、そうでないと周りの人々が不幸になってしまう、という歪んだ認識を持っている。しかし名越先生が言うように人間は不完全な生き物で、不完全だからこそ存在している、生きる意義がある。彼女はそのことに気付けていないから、いつまで経っても救われない。悲しいね…。私も子供の頃は「いい人」「偉い子」に見られることに執着していて、そのためなら嘘もついたし無理もした(自分では全くの無意識)。正しいことや善行が全て、他は許されないと考えていた。だから友達からも「無害で優しい子」と思われていて(実際どうなのかわかんないけど)、そのイメージを守るために作った「偽の」自分で居続けた。作り上げた自分と実際の自分が乖離していて辛くなり病気にもなった。過剰適応だったんだな…と今になると思う。

 「サヨリはゴールだけ見えていて、そこまで進んでいないのにゴールを実践しようとしている」という話…。これには心当たりがあった。才能のある人や画面の向こうでたくさんの人に支持され輝いている人を見ると「自分もこうでありたい」と思うと同時に「それに比べて自分は…」と落ち込む。自分と同じ年齢の人が立派に社会に貢献しているのを見て「自分はこの歳になって何もできていない…思い描いていた自分はこんなではなかったのに」と悲しくなる。しかし、誰にだって「過程」がある。この世の中は「結果」や「たまたまうまくいった例」のみにスポットを当てて、「過程」を蔑ろにすることが多い気がする。その「結果」も「過程」の一部分でしかないにも関わらず。この「過程」を、つまり創作や芸術方面であれば、自分の中で過信していたものが幻想だったと知って落ち込み、転じてそこで新しい視点を得たり、人間関係であれば、自分を曝け出したせいで傷ついたり、それでも親しくしてくれる人の存在に救われたり、みたいな面倒臭いあれこれを、不器用にやっていく(試行錯誤していく)しかないんだろうなー。この世に「絶対」なんてなくて、みんな流動的なもので、それぞれの「幸せ」の価値観は違うのだから、一人一人自分にとっての「譲れない何か」を見つけて、育てていくその過程を、近くにいてくれる人と共に楽しんで生きていけたらいいね、なんて言ってますが難しいっすね。こんなの。私もまだわかんない。

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シルヴァスタイン『ぼくを探しに』

1979年に刊行された絵本。
あらすじ:主人公の「ぼく」が欠けたカケラを探しに旅に出るお話。旅の終わりにカケラを見つけ『完璧』な姿になった「ぼく」。しかしそこで初めて気付くのだ、不完全だったからこそ、幸せを感じていたのだと。
シルヴァスタイン作「ぼくを探しに」

 不完全だからこそ旅に出るし、何かに挑戦したり夢中になったり出来る。過ちを犯すのも不完全だからこそなんだけど…。それでも人間としてこの世に存在している以上は。


「不完全」なままで生きる

 サヨリは自分の欠落=不完全性を認められない為に、そしてその欠落を埋めるために他人に執着してしまう自分を認められない為に、自ら命を絶つことを選んでしまった。   
 サヨリがもし、『ぼくを探しに』で描かれているように「不完全だからこそ人は存在している」のだし、「人はいずれ完全な丸になるが(これは仮説)、今はそれまでの準備期間で、完全でないからといってそれが当たり前なのだから、もし、人に自分の見られたくない“欠落”の部分を見られてしまったとしても気にすることはない」ということに気付けていたら、また違った結末を迎えていたのかもしれない。(主人公が中途半端な優しさを見せず、ありのままのサヨリでいいのだと丸ごと受け止めていたらとも言えるが、コメント欄で散見されるように高校生の主人公には少し難しい問題だと思う)

 名越先生が「サヨリはこの世に生まれた意味がある」とおっしゃっていることにとても救いを感じる。実況見てる時に、ここのシーンで泣きそうになった。私にも、生まれた意味があるのかな…。サヨリというキャラクターは、言ってしまえば私自身でもある。今、この実況を見れたこと、「過剰適応」という言葉を知れたことは、私が今後生きていく中で支えになってくれると思う。現在進行形でゲーム実況は週に一回あげられているが、どういう結末を迎えるのか。非常に楽しみだ。 


▼参考

精神科医が分析するドキドキ文芸部/名越康文シークレットトークyoutube分室

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