新人指導の中にある支配性。
七夕も終わり暑くなってきました。訪問しんどい…。新しく入職された方は3ヶ月の試用期間が終わり、いよいよ、本格的に現場に出るそんな方も多いのではないでしょうか。
そして、3年目~5年目くらいの療法士の方は初めての指導担当として3ヶ月くらいが経つ頃でしょうか。
人に何か教えたいとかあまり思わない私でも、指導担当になることがあるのですから…まあそれだけ、毎年のように多くの新人療法士が世に出ているということでもあるのかもしれません。
私自身は一年目の時、いろんな先輩に、いろんなことを言われてやや、困っておろおろしたりしているところに「自分の意見をもって」「俺は先輩と一年目の頃から言い合ってた」なんて言われて正直あんまりいい思い出が無いのですが…。
療法士が自分の意思で振る舞いや支援を決めること・自分の意見を持つこと。これはなんか教育の究極ゴールのような…私は達成できているのだろうか…。
リハ室の片隅では指導者の「もっとよく考えて」「こうしたほうがいいんじゃないか」なんていう声が時折聞こえてきます。
答えは無いはずなのになんとなく答えがあるように指導する。そこに指導者の中にある支配性があるのかなと思います。
指導者から離れて、自ら思考できることになる、ということはその支配性からどのように自立していくかでもあるななんて言うことを考えていたので、なんとなく思っていたことを書いてみようかと思います。
指導者の支配性とは
とにかく最近は精神分析の話からの引用が多いのですが…笑。それだけ自らの専門性に照らし合わせることもできるし、とても得るものが多いです。精神分析家になるために教育分析といって自らが精神分析を受けるといった教育があります。
療法士は多かれ少なかれ、自分が大切にしている理論や技法、あるいは価値観が知らず知らずのうちに出来上がっていると思います。
私も、作業療法の理論や技法を学んできましたが、これが「善い」のではないかという思いは知らず知らずのうちに持ってしまうものだなとこの文章を読んで思いました。
「もっとよく考えて」「こうしたほうがいいんじゃないか」
良かれと思って言っていることが、若手療法士を自分の思想に近づけようとしているだけではないかといったこと常に内省する必要はありそうです。
指導者「離れ」するために
「自分の意見・考えをもって」なんていう言葉もよく飛び交いますが、どうやったら自分の意見や考えを持てるようになるのか?
私自身は、この先輩はこう言ってたけど、こっちの先輩はこう言ってるし…いろんな先輩の顔色をうかがいながら、折衷したりしながら臨床をしていたな気がします。
この文章を読んだとき自分の経験と非常にリンクしたし、よく見かける光景だとも思いました。
この本では、この関係性が変わるきっかけとして、監督関係だけで乗り越えるには困難な事例への記述があり、ヴァイザーはケースを終了した方がいいと告げるのですが、ヴァイジーは続けるという判断をしたいと切り出します。
その後ヴァイザーはヴァイジーの続けるという意思を尊重してフォローしていくことになるのですが、指導者の意見と違う意見が出てきたときに否定せずにフォローできるか、みたいな度量も感じます。
また、熟練したヴァイザーであれば、あえてこのようにヴァイジーが離れていく、自分で考えられるようになるきっかけを作れるのかななんて思いつつ…私は一生その領域には達しないような気もします。
支配する人もまた何かに支配されている
医療従事者になるにあたって当たり前とされる規範や言動自体が暴力になっているかもしれない、そして自分たちはそういう文化(医療従事者として「善い」とされている規範が患者を傷つける可能性がある文化)の中にいるということを自覚し、自らの傷つきにも向かいあわなければいけないと思います。
個人的にはケアする人をケアする人がいることが望ましいと思っています。医療従事者たるもの傷つきは自分で癒して、ストレスはセルフコントロールせよ、みたいな空気はあまりよくないと思っております。
相変わらず何を言いたいかわからなくなってきましたが…私自身は何か質問されたら好きな話して、最後は、まあよくわからないけど、くらいの感じのポジションなので気楽にやっております…笑。
皆さんも真面目はほどほどに、自分の傷つきにも優しくしてあげながら…ご自愛くださいませ。ではまた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?