イタマシーとナヤマシーの冒険 ~鹿の巣

たそがれどきに、イタマシーが東の台所へゆくと、調理台の前の床に調理台と平行のかたちで、ナヤマシーが長くなっていた。

ナヤマシーは、柔和にまぶたをとじたまま、つかれたので休んでるの。と囁いた。「今まで、台所でつかれてしまったから台所で横になるという発想に至らなかった。台所でヘトヘトになってしまっても、がんばって居間とか寝室とかへ行かないといけないと信じきっていたの。どうしてかな。」「うん。」「でもね、流しの前はいやだと思った。」「ふうん。」「できるだけ、火のそばがいいよ。でもこれ、IHだけど。」ナヤマシーはまじめくさって説明した。「たぶん、僕の育ったうちには、そんなことをする人がいなかったからでしょう。お母さんも、おばあちゃんも姉妹たちも、弟も、父も…もっとも父は果物を剥くときくらいしか台所へは立ち入らなかったんだけど、ともかく、だれも、みんな、そんなことはしなかった。台所で寝るとか。」

ナヤマシーはふう、と一息ついた。

「それに…うちは古い家で、ものすごく古くて、台所もうんと古くて東にあるけど薄暗くて、床はまるで土間の風情をのこしていたせいもあるかも。母は癇症ではなかったから、おおらかに野菜くずやなんかが落ちていたし、なんだかべたべたしていることもあったから、そこに寝そべる気分になるひとなんかいなかったよね。」

ナヤマシーはすこし、神経質すぎるところがあるとイタマシーは思っていた。家じゅうの床はいつも清潔だったけど、なんとなくぎこちなかった。

ナヤマシーは、ぱちりとめをあけた。それは星のように閃いた。「家の中での過ごし方にかんして、僕はあまり自由とはいえなかったねえ!」「そうだと思うよ!」イタマシーは相槌をうちながら、冷蔵庫から缶のビールを一本とりだして、台所のすみに置いてある古い木の椅子に腰かけた。そして、IH調理台の前に長くなっているナヤマシーのことをつくづく眺め下ろした。その長い物のある台所のようすに、稀な、あたたかく安らいだものを感じ、心地よかった。「ここは、家って感じがするね…。」と言った。

こうして床にぺったり長くなっていて、誰かにビールを飲みながら見下ろされているということは、あまりに無防備だし、侮辱されているように感じもするけれど、それはまた別の物語だから(もしかしたら僕の物語ではないかも)今はいい。そうナヤマシーはハッとしたように思って、また静かに自分の物語へ戻った。うさぎそっくりの目をひらいたまま、昔のことを、思い出していた。

ずっと、ずーっと昔のこと。ずっと前の人生のこと。ずっと前の人生と、家と、台所のこと…

その家には、間仕切りがなくて、天井はまあるく、なだらかに壁になりながら床へ降りており、居間も台所も寝室もすべてひとつに、その内に包まれていた。みっちりと分厚い毛織物の敷物が、ひんやりとした土間にひかれていることもあった。台所と屋根つきのテラスは、ゆったり、つながっていた。それらの場所では直に床に座るか、うんと低い藤製のスツールに腰かけて、豆の筋をとったり、枝から葉を摘んだり何か選り分けたり、すり鉢で何か潰したり、砕いたり、おやつを食べたり飲んだりした。あるいは、ただそこにいた。そこにいて、つむじや素肌にとおりすぎる風を感じたり、炎と水のような日差しと影に心を寄せたり、動物の鳴き声を耳に夢想したりした。つかれたら…、つかれたらそこへ寝そべることもあったかもしれない。時々、こまかな雨がふきこむ。虫や俊敏な小動物や、いたずら小僧がしのびこみやすく、保存物には細心の注意と工夫が必要だったけれど、もちろん完璧にはほどとおかった。けれども、つかれたらそこで横になって休んではいけないなんてだれもいわなかったし、だれも、おもわなかった。そんなことはその時のナヤマシーには、ちょっぴりだって生まれやしなかった。「水のそばはいけないヨ、火のそばはあぶないヨ」そんな素朴な理はあったかもしれないけれど、ナヤマシーはあたたかくて乾いたかまどのそばで、うとうとするのがとても幸福だった。それは、気がなつかしいどこかへ、とおくなるような、さみしい幸福だった。

僕、あの家がとても好きだったの。と、ナヤマシーはまたさっきみたいに、囁いた。「ほんとうのところ、この家にはまだ、慣れていないんだ。だけど、たぶん…好きになれるかもしれない、と、思う。たぶんね。今の僕であれば。あの家とはちっとも同じでないけど、この小さな細長い台所に横になるのって思ったよりすてきなことね。ひんやりとしていて、だけど、守ってくれてる。森の奥の野イバラの茂みのなかの、ぽっかりと小さくひらけた、そんなとこに横になってるような感じ。そんな場所の出てくる物語があるの。それはね、二匹の白鹿の秘密の巣なのだ。無口で冷たい影のある美しい母鹿と、はつらつとしたかわいい娘の鹿が住んでる。その野イバラはね、鹿のとりこになった人間の若者が母鹿に姿を変えられてしまったものなの。」「こわいね。」「うん、こわいね。こわいけど…。いつか魔法がとけたら、わらわらと人間の若者たちが森から逃げてゆくんだろうか。でもここにいると、変なものから守られているような気がする。だって、いいとか悪いとかすら曖昧な薄気味の悪いものがうようよしてるでしょう?ヤスデが増えてくみたいに。それから守るために、僕はあやしい魔法をかけるかもしれない。ヤスデに。ほんとはかけたくなんかないけど…。」

「どうして、鹿たちは森から逃げなかったのかしら。」「森が世界だと思っていたら、逃げようなんておもいつきもしないかもしれないね。ヤスデといえばアマゾンに生息するばかみたいに大きなヤスデを知ってる?ねえイタマシー。群馬の昆虫の館で見たんだ。丸まるとゴルフボールくらいあるの。色はパチンコ玉。あんまりばかげた大きさだから、気味がわるいとすら一瞬おもわなかった。宇宙からやってきた生きてる玉だよ!指をさして笑いたくなった。だけど、ばかみたいに大きい。と感じるのは人の勝手にすぎないよね。大ヤスデにしてみたら、あたりまえの大きさなんだから。虫の姿の、あるがままのふり切れかたは…すばらしい。」

それから、ナヤマシーは深々とため息をついて、ひとりになるために、めを閉じた。イタマシーは大きなヤスデのことをとくと考えた。

でもこの小さくて細長い台所は、たしかにあんがい落ち着く。つかの間の場所と知っているけれど。あのささやかなまあるい家は、どこにあるのかな。あの家は…ほんとうの安らぎがあったよね。あの隙間だらけの台所で、かまどの近くで、ぬくぬくとねむりたい。ぬくぬくとねむりたいよ。

ナヤマシーは、親指の先に穴のあきかけたイタマシーの毛糸の靴下をまぶたの裏にのこし、台所の床で、短い眠りに落ちていった。




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