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1年間、可能性のない片想いを続けてみた

私がある人を好きになってから1年が経つ。
まさかこんなに長引くとは思っていなかった。

なぜなら、この片想いは、「付き合う」とか、「結婚する」とか、そういうゴールみたいなものが、初めから、閉ざされていたものだったから。

目指すものもない、
一緒に見つめる未来もない、
相手は同じ想いでもない。

もし理性で愛情をコントロールできるなら、「諦メテ、次ヘイキナサイ」という指令を出しただろう。

実際その指令を、何度も出した。
でも無理だった。

気付いたら1年間、ずっとその人のことが好きだった。


私はよく、妄想をする。
その人に会って、主におしゃべりをする妄想。

非現実的な妄想というより、シミュレーションみたいな感じだろうか。

その人に会ったら、何を伝えたいかな。
どんな言葉が伝わるかな。
何がきいてみたいかな。

そんな感じ。



今日のシミュレーションでも私は、よく喋っていた。

でも、私とその人がコミュニケーションを取る上で、言葉だけに頼るというのは、どうにも心もとない気がしていた。

「どうして私にふれるの?」
と、私はききたくなる。

でも、その理由をその人が言葉にする段階で、どうしても何かが歪んでしまうような気がしていた。

いっそ、「テレパシーでお答えください。」というルールにした方が、齟齬がないかもしれない。

それでもききたくなるのは、

「その人と、" わかり合う" を体験してみたいから」

という答えに帰結するのかもしれない、と思った。


恋をしている人たちは、何を目指しているのだろう。

恋人になること、
家族になること、
一緒に未来を生きていくこと。

私とその人は、そのどれも目指していないと思う。


でも、ひとつだけ、私がたしかに目指していたものがあった。

それは、その人を知りたいということ。
その人を理解したいということ。

その人と、「わかり合う」という体験をしてみたいということ。

そのことに気がついたとき、私は何か宝物を見つけたようなよろこびが、ふつふつと湧いてくるのを感じた。


恋をした初めの頃、私はとにかくその人が欲しかった。

その人に会いたくて、ふれたくて、
その人の頭の中を占領したくて。

とにかく、その人が欲しかった。

欲しがって、叶わなくて、傷ついて、離れようとして、でもやっぱり戻ってきて。

そんなことを何度も繰り返した。


時間が経つに連れ、色々なことがゆっくりと変化していった。

まず、諦めることを、諦めた。

そして、言葉で受け取ったものより、感じたエネルギーの方がきっと、 "ほんもの" なのだと知った。

「欲しい」上等だぜ。

と言いながら、そんな歌をうたったりしていると、
そんな気持ちも大分蒸発して、
幾分穏やかな愛情だけが残っていた。


強火でぐらぐらと、中身を凝視しながら煮詰めていたスープは今、
とろ火にかけられたまま、放置されている。

いろんな「欲しい」は蒸発していって、鍋の底に残ったのは、

"わかり合う" を、その人と一緒に経験してみたいの。

という、最後の「欲しい」。

それに気づいた私は、
「やっっと見つけた。」とうれしそう。



「わかり合う」かぁ。

結婚するより難しいかもね。

でも、意外と、ほんとはもうできてたりして。


もうちょっと、とろ火でことことしとこっか。

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