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「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド〜汚れなき瞳〜」

2020年3月22日、日曜日。コロナウイルスの影響でしばらく公演を見送っていた日生劇場も、暫しの自粛の後この三連休を狙って公演を再開した。内心このミュージカルはもう観れないだろうなと諦めていたところだった。

三連休の街は賑わっていた。花見やショッピング、まるでパンデミックのことなど忘れてしまったように。経済補償も何もない自粛をお願いしていても、そろそろ限界なのだろう。

劇場側もアルコール消毒、サーモグラフィーでの検温(効果は謎) 、休憩時間延長や飲食販売中止など予防に最善を尽くしていた。

久しぶりの観劇に、芸術とは公共インフラなのだということをあらためて思う。

この「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」とは、かの天才ロイド・ウェーバー(『キャッツ』『オペラ座の怪人』....など) が作曲を手掛けたミュージカルである。あらすじは以下の通り。

1959年ルイジアナ。脱獄した一人の「男(ザ・マン)」(三浦春馬)は命からがら、ある納屋に身を潜める。偶然彼を見つけた少女スワロー(生田絵梨花)は、彼をイエス・キリストの生まれ変わりだと信じ、「死んだお母さんにもう一度会いたい」とお願いする。その願いを打ち明けられたザ・マンは、汚れなき瞳を持つスワローに自分の本性を打ち明けることができず、キリストとして過ごすことになる。日々を過ごす中でスワローは次第に彼の正体に気づき始め、2人は男を追う街の人々との騒動に巻き込まれていく・・・

物語の舞台はアメリカ南部ということもあり、登場人物はみな保守的で閉鎖的な共同体に暮らしている。このあらすじを見ただけでもキリスト教というのが大きなテーマであることは分かるが、この辺り、キリスト教がそこまで根付いてない今の日本でどのように受容されるか。

このミュージカルは小説が原作であり(『Whistle down the wind』Mary Hayley Bell.1959) 、映画化もされている。(『汚れなき瞳』1960.イギリス) ミュージカルの初演は1996年、ワシントンD.C.、国立劇場にて。

ミュージカルの広告媒体やこのあらすじを読むと、男(ザ・マン)とスワローの2人がメインキャストという印象を受けるが、実はこの原作の小説の表紙はスワロー、ブラット、プアベイビーの姉弟の挿絵である。オリジナルの物語の中心人物は彼ら3人なのだ。

そしてこのミュージカルの本当の主人公もまた、子どもたちだった、と感じる。子どもの持つ信じる力による救済。その澄んだ、突き抜けるような歌声が今も胸に響いている。

ヒロインの生田絵梨花は、舞台で見るといっそう華奢で、子役と並んでも違和感のない、まさに少女だった。闇を抱えた男(ザ・マン)に救済をもたらすその純真な役柄は、普段はアイドル活動もしている彼女だからこそ嘘臭くなく演じられるハマり役だった。

そしてザ・マンを演じた三浦春馬は、あらためてその表現力の幅に驚いた。げっそりしていて、舞台のセットの中から劇中ほとんど一歩も動かずに演技を続けるのだが、恋愛映画で魅せるような容姿端麗で爽やかなイメージとはかけ離れた、その陰のオーラに圧倒された。

ミュージカル全体として観れば、他のロイドウェーバー作品と比べるとそのまで大衆性のあるものではないかもしれない。ストーリーも、ミュージカルというより「罪と罰」でも読んでいるみたいだった。個人的にお気に入りなのは、一幕の最後の「No matter what」(原題)。大人も子どももそれぞれの立場や信条を歌い上げ、それらが交差するのがミュージカルならではのスケールで、思わず鳥肌が立つほど。


最後に、このノートは、観た直後に書こうと思っていたのだが、外出自粛でダラダラしているうちにやめてしまい、そして今日、悲しい訃報に接したのを機に、書き進めたものである。

三浦春馬という役者は、私の青春時代に欠かせなかった。いくつもの偶然が重なって、初めて生の舞台を観ることができた、それが最初で最後のものになってしまったことが、ただ哀しい。ご冥福をお祈りします。



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