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心中宵庚申[現代語版]2・近松門左衛門原作



2.

「平右衛門さん、今日は体調どうや?」
 表口から覗き込んで尋ねてきたのは、同じ村に住む金蔵だった。千代は思わず姉の陰に身を隠した。村の中で三度目の離婚と噂されるのは目に見えている。
「千代か、隠れるな隠れるな。今ちょうど茶屋でお前の噂を聞いたところや。千代を乗せたという駕籠かきの男がいてな、なんやまた離婚か」
金蔵はずかずかと屋内に踏み込んでくると、全く気をつかうような様子もなく、面白げに千代を見た。かるはそれを遮り、千代の前に立ちはだかった。
「千代は離婚で戻ってきたわけじゃないのよ。見舞いで帰ってきたの。奥で父が寝ているから、もう帰ってくれる?」
「親仁は寝てるのか」
金蔵は声高に笑った。
「そう隠すな。おれは聞いたんや。何人の婿が踏み広げたとしても百姓の女房には問題ない、千代、いくらでも戻ってこい。おれなら淋しい思いはさせんぞ」
かるも千代も心が冷たくなるのを感じた。
「かる、かるよ」
奥の部屋から声がした。平右衛門が目を覚ましたたようである。金蔵はびくっと背筋をふるわせ、「また明日見舞いにくる」と逃げるように出ていった。
 金蔵の後ろ姿を腹立たしい思いでかるは見送ると、奥の部屋の障子をそっと開けた。千代は姉の陰からおずおずと覗き込んだ。平右衛門は寝巻きで身体を起こしていた。千代は頬の肉がこそげ落ちた父の顔を見、平右衛門もその視線に気付き、千代の顔を見た。
「父様、また元気になって」
千代は転ぶように部屋へ入ると、平右衛門のそばに寄った。
 涙ぐむ千代に、父も眼にうっすらと涙を浮かべた。
「心配するな、ほらもっと寄りなさい」
平右衛門の言葉は千代が知っているよりも力が弱い。親の心は子どもを思って千里万里も行くもの。その上先ほどの金蔵の大きな声のやりとりは聞こえていないはずもなく、平右衛門は千代が離婚を言い渡されて戻ってきたことを知ったのだった。平右衛門が四十や五十ならば、まだ心も若かっただろう、こう戻ってきた千代に対し口を聞くこともなかった。だが、六十も踏み込んだ上にこうして病に身体を絡めとられて、すっかり子を心配する親の体を隠せなくなっていた。
「三度離婚したとしても、百回でも千回でも、離婚されるのは前世からの因縁だったと思って諦めれば悔やみも憎しみもない。笑う人間は笑わせておけばいい」
息を吐きながら平右衛門は言った。
「半兵衛は浜松へ行って留守なのか。わざわざ遠くへ出かけたのだろう。もう会うこともない。あの男より百倍良い男を見つけてやる。気を病むなよ。かる、茶を沸かして千代に何か食べさせてやりなさい」

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