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物語上でたびたび名前があがるのに、実際には一度も登場しない人物。

 タイトルの通り、今回は物語上でたびたび名前があがるのに、実際には一度も登場しない人物について話していこうと思う。

 物語上でたびたび名前があがるのに、実際には一度も登場しない人物って「そんなにいる?」と思うかもしれないけど、これが結構いる。おそらく一番有名なのはサミュエル・ベケットの『ゴトーを待ちながら』だろう。ゴトーを待ちながらは、二人の乞食がゴトーが来るのをひたすら待っているというだけの戯曲で、「ゴトーが来るのを待ってるんだ」とゴトーの名前がたびたび出てくるが、実際には一度も登場しない。

 『ゴトーを待ちながら』は、来るはずのないゴトー(god)を待ちわびるという人間の哀れさ、愚かさが描かれており、ゴトーが最後まで登場しないことでその哀愁を演出している。思春期の頃に、「何か面白い事起こらないかなあ」と考えた人は多いと思うけど、そういった漠然とした期待や、自分にもある日突然、何かが始まるんじゃないかといった気持ちってとても人間的で、ぼくはそれを否定するつもりにはなれない。かくいうぼくも来るはずのない何かを待ち続けているところがある。

 次にぼくが思い浮かべるのは古典落語の演目の『らくだ』だ。『らくだ』は、らくだというやくざ者の死体を友だちの熊五郎が見つけるところからはじまる。物語がはじまった段階ですでにタイトルにもなっている登場人物が死んでいるのだ。その後、熊五郎はらくだのお葬式をあげようと、色々と頑張るのだけど、近所の人はらくだの香典を渡すのも嫌がるし、料理や酒を分け与えるのも嫌がる。どうしてそれほどラクダが嫌いなのかと、様々な人が生前のらくだを語るという構造で、らくだの生前の様子は語られるけど、実際には一度も登場しない。(死体は出てくる)

 この構造はなかなか面白くて、本来なら笑いにならないようなえげつない所業が、らくだが死んでいることで(すでに報いは受けているとも考えられる)、笑いになっている。←ちょっとこじつけですかね?

 最後に、最近ぼくが読んだ小説の中に出てきた、「物語上でたびたび名前があがるけど実際には一度も登場しない人物」は『獄門島』の与三松だ。

 与三松は獄門島という島の網元の当主だが、すでに気が狂って座敷牢に幽閉されている。物語を通して、作品の狂気を引き立てるのに活躍しているが(横溝正史は作品の狂気をきちがいに委ねすぎ)、物語には直接関係がないので出てこない。与三松は狂人としてその島に存在してるだけで、その島がイカレて見えるという、ほとんど装置のような扱いだから、物語上でたびたび名前があがるけど、実際には一度も登場しない。

  実際には一度も登場しない人物が出てくる作品は多いだろうけど、そもそもその人の名前が一回しかあがらなかったり、それほど重要ではない場合なら別にどうということはない。

 だけど、たびたび名前があがって、物語の根幹にかかわってくるのに、登場しない人物の場合、ぼくたちはその人を、伝聞の形式でうかがい知ることしかできない。このとき僕は物語に奥行きを感じる。つまり、この世界は張りぼての舞台なんかじゃなくて、僕たちが読むことのできた時間以外の時間がちゃんと流れてるんだと感じる。そして、色んなことを想像して楽しむのだ。


 僕は「物語上でたびたび名前があがるけど、実際には一度も登場しない人物」フェチになっていて、これが出てくる作品はだいたい面白いとまで思っている。

 だから、気がついたらなるべく覚えておくようにしてるのだけど、そんなにたくさん読めないから、収集活動が進まない。みなさん、「物語上でたびたび名前があがるけど、実際には一度も登場しない人物」が出てくる作品に心当たりがあれば教えてください。


 今日はこのへんでおしまい



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