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丘の上の山荘


 カエル君の運転する車はとんでもないスピードで夜の国道を疾走した。瞬く間に都会を離れ街の灯りはどんどん遠去かった。走る程に薄墨かかっていた空が綺麗な藍色に変わり、それまでぼんやりと光っていた星々が次第にくっきりとその輪郭を浮き立たせた。それから暫く後にはその周囲に撒き散らしたような小さな星がいくつも瞬き始めた。こんなもの街中では見られるはずがない。空気が澄んでいる証拠だ。
 急に時間の感覚が失われて半分夢を見ているような、ふわふわしたそんな感覚になった。日常の暮らしから離れ、非日常への旅が始まる。今は不安よりワクワク感の方が強い。これから何が待ち受けるのか、期待に胸が膨らんだ。
 それにしてもこんなに飛ばして大丈夫なのかと心配になる。そもそもカエルは人間ではない。運転免許証などはちゃんと持っているのだろうかと不安になる。けれどもカエル君は四本しかない指で器用にハンドルを操り躊躇なくアクセルを踏み込んで行く。走行はとても快適で渋滞に巻き込まれることもなく、たまに対向車のライトが突然近付いて来てはあっという間に通り過ぎてしまう。

 どこまで行くつもり? ようやくそれだけ尋ねてみた。「もうすぐだよ」彼はフフンと笑ってそう言った。
 まだ彼の存在を完全に受け止めた訳ではない。半信半疑のままだ。だが不思議なことに、嫌な気分にはならない。態度が横柄だったり言葉使いが悪いところも多少はあるけど、もう少し話を聞いてみたい。何故だかそう思ってた。でなけりゃ一緒に旅になんか出るもんか。
 とりあえず、どうしようもなく行き詰まっていた今の自分としては、何かを変えるためにどこかへ旅立つ必要があったのだ。それに、どうせ暇だったし。
 ともかく暫くすると、彼の言葉どおり車は何も無さそうな広場に到着した。目の前にこんもりとした森があるようで、なだらかな黒い稜線が夜空に弧を描いていた。
「そこに小径があるだろう。それを登って行けば山荘に辿り着けるから行くといい、先生がお待ちかねだ」
 先生? 誰のことだ?
 そう言うとまた楽しそうにニヤリと笑う。カエルってこんなによく笑う生物だったっけ?
「それから、すでに先生は君の原稿に目を通してくれてる」
 えっ? いつのまに、そんなことを? じゃ、その人は小説家なのか?
「そんなことは会ってから直接聞けばいい。あまり時間が無いんだ。明日の夜にはあそこの駅から最終電車に乗らなきゃいけなくてね。そしたらもう会えなくなる」
 そう言われて指をさした方向に目を向けるとぽつんと小さな駅舎があった。よく見ると遠くの方から線路が延々と続いている。それにしても、時間が無い? 最終電車? まるで意味が分からない……。
「それからこれを持って行って先生に渡しといて」と言ってカエル君は白い箱を差し出した。まるでカステラか何かが入ってるような大きさの箱だ。振ってみるとカサカサと小さな音がした。
 そしてそこで降ろされると、ではまた明日の夜と言い残し、来た時と同じような勢いで車は走り去り、あっという間に見えなくなってしまった。

 さて、こんなところで降ろされてもなぁ、ひとりきりにされるとなんだか寂しさに包まれる。それに異様に寒い。仕方なく森の中の小径を登って行く。
 周囲は漆黒の闇に包まれて狼でも出て来そうで随分恐ろしい。辺りの気配に気を配りつつ、それでも足早に急いで小径を登って行く。かなりの急勾配だ。早くも息切れを起こしそうだった。
 しかし幸いにも五分と経たぬ内に視界が広がり小径の先に丸太小屋のような山荘が見えた。それは建物というより何か息を殺して獲物がやって来るのを静かに待っている動物のようにも思えた。切妻屋根が一際大きく見えて、満天の星をバックに羽根を広げている。まるで静謐なオブジェみたいに、堂々とそこに鎮座していた。
 だがどう見ても人が住んでいるようには見えなかった。暗くてあまりにもひっそりとしている。生活臭の欠片さえ伺うことが出来ない。こんな人里離れた山荘に一体誰が住んでいるというのだろうか。
 よほど引き返してしまおうかと考えてみた。気が付けば胸の動悸が昂まり緊張している。震えているのは寒さのせいか、あるいは恐怖からなのか。
 さりとてこの期に及んで他に行く宛もない。引き返すことは出来ない。何故ならそこに強く自分を惹きつける磁力のようなものを感じてしまっているのだ。前に進むしかない。
 星空を見上げ深呼吸をして決意を固める。とにかく戸を叩いて見なければ何も始まらない。意を決してポーチに上がる。そして木のドアをノックする。二度三度……。
 どこか遠くの方から返事をする声が聞こえた気がして、そのままその場に立ち尽くす。一分、二分、とても長く感じた。そして、たっぷり五分は経った後、ゆっくりと音を軋ませながら山荘のドアが開いた。
 ドアの向こうから現れた人物の顔を見て驚いた。十年前に亡くなったはずの父親が生きて帰って来たのかと思った。


《長編小説『カエル男との旅』より抜粋》

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