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名前を呼ばないで

 源氏名を作っておけば良かった、と後悔している。

 私は所謂水商“売”というもので生計を立てている。
 最近は、「売っている」というより「買われている」という感覚が優勢となり、主体性が揺らいでいる。
 仕事と私生活との境目が曖昧になるような自分の働き方には、ずっと違和感を覚えている。

 これでは駄目なのだ。
 “私”がなくなってしまう。
 いや、既にないのかも。

 そう、特に感じるのは、名前を呼ばれるときだ。
 
 家族や友人等、私がどういう人間かある程度曝け出している相手から名前を呼ばれる時は、何も感じないか、安心感のような心地良さすら覚える。

 しかし、それ以外の関係性の相手から名前を呼ばれる時、何か突き刺さるような、もしくは喉の奥から何か込み上がるような感覚を覚える時がある。

 私が認識する以前に、勝手に私と相手との関係性を決められてしまったような、窮屈さ、或いは少しの恐れのようなものが生まれる。

 「ちょ、ちょっと待って!」

 心の奥で、そう叫ぶ声がする。

 まだ、覚悟が足りないのだ。自分の仕事に責任を持ち人と向き合う覚悟が。

 本名で水商売をやっている人は、その世界から抜け出しにくいと聞いたことがある。
 これは少し誤解を招く表現であると思う。抜け出しにくいのではなく、きっと、溺れてしまう可能性があるという意味合いだろう。
 まさに私がそうなりかけているから、私がそう感じるのだ。

 「名を知られるということは、他人に魂の端を掴まれるようなもの」

 ※xxxHOLiCの中の壱原侑子の台詞だ。
 魂の端を掴まれる。
 どんな感覚なんだ。

 この作品内で意図するものとはズレがあるかもしれないが、私なりに考えてみる。
 
 魂の端を掴まれる。つまり、自分という唯一無二の存在が確かにそこに存在するということを、相手に確実に認知されるということだろうか。

 そうすると、水商売で使用する源氏名の人は、その世界にだけ存在するその人を表しているのであり、それ以外には存在していない人ということだ。
 水商売の世界で、精一杯“その人”として生きることの出来る潔さ。
 そして、本当の自分の魂の端を掴まれる恐れがないという安心感。

 欲しかった。つけておくべきだった。
 私にはもう一つの名前の力が必要だった。
 自分を守るために。

 しかし今更の話だ。
 
 違和感だの気持ち悪いだの、駄々をこねている暇はない。私はいつだって私そのものとして生きねばならないのだ。仕事中も、私生活も。

 時には寂しく、時には嬉しい名前の響き。

 もう、私を剥き出しに晒して生きている以上、守ってくれるものも逃げることも隠れることもできない。

 覚悟がないままここまできてしまったが、ないならないで、とりあえず続けるしかない。

 終わりは来ないのだ。

※xxxHOLiC…2003年〜CLAMPの漫画作品。悩みを抱えた“客”が、対価さえ払えばどんな願いも叶えてくれるという店主壱原侑子のいる“ミセ”に訪れ、それぞれの物語が展開される。(簡単解説)





 

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