赦しって
昨日投稿したレッスン124を訳しながら、「あは〜、うふふ、そーだ。あー。」と感じることがあったので、思うことなど書き散らしてダッシュで逃げようと思います。
奇跡講座では、さんざん「赦す」という言葉が出てきますが、十数年前に生真面目に奇跡講座の学びをしていた(つもり)の当時から、この言葉に長いこと苦しめられてきました。
赦すとか、看過するとか、取消す?とか。「はあ?」って感じで。
赦せん!ギギギギ!とか思うし。
罪悪感まみれだし。
なんか重荷になってたんですよね、この「赦し」って言葉が。
でも、今年の初めにある体験をして、それがふわっと消滅しました。
昨日のレッスン124の中の、
私たちが触れるものはみな、祝福と癒しの光に輝く。そして、愛と一体となり、愛され、他のすべてのものと結合し、愛が私たちと共にどこまでも続くという思いに悦びを感じながら、私たちの道を進んでいくのです。
ここ。
ある日、普段のように、特に何も考えずにシンクで洗い物していたんですよ。
で、そしたら、なんの変哲もない、白いプラスチックのしゃもじを濯いでいたのですが、なんというか、それはしゃもじじゃなかったんです。
しゃもじのように見えるそれが、私に微笑みかけていたんです。
きらきらきらと、陽光を受けたさざなみが光を反射して美しく煌めくように。
しゃもじ(のように見えるプレゼンス)が、愛の眼差しを湛えてそこにあったのです。
以前、こちらに↓書いた体験のようでもあり。
私は、しゃもじを手に、泣きました。
私が何かを、誰かを赦すとか、そんなんじゃなかったのです。
私たちはとっくに赦されている、いや、そもそも赦すとか、赦されるとか、そんな必要はなかったんだ。
そんな問題じゃなかったんです。
ていうか、しゃもじに愛の微笑みを投げかけられてみい。
もう、小難しいこと、どうでもいいぜ。
…にしても、だよ?
しゃもじと来たか!
300%油断してたぜ。
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