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ビル・セットフォードのライフ・ストーリー⑥

ヘレン・シャックマンさんと共に奇跡講座の生みの親であるビル・セットフォード博士の数奇な人生について、本人が語った記事を翻訳しています。
元の記事はこちら→ William Newton Thetford, Ph.D. - Life Story • Foundation for Inner Peace: Publisher of A Course in Miracles (ACIM)

バンクーバーに着いたのはクリスマスの直前で、入港したらニューヨークに電話するよう指示されていたので、そのとおりにしました。そのころには、ハリエットと私はかなり親しくなっていて、個人的に彼女のことがとても好きになっていました。私たちはバンクーバーでクリスマス・ショッピングをしました。楽しかった。ハリエットは何年も西洋の街を見ていなかったのですが、「これが退廃的な資本主義文化だとしても、なんだか楽しいわ」と言っていました。楽しい時間を過ごし、その後ニューヨークで再会した。私は膨大なメモをすべて書き上げ、それが洗脳に関する下院委員会でウルフが行った証言の一部となった。彼女は本質的にそれは問題ではない、隠すことは何もないと語りました。私は非常に感銘を受けました。

それは長いワイルドな物語であり、私にとっては混とんとした、しかし興味深い時期でした。すべてが変化していたのです。ワシントンへ行ったことが、ニューヨークへ行き、やがて教授になることにつながったのですが、これは確かに不遇だったとは言えませんね。マイケル・リース病院へ行けば、サミュエル・ベックと一緒に論文を発表することになり、すぐに名声を得ることができました。もし、私が最大限に世の中で出世するキャリアを描いていたならば、マイケル・リース病院へ行くことは目標になったかもしれませんね。しかし、その可能性を考えるには、まず自分がユダヤ人であることが前提だったでしょうね。

ワシントン精神医学大学院では、提供されているすべてのクラスを受講しました。マイケル・リースにいたころは、シカゴで週3回、1年ほど分析を試したことがあります。その後、ニューヨークで、ワシントン精神医学大学院と対をなすウィリアム・アリソン・ホワイト財団のトレーニングアナリストのところに通うようになりました。この2つはすべて関連していました。がワシントンの大学院を設立したのはハリー・スタック・サリヴァンだったんです。ある意味、アリソン・ホワイト財団は、ニューヨークのサリバン・スクールの延長線上にあったのです。そこは活気に満ちた、興味深い場所でした。

コーネル大学にいた頃は、毎日がプレッシャーの連続でした。ウルフは、一緒に仕事をするのが非常に難しい人だった。彼のもとで働くと、みんな短期間で離れてしまうんです。大抵は、疲れ果ててしまうか、燃え尽きてしまう。彼は要求が多く、かつ厳密でした。それでも、私は彼のことが妙に好きで、実際に仲良くなってからは色々なことを学びました。

その直後、シカゴ時代の旧友の一人から、コロンビア大学で役職に就くのを考えてみないかと誘われました。彼らはカール・ロジャースのような人を求めていたのですが、ロジャースは明らかに興味がないようでした。実は、彼らはNIMHから毎年助成金をもらって、博士課程のトレーニングプログラムを立ち上げてくれる人を求めていたのです。私はそのどれにも興味がなかったので、そう伝えたのですが、精神科の主任教授に会ってその内容を確認もせずに断るのは失礼に当たると思いました。私は主任教授と話すことに同意したものの、移動することに興味がないことをはっきり伝えました。彼らは、私がコーネル大学で得ていた准教授の職を提供する心積もりだったので、私は、もし彼らが私を准教授にしたいと言うのなら、考えてみると言った。でも、きっと断られるだろうと思ったし、それで問題が解決すると思ったんです。医学部のヒエラルキーはかなり硬直的です。1年で教官から助手になり、1年後に准教授になるなんてことはありえない。ところが、驚いたことに、この話が通って、私は1957年の秋にコロンビア大学医学部の医学心理学の准教授に任命されたのです。

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