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心貧しき者

ここ数日、「山上の垂訓」が何度も頭をよぎり、改めて読み返していました。

するとどういうわけか、ずっと前に購入して全然読めていなかった「終わりなき愛 イエスが語った奇跡の真実」(分厚い!字も微妙に小さくてぎっしり!)を読んでみようとやる気を出して、でもやっぱり読まずに(読まんのか~い)テーブルに置きっぱなしだったのをようやく手に取り、ランダムにページを開いてみたら、げっ。

まさしくそこにあったのは「山上の垂訓」の文字。もう最近はこのようなシンクロばかり。自分の波長の持ちように気をつけねばなりませんね。
以下、本からの引用です。

朗々と響き渡るバリトンでイエスは語りました。ー「心貧しき者は幸いである。天の国は彼らのものだから」
それから、イエスは私の反応を待ちました。私は応えて言いました。「これを初めて聞いた子どものときから、この言葉の解釈につまずいてきました。私にとっての天国は無限の豊かさを意味するのです。それなのに貧しいことと天国の豊かさをもつこととどういう関係があるというのでしょうか。貧困と天国のつながりが分からずに混乱したのです。この言葉はどのような意味で言われたのでしょうか?」ーー翻訳で意味が失われているとしてもハートでこの言葉を聞いていたら、その意味を理解することができたでしょう。しかし、誤解に心の焦点を絞っているようなので、この難しさを解きほぐす手伝いをすることにしましょう。あなたは「プア」(貧しい)という言葉でつまずいていますね。アラム語の「プア」にはいくつかの意味があり、それは文脈や伝えられている思いによって決定されるのものです。「プア」は栄養分を流されてしまった土壌のように“疲弊した”状態を言い表すことができます。あるいは能力の欠如、資質の欠如ないしは可能性が低いこと、あるいは不十分であることも意味しえます。これらの意味は英語の「プア」の定義とぴったりと合っています。しかし、アラム語の「プア」には現代の多くの言葉では使われていないもう一つの意味があります。それは、「単純で複雑ではない」という意味です。私があの言葉を発したときに言及していたのはこの“単純性”だったのです。この言葉を正しい形でもう一度、朗唱してみましょう。これを聞いてどう感じるか教えてください。「単純さの中に生きる者こそ幸いである、天の国は彼らのものだから」

「終わりなき愛 イエスが語った奇跡の真実」
グレンダ・グリーン著


長いので中略して続けます。

単純にしておくことです。スピリットはただ一つです。
スピリットにおいてあなたの創造主と完全につながるために一千歩の階段を上ることは必要ではありません。スピリットはあなたの中にあり、スピリットはあなたのものであり、スピリットはあなたの周囲にあり、スピリットはあなたを抱擁しており、スピリットは常にあなたとともにいるのです。神のスピリットがあなたのために用意しているものすべてのものを受け取るのに枠組みの許可は要りません。歴史上の偉大な帝国はすべて彼らのスピリチュアルな生活を序列制度が支配したがゆえに崩壊して塵と化しました。「単純さの中に生きる者こそ幸いである、天国は彼らのものだから」と私が言った理由はここにあります。スピリットにおいて単純であるとき、求めればすべてのものが与えられます。さらに進化した次元に到達するために新しい次元を獲得する必要はありません。充実したスピリチュアルな人生のために必要なのは愛と単純さだけです。自らを分裂させた王国はすべて崩壊しました。自らを分裂させた都市や家庭もまた立ち続けることはできません。その理由はスピリットは一つであり、そのスピリットを分割することはできないからです。一つのものにはスピリットがあるけれども、別なものにはスピリットがないということにはなりません。スピリットからいかなるものも奪うことはできません。スピリットはすべてのものの中にあり、すべてのものの所有物であり、すべてのものと一緒に存在しています。スピリットに関する限り必要条件は存在せず序列制度もありません。スピリットは一つです。そのスピリットを破壊しようとすれば、分裂されたスピリットは破壊者であるあなたに襲いかかるでしょう。スピリットを分断しようとするたびに、スピリットに“損害を補償する”ことに同意したことになります。人生におけるあなた自身の場所を受け容れて一つのスピリットを受け容れ尊重することこそ天の国にいたる鍵です。あなたがいる場所を受け容れてください。ありのままのあなたを受け容れてください。あなた自身であってください。

「終わりなき愛 イエスが語った奇跡の真実」
グレンダ・グリーン著

私も以前に「心の貧しい者ってどういうこと?」と疑問を持っていたときに、どこかで「心の中に余計なものが入っていないこと。幼子のように素直なこと」のような説明を読んだか耳にして、なるほど。と思っていたのですが、今、ネットで探しても、そんな説明をしているサイトが見あたりません。英語でサーチしてみたら、オーソドックス・チャーチ・イン・アメリカのこの記事が最もしっくりきたので機械翻訳して紹介しますね。

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[心の貧しさ]

「心の貧しい人々は幸いである。この第一の掟は、すべての人の霊的な進歩と成長のための基本的な条件である。他のすべてに先立って、もし人が神の人生を生きたいと望むなら、その人は霊的に貧しくなければならない。

霊的に貧しくなるとは、自分が神から受けていないものは何も持っていないこと、神の恵み以外には何もないことをはっきりと認識することである。この祝福された貧しさは、聖マタイの福音書では "霊的 "と呼ばれている。霊的な貧しさとは、神の前に人間が完全に空虚で開放されている状態であり、主に霊のもの、すなわち、理解や洞察、意志や願望との関係においてである。

霊に貧しくなるとは、自分自身の霊の力に対するあらゆる自尊心と信頼がなくなることである。自分の考え、意見、欲望への依存から解放されることである。自分の心の「むなしい想像」から解放されることである(エレ23.17、ローマ1.21)。霊の清貧の完全な模範である聖なるおとめマリアが、その壮麗な歌の中で歌ったように:

"神はその腕で力を示された、
その心の思いのままに、高ぶる者を散らされた、
力ある者をその座から下ろされた、
へりくだった柔和な者を高くされた、
飢えた者を良いもので満たされた、
富める者を空しく追い払われた(ルカ1.51-54)"

イエス御自身も、肉体だけでなく霊的にも貧しかった。主は「頭を置く所」(マタイ8.20)のない貧しい人であっただけでなく、その物質的な貧しさは、完全な霊の貧しさの直接的な結果であった。

"まことに、まことに、あなたがたに言いますが、御子は自分の意志では何もできません。私は自分の権威では何もできない.(ヨハネ5・19、30)"

霊的な生活に踏み出そうとするならば、あらゆるものを捨て、霊的に貧しくキリストに従わなければならない。霊的に貧しくなるとは、簡単に言えば、この世の罪深い欲望から完全に解放されることである。

”もしこの世を愛する者がいるなら、父を愛する愛はその人のうちにない。この世にあるすべてのもの、すなわち、目の欲や人生の誇りは、父のものではなく、この世のものだからです。しかし、神のみこころを行う者は、永遠にとどまるのです(1ヨハネ2.15-17)“

神のみこころの最初の啓示は、神の被造物は霊的に貧しくなければならないということである。この霊的態度の違反が原罪であり、すべての悲しみの源なのだ。

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さて、以上を確認して「うむ。」と本を閉じようとしたところ、

「えっ」
「は?」
「『は?』じゃなくて。シェアしないの?」
「えー?いや、うーん、だって、連続投稿とか、うざがられそうだし」
「..…」
「..…(このまま聞こえないふりをして、そのままにしておくこともできる)…」
「…あなたは『明け渡す』と言っておいて、その言葉の意味を」
「ァ‘‘ァ‘‘ーーーーー!わ‘‘か‘‘り‘‘ま‘‘し‘‘た‘‘あ‘‘!!!」

という会話が何者かとの間で、あったとかなかったとか。


いま、心になかなかのヘビーさで響いているのは、「終わりなき愛」のこの部分。「スピリットを分断しようとするたびに、スピリットに“損害を補償する”ことに同意したことになります。」

こうして記事にしてみることで、自分にとって何が学びかが、より明確にくっきりと浮かび上がってきます。


☆読んでくださって、どうもありがとうございました☆

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