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『ぼくの火星でくらすユートピア⑼』

それでも今思えば。同僚たちは途中から僕に気がついていない様だったので僕がああなっていたのも自然現象だったのだと飲み込める。

デスクに辞表を残したのはそれから3年が経った金曜日だった。

そもそも人間との関わり方を教わってこなかった僕だったから全ての職務で落第点だった。外を廻っては散歩で終わり。内に入っては茶も汲めず。最後に与えられたのは見晴らしの良い席で延々と書類にホチキスの芯を刺し続けているという仕事だった。

単純作業に侵された人間の脳内と来たらそれはそれは壮大なもので。当時僕は次回合同企画会議の資料の右角のお世話をさせてもらっていたのだが。脳裏に広がる無限の空間を繋ぎ止めるかの如く耳にはパチンパチンという整然たるBSMが響き渡っていた。

人の生と死について考えたことがあるか?

僕は嫌という程これら人間の大イベントについて考えたことがあるのだが。僕は要するに人間には生も死も存在しないという考えに行き着いた訳だ。その考察の根源にあるのは僕は僕という意識すら持っていないという憶測なのだが。その恐ろしい考えに至ってからは僕は自らの手が自らの手で無く。自らの目が自らの目で無くなっていた。つまり自らの視界が自らの視界では無くなっていたのだった。

それから齎される結果といえば。

僕はたかだか11ページの資料すら纏められなかったという結果になる。その日以来僕にホチキスを貸す者は現れなくなり僕はとうとう会社から用済み認定されたという訳だ。

月初めに人事のヒトデ野郎が呼んでいるというのでついに昇進かと珍しくいい方向に思考を向かわせてみれば。気持ち良さそうに葉巻に火を点けるヒトデ野郎は生まれて初めて僕に見せた笑顔で告げた。

君はもっと視野を広げてみるべきだと思うんだ。ほら君は若いし僕は年寄り。僕の未来といえば後は娘や不愛想なかみさんに看取られて逝くだけだな。しかし君の未来はそうじゃない。ほら。君。君はこれでも色々な資格を持っているじゃないか。君にはうちの様な会社は勿体ない。な。そうは思わないかね。

砂の渇きはそのうち癒える。しかし僕の渇きは。

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