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『ぼくの火星でくらすユートピア⑸』

《ユートピア》──もしもそれが本当のことであったなら。

ネクタイを締める瞬間が人生の中で一番嫌いだ。二番目が電車に駆け込む時。三番目がタイムカードを切る時。

惨めな思いをするのはいつも昼間だった。

僕の見送りをする犬がいた。要するに僕が飼っていたということになるが。あいつは数年前にお先にと言って逝ってしまった。可哀想な奴だった。あいつは僕しか知らなかったんだから。幸福だったのは僕だけだった。

僕は毎日昼間になると色々な人からなじられていたのだが家にいる時ときたらお代官様だった。

おいポチ野郎。僕がボールを投げてやっているんだ。取ってきたらどうだ。

おいポチ野郎。僕が飼ってきてやった餌を食べねえとはどういう了見だ。

おいポチ野郎。今は僕のいない昼間じゃないんだから寝なくてもいいじゃないか。

おいポチ野郎。忙しい僕がこうして呼び掛けてやってるんだから返事くらいしてくれたっていいじゃないか。

結局ポチが残していったカリカリフードは僕の胃に収まった。卵を落として食ったら泣くほど美味しかった。あの頃の僕はもはや腹を満たすものならなんだってマグロと大差なかったに違いない。ここの生活は大変楽だ。

風のせいで相棒が詰まった。僕が押してやらなければならない。僕がガソリン代を出してやってハンドルまで握ってやってるのにグウタラしてどこまでもムカつく野郎だ。

しかしこいつはひとりで行ったりしないからいい。

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