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バランシンの祖先は、母国ジョージアと大国ロシアの狭間を生き抜いた(その1)

 ジョージア共和国の首都トビリシが、2015年6月13日から14日にかけて集中豪雨に見舞われ、甚大な被害をこうむったことをご記憶だろうか。市内を流れるヴェレ川とクラ川が氾濫し、20人もの人命が失われた。ソビエト時代に開設されたトビリシ動物園も濁流に飲み込まれ、辛うじて生き残り、街中をさまようカバの姿がずいぶんと報道されたものだ。物陰に潜んでいたホワイタイガーが市民を咬殺するという痛ましい事件も起きた。くだんのカバは動物園に連れ戻されたが、速やかな捕獲が難しいライオンやトラ、クマなどの猛獣は警察ないし軍隊により射殺されたという。

 ジョージア正教会の総主教イリア2世は、大洪水の直後に執り行った祈祷の説教で、トビリシ動物園創設の経緯を痛烈に批判した。いわく、ロシア革命後、ソビエト共産党はジョージアを制圧し、ジョージア正教会に供出させた十字架と鐘および資産でこの動物園を建設した。

 ロシアの通信社〈Interfax〉の配信を引用したニューヨーク・タイムズの記事の行間には、宗教を弾圧したソビエト連邦の強権に加えて、洪水が予見され得るヴェレ川沿いの丘陵地に動物園を建設したソビエト当局の判断を咎めるニュアンスがあり、両国間に存在し続ける確執の深さを暗示する。ひるがえってバランシンの父親と祖父が、ジョージアとロシア/ソビエトの狭間で、熟練職人技級のバランスを保って生き抜いたことを思い起こさせるのだった。

             〈 バランシンはロシア人? 〉

 1904年1月22日、振付家ジョージ・バランシンは、メリトン・バランチワーゼ(1862〜1937)とマリア・ニコラエヴナ・ワシリエワ(1873〜1959)の婚外子として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグで生を受けた。フランス語の響きを持つ〈Balanchine〉という姓は、1924年に彼がバレエ・リュスに入団した際に主宰者セルゲイ・ディアギレフが作り出した芸名で、本名はゲオルギー・メリトノヴィッチ・バランチワーゼ / George Balanchine、ロシア語名はГеоргий Мелитонович Баланчивадзе、グルジア語ではგიორგი მელიტონის ძე ბალანჩივაძე と表記する。

 バランシンの父メリトンはジョージアのグリンカとも謳われた作曲家で、生粋のジョージア人。サンクトペテルブルグで生まれ育った母マリアの父称(父親の名前に基づくミドルネーム)はロシア名だが、実父はドイツ人だったようだ。事典の類にロシア人と記されているバランシンには、その実、ロシア人の血は4分の1しか流れていないことになる。

 両親が公式に結婚した確証は見つかっていないものの、メリトンとマリアは、第一子のタマラ(1902年〜1943年)、第二子のバランシン(1904年〜1983年)、末子のアンドレイ(1906年〜1992年)と同じ屋根の下で暮らし、アンドレ誕生後、メリトンは三人の子供を認知している。サンクトペテルブルグに暮らす、父方とおぼしき二人の叔母ないし伯母とも行き来があった。しかしながらメリトンが帰郷する際に、子供たちを同行したことはない。バランシンが初めてジョージアに足を踏み入れたのは、1962年にニューヨーク・シティ・バレエがトビリシでツァーを行った時のことだった。

     〈 神学校劣等生だったメリトン父さんの華麗なる立身出世 〉

 今日、メリトン・バランチワーゼの名前は、ジョージアの首都トビリシの音楽大学や、バランチワーゼ家と所縁の深いジョージア西部の古都クタイシの音楽学校、オペラ・ハウス等に冠されている。 息子バランシンはというと、トビリシ・シアター・ミュージック・シネマ・コレオグラフィ博物館の展示室や同市の街路、クタイシのホテルに名前が付されている程度で、ずいぶんと分が悪い。メリトンはジョージア語の初のオペラ『ずるいタマラ』や歌曲、宗教音楽などを作曲して同国を代表する作曲家となり、ロシア革命後にはジョージア共和国(1922年にソビエト連邦に加盟させられる)の文化大臣に就任したのだから、息子の知名度と評価が父親のそれに及ばないのは致し方ない。

 当時、必ずしも重要な文化遺産とは見なされていなかったジョージアの伝承音楽に光を当て、コンサートホールやオペラハウスで上演する芸術の域に導いたメリトンの足跡は、大勢にくみすることのない気骨を感じさせずにはおかない。ジャンルが違うとはいえ、単身、アメリカに渡り、独自の清新なバレエを確立させた息子バランシンが、メリトンと同じ道をたどったといえようか。

 メリトンの音楽家としてのキャリアは、神学校からドロップアウトしたことが起点になっている。8歳の時、聖職者だった父アミランの意向に従ってクタイシの神学校に学んだ後、ギムナジウム(中等学校)を経て、ジョージアの首都トビリシの神学校に進学した。同校は名目上はジョージア正教会の管轄だったが、多くのロシア人が配属され、ロシア語で授業を行なっていた。ジョージアの学徒をロシア帝国に相応しい高位の聖職者に教化する、エリートコースの最前線にメリトンは送り込まれたのだ。 父アミランが、長男メリトンの大成に並々ならぬ期待を寄せ、ロシア帝国に与するキャリアを歩ませようとしていたことをうかがわせる。しかしながら、生来、社交的な性格で、女性とワインを好み、シルバー・ソプラノとの異名をとるほどの美声を持ったメリトンはの成績は、音楽以外は芳しくなかったそうだ。

ピロスマニ

 ジョージアはワイン発祥の地として名高く、古来、地方毎に固有品種のブドウでワインがつくられていて、伝統的な工法で生産されるワインは、2013年12月に日本の和食と共に、ユネスコの世界遺産に登録された。ジョージア出身の画家ピロスマニ(1862?〜1918)の名前を持つ、素焼きの陶器製ボトル入りの赤ワインを取り寄せてみたところ、ワイン通ではないわたしにも、他のどのワインとも異なるブドウが使われていることは分かった。やや甘口で、軽すぎず重すぎず、豊かでありながら、どこか素朴な味わいだった。

 かつて〈バランシン〉というジョージア・ワインが販売されたこともあるが、バランシンの名前がバランシン財団により商標登録されていたため、あえなく幻の品となってしまった。東京都内のロシア料理店で食事をした際にソムリエに訊いてみたところ、〈オールド・トビリシ〉と同じような味わいとのことだったので、さっそく注文してみた。わたしの大雑把な味覚では、癖のない、さっぱりとした飲み口で、前述したピロスマニ、あるいは同じサペラヴィ種のブドウを使ったアカシェニやアラザニの素朴な味わいのほうが好ましかった。

 ワインを育てた物なり豊かな土地は、美食の土地でもある。挽肉と肉汁がたっぷり詰まった大ぶりのギョウザ〈ヒンカリ〉、チーズを折り込んで焼き上げたピザ風のパン〈ハチャブリ〉、香ばしい羊肉の串焼き〈シャシリク〉、牛肉と米を煮込んだシチュー〈ハルチョー〉等など、香辛料やチーズをたっぷりと使った固有の料理は枚挙にいとまがない。わたし自身、バランシンの〈聖地巡り〉をするべくサンクトペテルブルグを訪問した際、ホテルのすぐ近くにあったジョージア料理のレストランに馳せ参じたものだ。

 美酒と美食を存分に堪能できる土地柄ゆえ、メリトン・バランチワーゼが神学の道を中途で断念したのは、俗世間の魅力に抗しきれなかったからではないか、と勘ぐったこともあったのだが、ジョージアの地勢と歴史に目を向けると、まったく違う図式が見えてくる。(続く)

ヒンカリ

参考文献:

Richard Buckle in collaboration with John Taras, “George Balanchine, Ballet Master.” New York: Random House, 1988.
Elizabeth Kendall, “Balanchine & The Lost Muse: Revolution & the Making of a Choreographer.” New York: Oxford University Press, 2013.
Bernard Taper, “George Balanchine; A Biography.” New York: Times Books, 1984.
Neil MacFarquhar, “Zoo Animals on the Loose in Tbilisi After Flooding.” New York Times, June 14, 2015.

初出「健康ジャーナル社」ホームページ掲載「バランシン・ジャーナル」2014年9〜12月

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