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バランシンの祖先は、母国ジョージアと大国ロシアの狭間を生き抜いた(その2)

 東西をヨーロッパとアジアに、南北をロシアとトルコ、アルメニア等にはさまれたジョージアは太古の時代から交通の要衝であり、それゆえ、幾度となく周辺の大国に侵略され、戦禍をこうむり、繁栄と興廃を経てきた。とりわけロシアとの確執は深く、今日のジョージアにはロシア/ソビエトからの独立を祝う二つの祝日がある。5月26日の〈独立記念日〉は、ロシア革命の翌年の1918年にジョージア・メンシェヴィキがジョージア共和国の独立宣を宣言した記念日である。しかしながら1921年に赤軍がジョージアを制圧し、ジョージアはソビエト連邦を構成する共和国の一つとなってしまう。そして1989年4月9日、独立回復を要求する集会にソ連軍が発砲するトビリシ事件が勃発、多数の死傷者を出すも、独立運動が鎮まることはなく、1991年4月9日、ついに独立を果たした。この日がもう一つの祝日、〈国民団結の日〉に制定されている。

 むろんロシアとの確執に終止符が打たれた訳ではないし、ロシアとの確執がソビエト時代に始まったのでもない。18世紀にはすでにジョージア東部のカヘティ王国がロシア帝国の支配下に置かれ、やがて西部の諸地方が併合され、1878年には全土がロシア領となった。メリトンが神学校を退学したのは、まさにジョージアが自治を失った1878年のことだった。

 ロシアが汎スラヴ主義を掲げて南下政策を押し進め、ジョージアへの干渉を強めていた19世紀後半、ジョージアの知識人の間では自国のアイデンティティを探求する動きが高まっていた。聖歌隊やトビリシ歌劇場の合唱団で美声を披露していたメリトンは、コーカサス地方の民謡を収集し、 口承されていた歌を採譜・編曲し、自ら組織した合唱団を率いてトビリシやクタイシで公演を行ない、ジョージアの伝承音楽の魅力を多くの人々に紹介した。ジョージア一帯だけでなく、ロシア中央部、ウクライナ、ポーランド、バルト諸国をも巡演している。 独自の言語と文字、文化を持つ由緒ある国でありながら、ロシア帝国に従属せざるを得なかった当時、メリトンの活動がジョージアの民衆の心を奮い立たせたことは想像に難くない。

       〈 メリトン、サンクトペテルブルグ音楽院に入学する 〉     

 事実、メリトンに支援の手が差し伸べられた。ジョージアのコニャック製造の祖で、ジョージアの伝統文化の復興や慈善活動に心血を注いでいた篤志家デヴィッド・サラジシヴィリ(1848〜1911)から経済支援を受けたメリトンは、1989年、意気揚々と2000キロの彼方の帝都に向かい、ペテルブルク音楽院に入学した。独学で民族音楽のスペシャリストとしての地歩を固めた彼は、正規の音楽教育を受けてオペラを作曲し、音楽家としてさらに飛躍する野心に燃えていたのである。

 メリトンが合唱隊を始動させた時、彼はすでに一家の長だった。黒海にほど近いサチノに隣接する村落の地方貴族の末裔だったガヤーネ・エリスタヴィと結婚し、1882年に長女ニーノ、1886年に長子アポロンを授かった。妻は民族音楽に傾倒する夫に理解を示してはいたが、サンクトペテルブルクへの移住には二の足を踏んだ。ロシアから見れば辺境の地である小村生まれの彼女は、北の貴婦人と称される大都会での生活に不安をおぼえたようだ。メリトンと妻は協議離婚ないし別居を選択し、ガヤーネは子供を連れて郷里に戻り、両親や父方の親類の援助で子供達を養育した。

サチノ

               ( サチノ産の白ワイン)

 メリトンがガヤーネと正式に離婚したことを証明する記録は見つかっていない。バーナード・テイパーの評伝 “George Balanchine; A Biography” には、メリトンは妻と死別したと記されているのに対し、“Balanchine & The Lost Muse: Revolution & the Making of a Choreographe” の著者エリザベス・ケンドールは、二人は離婚していないと推測している。1930年代後半にマリアとガヤーネが手紙のやりとりをした形跡がある、との補記もある。

 1897年、メリトンのオペラ処女作『ずるいタマラ』の第3幕が、サンクトペテルブルクの貴族ホール(現在は、サンクトペテルブルク交響楽団が常駐するショスタコーヴィチ記念ホール)で初演された。同作はジョージア語で歌われた初のオペラで、標題役の女王タマラ(ジョージア語表記はთამარი。語尾に“i”に相当する文字がついているため、タマリと読める。日本語では、タマル、タマール、タマーラとも表記される)は、1184年から1213年にジョージアを治めた、ジョージア史上初の女性統治者だ。狡猾さを持っていたとしても、宿敵セルジュク・トルコを撃退して領土を拡大、ジョージア王国に最盛期をもたらし、死後、聖人に列された、百戦錬磨の女傑なのである。

 15年後、セルゲイ・ディアギレフが主宰するバレエ・リュスが、この伝説の女王を主人公にした新作バレエを初演した。ミリイ・バラキレフの交響詩にミハイル・フォーキンが振り付けた『タマール』の表題役は、男を居城に誘い込んで一夜を共にした末に殺害する、残忍な妖婦である。同じくバレエ・リュスで制作された『クレオパトラ』、あるいはプッチーニのオペラ『トゥーランドット』のヒロインも自分に魅せられた男達を平然と死に追いやるが、男達を誘い込みはしない。ロシア人達が描き出したタマラ像に、ロシアとジョージアの間に広がる闇を見てしまうのは、深読みに過ぎるだろうか。

 それはともかくオペラ『ずるいタマラ』の初演は、メリトンにとって、ジョージア人にとって記念すべき一夜となった。その後、メリトンは未完だった第1幕と第2幕を加筆し、1926年にトビリシ国立歌劇場で全3幕を初演した。1936年にはモスクワで開催された〈A Decade of Georgia Art in Moscow〉で全編が上演された。ジョージア出身でソビエト連邦の時の指導者ヨシフ・スターリン(本名ジュガシビリ)からの要請があった、との後日譚がある。

 このオペラに加えて、メリトンはジョージア民謡に想を得た歌曲、合唱曲、宗教曲を作曲し、ジョージア音楽の押しも押されぬ第一人者として尊敬を集めるようになった。ペンは剣よりも強し、否、音楽は剣よりも強かったのである。(続く)

                 〈 補記 〉

ページトップの写真のプレートは、2015年6月、東京アメリカンクラブの《 ジョージアの間》の入り口に掲げられていたもの。トビリシ大洪水が起きた2015年6月中旬、Kバレエ・カンパニーの『海賊』に客演するために日本滞在中だったジョージア国立バレエの芸術監督にして看板バレリーナであるニーナ・アナニアシヴィリ氏を歓迎するレセプションが、同クラブにて開催されたのでした。
 駐日ジョージア臨時代理大使就任前のティムラズ・レジャバ氏が、通訳であられたことも、併せて紹介しておきます。

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参考文献:

Richard Buckle in collaboration with John Taras, “George Balanchine, Ballet Master.” New York: Random House, 1988.
Elizabeth Kendall, “Balanchine & The Lost Muse: Revolution & the Making of a Choreographer.” New York: Oxford University Press, 2013.
Bernard Taper, “George Balanchine; A Biography.” New York: Times Books, 1984.

初出「健康ジャーナル社」ホームページ掲載「バランシン・ジャーナル」2014年9〜12月

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