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【対談#1】山本貴光×見田悠子 書物は人類を救う 『パピルスのなかの永遠』を読む

イレネ・バジェホ『パピルスのなかの永遠』の日本語版の刊行を記念して、NPO法人イスパニカ文化経済交流協会の主催で、2023年10月21日にトークイベントが開催されました。
訳者の見田悠子さんに加え、文筆家の山本貴光さんをお迎えし、本書からの引用や、関連する他の本の紹介を交えながら、世界的ベストセラーの魅力について語っていただきました。その模様を2回に分けてお伝えしていきます。


イベント当日の山本さん(左)と見田さん(右)

■私のために書かれた本

山本 日本語訳にして500ページくらいになる、たいへん中身の詰まった、イレネ・バジェホさんの『パピルスのなかの永遠』という本が刊行されました。目次を見ると、古代ギリシア・ローマ時代に書物はどういう生態にあったのか、どんなふうにつくられ、書かれ、読まれ、移動したのかという話をいろんな角度から論じている本で、古代世界の書物の話だよと紹介したくなるのですが、それだと足りないのですよね。本のあちこちに、コンピュータの環境も含めた我々に身近な現代の話や、映画、音楽などの話が散りばめられていて、著者は古代の世界と現代を行ったり来たりしながら、本ってなんだろうということを多角的に論じています。
 今日は、その訳者である見田悠子さんにお話を伺える機会とあって喜びいさんで参りました。まずはこの本についてご紹介いただけますか。

見田 はい。未読の方も多いと思うので、「世界100万部の大ベストセラー」という、そのあたりの事情からお話しさせてもらえればと思います。100万部のうち60万部以上がスペイン語圏で売れていて、さまざまな言語に翻訳されていっているので、まだ部数を伸ばすのではないかと思います。現在、33カ国で版権が取得されて翻訳が進んでいますが、37言語に訳されているんですね。33と37の差は何かというと、アラゴン語、バスク語、カスティーリャ語、ガリシア語っていうのが入っているんです。スペインもいくつかの地域に分かれているわけで、著者自身はサラゴサ生まれであえてアラゴン語を使うこともあります。とはいえスペイン国内でこうした分厚い本を購入する人なんかは特に、共通語である標準的なスペイン語を何不自由なく読めるはずなのに、わざわざそれぞれの地域に根付く言葉に翻訳している、ということです。それは多分、それぞれの大事な言葉で読みたくなる、自分の本だと言いたくなるような、読者の深いところに届く本に仕上がっているからだと思います。私も、「まさに私が言いたかったことを書いてくれている」と思いながら翻訳をしていました。
 毎月のように出てくるイレネ・バジェホの対談の動画や新聞記事、あるいはスペイン国内の最高峰の賞であるスペインエッセイ賞や世界規模の大きな賞をとった時のインタビューでも、複数のインタビュアーが「本当に自分のために書いてくれたような本だ」という感想を言っていました。今現在の時代のなかで、書店、図書館、人文学、書物自体の重要性を言語化しにくく感じつつも、やっぱりどうしても本が好きで自分にとっては重要だという気持ちがある人に、バジェホの言葉はたくさんの表現のための鍵を与えてくれて、目の前に自分の気持ちを表現するための視界を開き、道筋を示してくれるのだと思います。

山本 まさにこの本の中で著者自身も、子どもの頃から本を読むとき、「この本は自分のために書かれたものではないか」と感じながら読んできたとおっしゃっていましたね。それだけにご自身の本もまた他の誰かにそういうふうに受け取られたら、と述べておいででした。見田さんはこの本とどうやって出会われたんですか。

見田 作品社の倉畑さんが見つけ出してくださって、紆余曲折を経て私が翻訳させていただくことになったんですけど、最初はメールで送られてきたものをパラッと見て、面白そうだからぜひやらせてくださいって言った後、ちゃんと読んでいったら、これはまさに私のために書かれた本だと思いました。
 先ほどお話したことと重なる部分があるのですが、例えば、マルグリッド・デュラスの言葉を引きながら、本を書くということについてイレネ・バジェホ自身がこう書いています。

 始まりのために選ばれた言葉の苗床で産まれ落ちようとしている、まだ書かれていない章がすでに予感できなくてはならない。でも、どうやって? 私の蓄えてきた知識はそのまま疑念となる。書物を開くたびに出発点に戻り、毎回初めて読むように心が揺れうごく。書くことは、書けたとしたら書いたかもしれないものを探し出そうとすることだ、とマルグリット・デュラスは表現している。不定詞から条件法、接続法〔現実ではないと思われる物事を表す用法〕へと、足下で地面がひび割れていくのを感じているように。

(『パピルスのなかの永遠』11頁)

そして彼女は本書執筆の際に、「想像力という血肉とその下のデータという骨格」(12頁)をどう扱うべきか、ということも深く考えて実践しています。このような感覚が今の自分の状況に重なる部分がありました。文章の在り方として理想と感じつつも、自分自身には論文として認められるほどの力強さをもって提示する能力を認められないために放置してきた幻の文体。もし自分が満足のいく博士論文を書けたとしたら、このような形式で書いたのかもしれない。絶対に実現されることのない書物を幻視させてくれているような、自分のなかに向かっても導かれていくような不思議な感覚をもちながら翻訳させていただきました。

山本 翻訳のお話が舞い込んだ時は、迷われましたか。それともわりとすぐ「やります!」という感じでしたか。

見田 正直な話をすると、最初はやりたいなっていうよりは勉強になるだろうなっていう感じですね。

山本 翻訳にはそういう面がありますよね。

■古代ギリシア・ローマと現代を繫ぐ本

見田 実は、私の専門はラテンアメリカの方で、ガルシア゠マルケスをずっと研究してきたんですけれども、ガルシア゠マルケスはギリシア・ローマの古典が好きで自身の作中にも織り込んでいます。なので私も古典の勉強をしようと思うんですが、ホメロスの詩行を読み始めてもいつも挫折していたんです。そうしたことから、これを訳すことで強制的に勉強できるかなと思ってたんですけども、読み始めると、『オデュッセイア』も、例えばプラトンの『国家』のようなものも、こんなに面白かったんだって気づかせてもらえました。訳すにあたって邦訳を参考に見ていたら、不思議なことにどんどん読み進められてしまう。

山本 あちこち寄り道をするので、かえって仕事の邪魔になったりして(笑)。

見田 そうですね。登場する本を確認のために読みはじめるとそこで翻訳は止まり、最後まで読みたいというふうになっていって。日本語訳のギリシア・ローマの時代の古典もとても面白く、いい文章で訳されているということにやっとで気がつきました。

山本 翻訳の参考文献として読む中で、面白さを再発見されたわけですね。

見田 イレネ・バジェホのコメントを頭に入れた上で読むと、古代ギリシア・ローマの人たちがこれほどまでに、現代の私たちと同じことを考えて、同じことに躓いて、同じような問題と戦っているんだなというのが実感できる。それこそ古典の導入の教科書に使ってもいいんじゃないかと思える本ですね。ちょっと話が逸れたんですけど、そう、最初は私の研究にも役立つよね、くらいのノリだったんですけど、読み始めて翻訳し始めると、苦手なことを無理にでも克服する戦いの戦場を提供してくれるというものではなく、新たな魅力的な世界をどんどん開いてくれる本でした。

山本 理想的な本ですね。訳者としても勉強になるし、そこから興味も広げられるわけですね。今まさに見田さんがおっしゃったようにバジェホさんのこの本のとても面白いところは、ホメロスやヘロドトスをはじめ、古代ギリシア・ローマの人たちが書いたものを引用したり、それに対してコメントしたりしながら、書物の歴史的な扱われ方を含めて、その人たちを次々と紹介して下さるところなんです。それがあまりにも面白いので、おっしゃるように引用されている前後も読みたくなって手に取ることになったりもする。たとえるなら、印刷博物館で「古代ギリシア・ローマの書物」という展覧会が開催されたとして、その会場をバジェホさんに案内してもらいながら見て歩くような感じなのです。バジェホさんは古代の話もたっぷりしてくれるのと同時に、それらから連想される現代の作家や文化の話なんかもどんどん絡めて教えてくれる。聴いている私たちは「あれ? 今、古代と現代のどっちにいるの?」みたいな、そういう楽しい気持ちで古代ギリシアからローマ帝国が衰亡するところ、ヨーロッパの中世の入口まで連れていかれます。とても贅沢なギャラリーツアーのような感じで読みました。

■人を救う本、危険な本

山本 バジェホさんは作家であると同時に古典文献学を修めた人でもあるんですよね。どんな人なのか、ご紹介いただけますか。

見田 スペインのアラゴン州サラゴサに生まれて、サラゴサ大学とフィレンツェ大学で古典文献学の博士号を取得して、『エラルド・デ・アラゴン』紙や『エル・パイス』紙といった新聞で古代の話と現代の話を結びつけるようなコラムを2011年くらいからずっと執筆されています。戦争に負け、家族を守るために生き延び逃げる「ケアする男性」である英雄を主人公とした、現代的な視点から『アエネイス』を語り直した小説(『射手の笛 El silbido del arquero』)だとか、スペイン内戦前夜を舞台にした小説(『埋葬された光 La luz sepultada』)も書いています。2014年、2015年には児童書を1冊ずつだしています(『旅の発明者 El inventor de viajes』『おだやかな波の伝説 La leyenda de las mareas mansas』)。新聞に書いてきたコラムももちろん書籍化されています。時事問題に対する見方、切り取り方もすごくスマートです。
 こうしたデータだけ見るとそれなりに順調な作家人生に見えそうですが、実態としては、刊行に至った本がそう売れたわけでもなく、非常に苦しい状況にあったようです。彼女自身は『パピルスのなかの永遠』が最後の本になるだろうと思っていたそうです。それに、古典文献学者が書いた古代ギリシア・ローマを中心に据えた450ページを越えている大部のエッセイで、書物の歴史について書いているものが売れるとは夢にも思っていなかった。出版社側も、売れるわけがないと言うので、実際に刊行に至るかどうかも確信のないまま、自分が今まで本からもらってきた愛情や、助けに対して感謝を表すために、最後の別れの言葉のように感じていたのかもしれません。自分の気持ちをすべてこめて書いたとのことです。この本の執筆に何年かかったかと聞かれることがあるが、自分の人生のすべてがあってこの本があるのだ、とも話しています。周りからいつちゃんとした仕事に就くのと言われていたこともあり、子どもの頃から夢見ていた作家としての人生はもうここで終わるのだと考えて、だからこそなんの衒い欲もなく、真っ正直な気持ちで書けたと。
 さらに彼女自身の話を深堀りすると、最愛の父親をずっと看病してきたうえで数年前に喪くされていて、ほどなくして生まれた息子さんが先天的な疾患によって小児病棟にそのまま入らないといけない状態だったということがあり、10年近く病院と自宅を往復する生活をしていました。お金もないし時間もないし、精神的にも非常に強い圧力を感じる、明日自分が起き上がれるのかどうかわからないくらいギリギリの状態のただなかで、『パピルスのなかの永遠』のエピソードの一つひとつを書くその少しの時間が、彼女にとって、自分を現実とすこし離れさせて、自由で何でもできる状態にさせる、それを執筆するということだけが、次の日朝起きる心の支えになっていたという話もありました。
そのような状況で書かれたにもかかわらず、この本にはペシミスティックな気持ちが全然表れてなくて、とにかく純粋に本への愛情みたいなものが感じられます。本人は、24時間子どもの命を守るために働いてくれる看護師の方々がいてくれるからこそ、平和な世の中で社会保障のシステムが機能しているからこそ、こうして自分が文章を書く幸せな時間が得られるのだという実感から、人類の歴史の中で姓名不詳、無名の一人ひとりの人間が支えてきたからこそ今の書物があり得ているのだという感謝がこの本を貫くことになり、読者も含めたひとりひとりがこの本の主人公なのだと言っています。想像するだに、バジェホの執筆中の状況は肉体的にも精神的にも厳しいものでした。個人的には、自分がもしかしたら明日目を開けることができないかもしれないけれども、いつか読むかもしれない子どもにこれを遺していきたいという切実な気持ちがあったから、こんなに前向きな話ばかりが書かれているんじゃないかな、ともちょっと思いました。

山本 そういうことだったんですね。というのは、この本を終始貫いている隠れたいくつかのテーマ、関心があると思うんですね。その一つは、書かれたものを読む時間についてです。人はどんなに苦しい時でも、本を手にしてそうした苦しい状態からかたとき身を離して、文字と自分の間でしか起きない世界に入っていくことができる(中には本当に本を読むこともできないという状態もあるかとは思います)。少し大袈裟な言い方に聞えるかもしれないけれど、場合によっては魂が癒されるような経験と言ってもよいかもしれません。そのことについて、バジェホさんご本人の経験や他の人のことも書いている。こういう話ってうまく書かないとお説教臭くなってしまうというか、正論だけどちょっとどうかなと、かえって人を警戒させると思うのですが、この本はそういうところがまったくないですね。今の見田さんのお話を聞いて、そうなんだなと腑に落ちたました。ご本人が、文字を使って書くことや読むことの喜びとか効能を率直に書いたから伝わるんだと思いました。

見田 ニコ・ロストのあたりをちょっと読みましょうか。

山本 ぜひお願いします。ナチスの時代に強制収容所に収監された人びとがどうやって自分の正気を保つかという話があって、その一つとして、とても印象深い例が紹介されているんですよね。

見田 ダッハウ収容所というナチス・ドイツの収容所にいれられてしまったオランダ人の翻訳家であり、いろんな文化的活動をしてきたニコ・ロストという方に関連する部分です。

非常な困難を乗り越えて紙を手に入れ、毎日隠れて数行殴り書きしては、隠し場所にしまう。興味深いことに、強制収容所から解放されたのちに出版されたその日記に書いてあったのは、欠乏の話ではなく、自らの思考の記録だった。こう書かれている。「空腹について話す人は空腹になる。死について話す人々は一番先に死んでゆく。ビタミンL(文学)とF(未来)は最高の糧だと私は思う」「全員が感染し栄養失調で全員死んでしまうだろう。もっと読まなくては」「基本的な事実。古典文学は助けとなり力を与えてくれる」

(『パピルスのなかの永遠』285頁)

これは一つの例なんですけども、ロシアのグラーグだとか、『夜と霧』のヴィクトール・フランクルの話だとか、そういった極限状態に置かれた人がどのようにして本というものを心の支えにして生きのびたかということをいろんな資料を集めて語っている部分があります。

山本 この例は特に印象深くて、現代の日本だとしばしば「文学なんか研究してなんの役に立つの?」という話になり、「シェイクスピアを研究するくらいなら、英語で道案内する表現を覚えた方がマシだ」ということを言う人がいたりもしました。その場合の「役に立つ」という見方自体が狭すぎる。みもふたもない言い方をすれば、「お金儲けになりますか」という話をしていると思うけれど、なぜ本を読むのかといえば、そういう次元の話だけではないわけです。
 見田さんのお話に関連して、その横に並べてみたい本があったのでご紹介します。一つはジョゼフ・チャプスキの『収容所のプルースト』(岩津航訳、共和国)です。著者はポーランドの人で、やはりナチスの収容所に収監されたのですね。そこで囚人同士で集まって、収容所の中で隠れて勉強会をやるんです。とはいえ、参照したくても本は手に入らない。どうするかというと、チャプスキさんはかつて読んだプルーストの『失われた時を求めて』について、記憶をたどりながら話したといいます。そうした営みを通じて、ひどい状況に置かれた収容所でなんとか正気を保って生きのびることができた。その経験を書いたのが、この『収容所のプルースト』という驚くべき本です。これ以上の極限状態はないという場所で、文学が人を救った例です。
 それと裏腹なのですが、『パピルスのなかの永遠』には本の危険性という話も出てきますね。歴史を振り返れば、本が燃やされ、破壊され、没収されるということが頻繁に行われてきた。では、なぜ本が危険かということを考える際、アーザル・ナフィーシーさんの『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、河出文庫)が思い出されます。ナボコフの『ロリータ』は、テヘランで禁書になっている。おおっぴらに買ったり読んだりすると捕まってしまう。大学で文学を教えていたナフィーシーさんは、隠れて学生たちと『ロリータ』の読書会を行うのですが、同書にはその顛末が書いてあります。それは遠い昔の話じゃなくて、20世紀のことなんですよね。こうしてる今も本や文学というものが世界のあちこちで弾圧されたりしている。それはなぜかといえば、詩や小説という創作物が、人々の頭の中をイメージによってつくり変えるということを為政者はよく知っているわけですね。文学の想像力によって、現状を変えようという気持ちが人々の中に広まるとまずいと考える者は、「これはけしからん」と言って弾圧することにもなる。それでもめげずに、隠れて読書会をやる。その様子がこの『テヘランでロリータを読む』には臨場感あふれる筆致で書かれています。
 バジェホさん自身もそういう本の力を実感している。そして過去にもそういう人びとがいたということを教えてくれるんですよね。

見田 そうですね。ちなみにバジェホ自身についても、フランコ政権下では両親が迫害される側だったので、フランコ政権が終るまでは子どもを持たないと両親が決めていたということがあり、だから生まれる前の歴史も自分の存在に直結したことだったんだという話をしています。それから、今の話から、「金儲け」に直結しないために今の時代は見過ごされがちになっている読書の力について三つくらい話したいことがでてきちゃったんですけど。一つは人と人とを繫げる本の力ということです。『トリルセ』のところを読ませてもらおうかなと思います。

知り合って間もないころに、父は母にセサル・バジェホの青春の詩集『トリルセ』を一冊贈った。きっと、その詩が呼び起こした感情なしには、その後のすべてが起こりえなかっただろう。ある種の読み物は障壁を突き崩す一つの手段であり、ある種の読み物はそれを愛するというだけで見ず知らずの人に対する私たちの評価を高めるのだ。かのすばらしきセサル・バジェホとの血縁関係はないけれども、私は彼を私の家系図に取り込んでいる。私の遠い祖先たちと同様に、その詩人は私が存在するために必要だったのだから

(『パピルスのなかの永遠』362頁)

■古代の本の生態

山本 まさに今我々もそういうことを実感しながら生きているかと思いますけれど、本を読む人が、同じ本を読んでいることを通じてどこかで繫がりあう、ということがありますね。しかもこの本の主題に改めて繫ぎなおせば、我々は現在でもホメロスをなぜか読めてしまう。考えてみるとものすごいことですよね。紀元前8世紀末くらいに、まだ当時は書かれていたのではなく、詩人たちによって口伝えで歌われていた長大な1万5千行くらいの詩が、はるか何世紀にも及ぶ時代を越えて言語の壁も越えて各言語に広がって、時間と文化の違いを乗り越えて、今ここにたどり着いて、我々もそれを読む。
 『パピルスのなかの永遠』の冒頭部分は、まず古代ギリシアの話が出てきますが、その中心に置かれているのがアレクサンドリア図書館です。アレクサンドロス大王が領土を広げていくなかで、領土に「アレクサンドリア」と名づけられた都市がいくつもつくられる。その一つ、エジプトにつくられたアレクサンドリアに、大王が亡くなった後、彼のもとにいた人が都市をつくりなおして、大図書館をつくる。そこでは当時世界中で書かれていた書物を全部集めるという──今ではGoogleがそれを理念的にやろうとしているわけですが──とんでもない発想で図書館をつくったと言います。そして、集められた本を分類整理しないといけなくなるというので、今でいう「フィロロジー(philology)」が出てきた。これを「文献学」と訳すと、元の語に含まれていた意味が失われてしまうので、できたら訳し直したいと思ったりします(笑)。「philo-」というのはギリシア語で「なにかを愛する」「好む」という意味で、後半の「-logy」とは「ロゴス」で「言葉」や「条理」などを意味します。つまり、philologyとは、「言葉を愛する」、あるいは「言葉で表されたものを愛する」「学問や文芸を愛する」「書物を愛する」ということなんですね。言葉や書物を愛する人たちがたくさんの文献を大図書館に集めたはいいものの、当時は今のように印刷物ではなく、手書きの写本でした。そこで、例えば同じホメロスの『イリアス』でも細部が違っているものが並ぶことになる。アレクサンドリア図書館に集まった哲学者たちが写本群を見比べて、一番よいホメロスの『イリアス』をつくろうとした。当時つくられた『イリアス』の行番号の振り方は現在の版にも繋がるもので、私たちが今ホメロスをこういう形で読めるのも、一つにはアレクサンドリア図書館の司書たちのおかげとも言えそうです。
 ところで、一つ前の話に戻すと、冒頭部分でアレキサンダー大王が遠征をするときには常に『イリアス』を持っていて、読み続けてたと書いてありますね。これがとても印象深くて、バジェホさんのこの本の一つの導きの糸はホメロスのような気がしました。このホメロス、今では一人の詩人だったのか、複数の共作なのかと疑いがもたれていますけれど、それはさておくとしても、その作品を時間と文化と言語を越えて共有して、同じホメロスを読んでいる人に対してなにか感じ合うということも十分あるわけですよね。ということを今お話しを伺いながら、補助線を引いてみたかったんです。見田さんは、先ほどあと三つくらい話したいことが浮かぶっておしゃっていましたが、いかがでしょう。

見田 既になにを話そうとしたか忘れてしまったんですけど(笑)。この本にもあるように、ホメロスの詩行が初めて書かれた時から、これは好きだ、これを守らなきゃという気持ちがある姓名不詳の人が、それまでの手稿書を一文字一文字手で写さなければ、もしくは写してもらわなければ、次の本はできなかった。そのパピルスの紙自体が、虫に食われるし、水で腐れるし、燃えやすいし、とても脆く、儚い素材だったんだけれども、それを一人ひとりの名も知られない人びとが守り、複製してきて、それが何千年も続いているわけですよね。その間には、例えばサッフォーの詩だったら、けしからんからすべて燃やしなさいっていうことがお上から言われたりとか、バジェホ自身もフランコの時代に、おばあちゃんがドストエフスキーの小説をまだ読み終えてないのに、見つかったら大変だと言って焼いちゃって、読み終えることなく一生を終えてしまったなどの話もしていましたけど、本は貴重であり、迫害の対象でもあった。少なくとも印刷機が発明される前というのは、この本は次の世代の人も読むべきだっていう、未来へのまだ見ぬ人の権利への想像力がないかぎり、ここまで続かなかっただろうし、こんなに昔のものを今手にできるっていうのはまさに奇蹟であるというのを、いろんな変奏を繰り返しながら語ってますね。

山本 本当ですね。そう意味では、古代ギリシア・ローマの書物を一方では言祝ぐ話であり、他方でそれと裏腹に書物はかなりフラジャイルで放っておけば滅んでいってしまうものでもあるという話でもありますね。特にパピルスは、だんだんボロボロになって崩れて形もなくなっていってしまうので、適宜書き直して再生していく必要がある。繰り返し誰かが再生していかないと消えてなくなってしまう、そういう脆さがある。現代のデジタル環境を使っている私たちから見ると、コンピュータのデータに比べたらパピルスはとても丈夫にも思えます(笑)。なにしろコンピュータがクラッシュしてデータが無くなるのに比べたら堅牢です。でも、書物も物質でありますから、誰かがケアしないと消えてなくなる。
 ヤマザキマリさんととり・みきさんという2人の漫画家が書いた『プリニウス』(全12巻、新潮社)を読むと、その点についてイメージを膨らませられそうだと思いました。『博物誌』を書いたことで知られる大プリニウスの生涯を綴った漫画です。第8巻にアレクサンドリア図書館の内部が描かれています。プリニウスがアレクサンドリアを訪れて、図書館に踏み込むシーンです。また、プリニウスが書記を雇って、その人に本を書き写させている場面が出てくる。これは第2巻の冒頭あたりです。プリニウスのもとを訪れた人が、そこにいる男を見て「この人は何してるのか」と聞くと、ずっとプリニウスのために本を書き写していて、今は『ゲルマニア戦記』の清書をしている最中だという。どのくらいやってるかと聞けば、もう4年は家から出てないと答える。そういう場面もあります。『プリニウス』を読むと、当時の標準的な本の形だった巻物を書いたり読んだりする大変さというのもわかります。
 それと先ほど、失われた書物の話がありました。これについては、ディオゲネス・ラエルティオスというギリシア人が、いろんなギリシアの哲学者のエピソードを厖大な書物から集めて書いた『ギリシア哲学者列伝』(全3巻、加来彰俊訳、岩波文庫)という本があります。とっても面白いい本で、バジェホさんも『パピルスのなかの永遠』で何度も参照していますね。ディオゲネス・ラエルティオスによる紹介には、プラトンはこういう人で、こういうことをやって、これだけ本を書きました、アリストテレスはこういう人で、こういうことをやって、アリストテレスの本って200巻あるんですよとか書いてある。我々の手元に結構な分量のプラトン全集、アリストテレス全集が残って伝わっていますが、ディオゲネスが触れている本のなかにはいまでは残っていないものもたくさんあります。彼が書き留めておいてくれたから、そういう本があったということが記録されているわけです。ぜひバジェホさんの本の隣に置いていただきたいと思ってこれもご紹介します。ただし残念ながら目下は品切れ中なので、読みたいと思った方はぜひSNSなどで要望をつぶやいてください。ひょっとしたら、それを見た岩波書店の人が、重版予定に入れてくれるかもしれません(笑)。

【対談#2】に続く

【プロフィール】
見田悠子(みた・ゆうこ)
ラテンアメリカ文学研究者、大学講師。専門はガルシア゠マルケス。論文・論考に、「黄金郷の孤独」(『れにくさ』現代文芸論研究室、2013)、「いくつもの世界のひしめく文学」(『ユリイカ』青土社、2014)、「『眠れる森の美女』以降のガルシア゠マルケス」(『〈転生〉する川端康成』文学通信、2022)ほか。訳書に、ジョシュ『バイクとユニコーン』(東宣出版)、サマンタ・シュウェブリン『七つのからっぽな家』(河出書房新社)ほかがある。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家、ゲーム作家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1971年生まれ。主な著書に『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)、『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『世界を変えた書物』(小学館)、『文学のエコロジー』(講談社)のほか、共著も多数。