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【対談:年末年始・特別対談一挙公開!】いったいゴジラは、私たちに何を語るのか?

 公開されてから、歴代ゴジラ映画のなかでも、好評価の『ゴジラ−1.0』。アメリカをはじめ世界でも評価が高いようだ。

 同作をめぐって、「シン・ゴジラ」はいうに及ばず、「すみっコぐらし」「ちいかわ」「ゲゲゲの鬼太郎」、北野武監督映画『首』も参戦。
 一体、何が問題で、どんなことを「ゴジラ」は、語ってくれるのか?
 批評家の杉田俊介氏と藤田直哉氏(日本映画大学)による、三時間、白熱の本格批評対談。


◆みんなに評価される「ゴジラ」


杉田 今日は主に『ゴジラ−1.0』と山崎貴をメインに議論しましょう。近年のゴジラ映画には様々な展開がありました。たとえばローランド・エメリッヒ監督『GODZILLA』(1998)、庵野秀明脚本・総監督、樋口真嗣監督・特技監督『シン・ゴジラ』(2016)、「虚淵玄版」ことアニメ三部作(『GODZILLA 怪獣惑星』(2017)、『GODZILLA 決戦機動増殖都市』(2018)、『GODZILLA 星を喰う者』(2018))、円城塔脚本のアニメ『ゴジラ S.P<シンギュラポイント>』(2021)、ハリウッドの「モンスター・ヴァース」ではギャレス・エドワーズ監督『GODZILLA ゴジラ』(2014)、ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督『キングコング:髑髏島の巨神』(2017)、マイケル・ドハティ監督『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)、テリー・ロッシオ監督『ゴジラvsコング』(2021)など。ちなみに『ゴジラvsコング』は来年4月に続編が公開されます。


  ゴジラ映画では、映画内の日米関係と現実の日米関係、そして日米の映画界の関係がメタ構造的に入れ子になってもいます。
 藤田さんは戦後のゴジラ映画の歴史性を論じた『シン・ゴジラ論』の著者でもありますので、2010年代以降のゴジラの展開をどう考えているか、聞いてみたいです。
 もう一つ、山崎貴の特異性について。
 山崎監督は、ああ『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)の人ね、と軽く見られたり、アニメ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(2019)ではバッシングを受けたりもしました。しかし、現実と虚構がモザイク状になった映像を通して「戦後」の虚構性そのものを問い直す、という主題を一貫して抱えてきました。特攻的な自己犠牲の主題もあります。また『ラストサムライ』に対抗しうる時代劇を依頼されて子ども向けアニメ『クレヨンしんちゃん』の実写化を試みたり(『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009))、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』の実写版を撮りたいと主張するなど、不思議な過剰さがあります。結局関わりませんでしたが、2020年の東京五輪式典のプランニングチームの一員にも選ばれていました。椎名林檎などのモダニズム的かつナショナリズム的な感性をもった人たちとともに。無視できない作家性と影響力を持った映画監督だと思います。
 2016年に庵野秀明の『シン・ゴジラ』の公開時、僕はSNSで「今、一番作ってはいけない映画ではないか」、「ニュータイプの国策映画なんじゃないか」等と書いて炎上したことがあります。『シン・ゴジラ』には、政治と資本が結託してすべてをなし崩しにし、無責任に振る舞うという戦後的ナショナリズムに対して、優秀な官僚とオタク的な技術者たちが連合して、ある種のモダニズム的なファシズムによって戦後の閉塞を超える、というモチーフがありました。それに対する評価は色々あると思いますが、当時の僕はそれに対して、東京五輪や大阪万博の前でもあったし、非常に危ういのではないかと感じた。
 でも今から考えると、僕の状況判断は完全に誤っていた。この国の現実は想定よりもはるかに酷かった。『シン・ゴジラ』的なファシズム性に行くことすらできず、何もかもが旧来のまま、ぐずぐずのまま、ずるずるべったりのままです。そしてそのぐずぐずさのままに、縁故的で封建制的な政治と資本が結託しながら、女性総参加社会、LGBT、SDGsなどをも取り込んでいく。そうした「何も変わらない、戦後政治もずるずると終わらない」という諦念のような空気の中に『ゴジラ−1.0』が登場した。現時点では、概ね好評価のようです。


 藤田 好評価ですね。日本人でいえば、斉藤環さんが「『シン・ゴジラ』と並ぶようなゴジラ映画の最高傑作」と評していますし、アメリカの批評家筋も高く評価している他、実写の日本映画として最高記録を更新する水準の興行成績を挙げています。『シン・ゴジラ』と比較して国内からの熱狂的な批評は少ないように感じますが、国内外で高い評価を獲得したと言っていいと思います。

杉田 右からも左からも、リベラル側からも保守側からも感情的に共感できる。物語やセリフの面では左派リベラル的、映像や形式の面では保守・右派的。かなり自覚的に構築されています。

◆シン・ゴジラVS. ゴジラ−1.0


藤田 僕は、率直に言うと、『シン・ゴジラ』の方がすごかったと思います。良くも悪くもある種の熱狂や新しさのようなものがあり、自分は惹かれました。だからこそ批判しなければならない、これは危険だ、という気持ちもあったわけです。僕は「ニュータイプのファシズム」「ニュータイプの日本浪漫派」と当時批判していましたが、そのようなオタクの美学とナショナリズムの繋がったものが、震災から五輪開催を経て戦争に繋がりかねない新しいファシズム的な美学・感性を形成することを警戒していました。政府と吉本のつながりなどのような形で、国民を美や芸術によって統制する方向に行ったらマズいな、と危惧する気持ちがあったんです。当時は政府のマスメディアなどのコントロールも進んでいて、その危惧には正当性があったと思っています。
 しかし、今、オリンピックは不発に終わり、岸田政権に代わって、状況が変わった今は、同じような強い警戒心は持っていません。率直に言って、日本にはそれを遂行する能力がないんじゃないかと、拍子抜けした気持ちもあります。デジタル庁のマイナンバーカードの騒動を見ていても、そう思います。それは、今となっては過剰な警戒だったかもしれないと思います。しかし、もっとずるずるべったりな、統制されない形で動いていく変な形のファシズム、ナショナリズムが動いているのかもしれません。
 『シン・ゴジラ』の場合は、構造が面白かったり、メタ的要素があったり、虚構と現実を入れ替えたり、あるいは現実の政府に対する批判、SNSを巻き込む等、いろいろな企みがありまして、そこに観客としても批評家としても興奮していました。それに比べると『ゴジラ−1.0』はストレートですよね。ですから普通によく出来たゴジラという印象で、他のゴジラと較べて全体の中ではよく出来た方だけれど、特に熱狂的に肯定も批判もしたくならない作品でした。その前提の上で、あえて気になった論点を言えば、『シン・ゴジラ』がやらなかったところに絞っているところは興味深かったです。『シン・ゴジラ』は、これまで第二次世界大戦と原爆、核兵器と結びついていたゴジラの象徴を、震災と原子力発電所の事故に変える戦略の映画だったわけです。震災を直前に経験した我々が、フィクションでそれを一度経験し直し、トラウマを喚起させられたり上書きしたりするという、最初の『ゴジラ』が戦争との間に持っていた関係を再現しました。当然、『シン・ゴジラ』では戦争の主題が後景化してしまうわけですね。
 『ゴジラ-1.0』は、「戦争の反復し続けるトラウマとしてのゴジラ」という側面を真正面から引き受けていたことに、好感を抱きました。ゴジラシリーズがなぜこれほど作られ続けるのか。ゴジラだけではなく、ウルトラマンの怪獣しかり、東京がなぜこんなにいろいろなものに襲われ続け、壊され続けるのかについては、サブカルチャー研究の蓄積があります。『AKIRA』でも「エヴァンゲリオン」シリーズでも東京は壊滅させられていますよね。それは、戦後日本のサブカルチャーは、戦争のトラウマを、何度も悪夢のような形でエンターテインメントやフィクションの中で反復していると解釈されてきました。「宇宙戦艦ヤマト」シリーズも「ガンダム」シリーズもそうですね。「萌え」が主流化したゼロ年代以降や、「推し」が主流化した一〇年代には相対的に数は減って来るのですが、そういう戦後日本のサブカルチャー、SFにある無意識な情動それ自体を作中の物語で再現しているところが、面白かったです。フロイトが「快感原則の彼岸」で、戦争のPTSDと子供の遊びを結びつけて論じていることが示唆的なんですが、戦争のトラウマを乗り越えようとして、ある種フィクショナルな遊びを反復し続ける集団的な無意識の自己治療みたいな側面が、多分戦後のサブカルチャーにはあったんだと思うんです。
 今回の『ゴジラ−1.0』は「戦争のトラウマとしてのゴジラ」をストレートに描いています。そして、主人公個人のドラマに託して、集団的なトラウマをどう克服するかという主題を重ねていると推測されます。それは必然的に、戦後日本のサブカルチャーの総体と対峙するという含意を持ちます。繰り返される悪夢としてのゴジラ映画、戦争アニメ、このトラウマを解除できるかという問いが潜在的にある。それが解除できたのかどうかは、よく分かりません。多分、ゴジラ映画はこれからも作られ続けると思うので、結局、解除されはしないのでしょう。けれど、戦後日本のSFやアニメそれ自体の歴史に対峙し、批評的に作品を作る作家としての山崎貴が、それを試みたと読むことは可能だと思います。
 赤坂憲雄は「ゴジラは鎮魂の儀式」だと言っています。最初の『ゴジラ』は、能や神楽を参照していました。山崎貴も、ある種のお祓い、慰霊と鎮魂の儀式のようなものとしてゴジラを捉えていると語っています。赤坂は、日本社会でなにかもやもやしたものが溜まってきた時に、ゴジラというフィクショナルなものがやってきて、それを追い払うことで心理的禊をする、そういう装置である、と言っています。かつての戦争の負の記憶みたいなものを祓う。
 そして、一番重要な問題は、祓った結果、どうなるのかということ、どうなることを期待している作品であると読みうるのか、ということです。作中の物語だけを見れば、頑張って戦おう、戦争できる国にしよう、民間人が戦争に協力しようみたいな話になるようなニュアンスも感じるんです。
 柄谷行人は、戦争のトラウマ、つまりは「死の欲動」が我々の超自我となり、それが憲法9条を守らせているのだと言っています(『憲法の無意識』、岩波新書、2016)。それに対応させると、『ゴジラ−1.0』は、戦争によるトラウマが死の欲動になり、それが超自我として機能した上で、その超自我が反戦の決意をさせるのではなく、むしろ主人公を戦争(ゴジラとの戦い)に向かわせるという構造になっています。
 かつて撃たなかったことによる死者からの負い目を果たすために、自分がもう一度飛行機に乗り特攻するかしないかという葛藤が作品のサスペンスの中心になっているわけですが。最初のゴジラサウルスを撃たなかったことがトラウマになっているという設定は、インタビューなどによると、脚本段階では逆だったようです。脚本段階では、撃ったために怒ったゴジラがやってくるという話だったようですが、どこかの時点で撃たなかったことがトラウマになったと変更された。その変更で、憲法9条的な主題がより濃くなった気がします。押井守の『パトレイバー2』(『機動警察パトレイバー2 the Movie』、1993)と似ていますね。
 トラウマによる死の欲動が憲法9条を守り、不戦の誓いをするという柄谷解釈に反して、むしろ戦うことを促すというのが、『ゴジラ−1.0』の分かりやすいイデオロギー的なメッセージだと思います。それがいいのか悪いのか、難しい問題です。各地で戦争が現実に起こっている時代ですよね。ロシアと日本は十数キロしか離れていません。その状況の中で日本の作品としてそのような姿勢を示した、しかも、軍隊ではなく民間人が自分たちで立ち上がるという物語を描いたのには、時代の影響を感じます。



◆戦争とゴジラ


杉田 憲法9条の理念ではゴジラサウルスの暴力には抵抗できない、ということですか。

 藤田 撃たないことを選んだら、その結果、人が大量に死んでしまう。我々日本が国際紛争に兵を送らないという選択をしたり、攻め込まれても不戦を選び続けていたら、たくさん誰かが死んでしまうだろう、ということの寓話に見えます。

 杉田 僕は『ゴジラ−1.0』からはあまり戦争や原爆のモチーフを感じなかった。広島、長崎に続き東京に原爆が落とされ、本土決戦をやり抜き、民衆がそれに蹂躙され、外敵をきちんと憎むことができたなら、戦後日本は「健全なナショナリズム」を手に入れて、誰の命も粗末にしない利他的な国民になれる――というファンタジーを提示したんだな、と感じました。天皇や国家に依存せず、健全な民間の利他性によってナショナリズムを作り直そうとする。
 滅私奉公の回避という主題は、『永遠の0』(2013)の実写化も含めて山崎貴にはオブセッションのようにあります。『ゴジラ−1.0』では、上からの命令で命を粗末にする滅私奉公や特攻は否定されますが、国民を守るための利他性や、貧乏くじを引くことは肯定される。
 僕はどちらかと言うと、アメリカ、天皇、戦死者の哀悼、アジアの民への罪悪感、原爆等の、ゴジラシリーズが反復してきた主題、暗喩、象徴などをむしろ切り捨てたのではないか、という印象がありました。たんなる外敵としての動物、街で遭遇する巨大な熊のような動物的なゴジラ。

 藤田 確かに害獣に近い感じで描いてますね。

 杉田 最初のゴジラサウルスは、スピルバーグの『ジュラシック・パーク』(1993)も連想しますが、怪獣というより恐竜ほどのサイズ感ですね。ゴジラは人を食べてはいけないという制約があるそうですが、ゴジラサウルスは兵士を食べずに、シャチのように咥えて放り投げて殺傷する。それがとても動物っぽい。そして動物的な他者(敵)だからこそ、人々は屈託のない純粋な憎悪をゴジラに向けられたのではないか。害獣的外敵を打ち倒すことで、特攻の失敗のトラウマを現実原則に昇華して、罪悪感と戦後的呪縛を乗り越える。エメリッヒ版の1998年の『GODZILLA』は、神聖で崇高なゴジラを単なる巨大動物や恐竜にしてしまったと批判されたけれど、山崎貴の戦略はエメリッヒ的なものに近いのではないか。
 山崎監督の『ユア・ストーリー』は炎上して、いまだに批判されています。「ユア・ゴジラ」を懸念する声も多かった。僕は最近はじめて観てみたんですが、庵野秀明の『シン・エヴァンゲリオン』のラストのように、「ゲームに逃避せずに現実を見ろ」「成熟しろ」という作品なのかと先入観で思い込んでいた。しかし全く逆ですよね。「ゲームの世界に撤退してもいい、そこで経験することも人生の重要な意味がある、現実に帰れなどという残酷なことは絶対に言うな」という作品でした。


 藤田 「現実に帰れ」と主張するのは悪役で、対立と葛藤の末に主張されることは、フィクションの経験やフィクショナルなキャラクターとの関係にも意味があるということでしたね。

杉田 その意味では、『ゴジラ−1.0』はやっぱり「ユア・ゴジラ」なんじゃないか。つまり、主人公は戦争PTSDとサバイバーズ・ギルトから鬱病になっている。中盤に、自分は実は最初の大戸島で既に死んでいて、戦後の現実は死体になった自分が見ている夢なんじゃないか、と絶叫するシーンがあります。あれは〈真実〉なのかもしれない。つまり『ゴジラ−1.0』は、死体になった日本が見ている夢であり、ファンタジーなのではないか。そしてそうした夢を否定してはいけない、現実に還れと言ってはいけない、なぜなら現実は悪夢以上の悪夢なのだから、と。
 たとえば山崎作品は、船や電車、ビルが引っくり返って墜落していくシーンの中に、悪夢のオブセッションがある。炎で焼かれたり爆弾で吹き飛ばされるよりも、墜落して水に落ちていく方が怖い、という感じでしょうか。たとえば『アルキメデスの大戦』(2019)の冒頭の、戦艦大和が転覆して沈没していくシーン。
 現実が酷すぎるからファンタジーの夢に一時撤退するということに対して、今の自分には両義的な感情があります。『シン・ゴジラ』のようなオルタナティヴな国家を目指すことが不可能であるなら、日本の現実なんてどうせ変わらないんだから、せめて日本的な人情を選ぶという――それ自体がノスタルジー的なユートピアの夢なんだけれど、せめていい夢を見たい。
 最後の〈海神(わだつみ)作戦〉は、ゴジラを垂直に水没・浮上させて水圧で倒そうとします。あれは山崎貴自身の悪夢の象徴である、水に落ちていくことをゴジラへも適用しているのかな。面白いのは、オキシジェン・デストロイヤー的な原子力を超える新技術によってゴジラを倒すという、イノベーションによる戦略ではない。泡と水という自然の力を借用する。ある意味ではSDGs的です。海神作戦は、あの当時のお金もない貧乏な民間人にも可能な作戦とされる。その点はよく考えられています。『シン・ゴジラ』や『エヴァ』のような国家全体の総力戦ではない。エコロジー的かつ貧乏くさい戦い。


 藤田 今の話で重要なのは、原子力を含む科学のモチーフが『ゴジラ-1.0』では後景化している点だと思います。戦後の日本では、科学は人類の進歩と発展、栄光の象徴とするところがありました。『ゴジラ』は、むしろそれこそが核兵器やゴジラを生み出してしまうということを突きつける批評性がある作品なわけですが、その要素が全然ないんですよね。一作目の『ゴジラ』では、芹沢博士が苦悩しながらオキシジェン・デストロイヤーを使用する。ゴジラを倒すのも科学の力なわけで、そこの屈託があった。核爆発については、アポカリプスを予感させる描写を銀座辺りで見せて、その後に黒い雨を降らせていますが、「科学」というニュアンスではない。そこは今回の『ゴジラ−1.0』の一番不思議なところです。

 杉田 そうですね。不思議です。

 藤田 多分それは主題とも関係しているのではないかと。科学や技術に頼らず、アナログで頑張って勝つというパターンの物語の系譜がありますよね。多分、『ゴジラ−1.0』の元ネタの一つは、水の上で宇宙人たちと古い戦艦が戦う、映画『バトルシップ』(2012)だと思います。最先端の技術ではなく、アナログな古いテクノロジーや人間の根性が勝つんだという話の類型があり、それはある種の人々への慰めとエンパワメントになってきました。そこに真実があるのか、単なる代償的な負け惜しみなのかは判断が難しいところです。その構図は現在の日本とも重なっているように感じます。アメリカや中国にテクノロジーやAIでは勝てないから、人力と根性で頑張ろう、むしろ昔ながらのやり方こそがいいんだ! みたいな(笑)。

 山崎貴は第一、二作からそうなんですが、SF的主題、つまり科学と未来それ自体のあり方に批評的に介入する人ですよね。『三丁目の夕日』もそうですが、科学がポジティヴな未来を見せられた時代がかつてあったこと、その時代を丸々再現する話を描く傾向があるわけです。だから、科学をもっとちゃんと扱うべきだと思うのですが、科学が未来をネガティヴなものにしてしまうという、ゴジラが本来持っている、文明批判的で悲観的な、暗い側面をかなり減らしている。その点が、興味深いところですよね。

◆ゴジラVS.ヤマト


杉田 『ゴジラ−1.0』は『シン・ゴジラ』に対する応答であるとされます。僕は個人的には、『アルキメデスの大戦』の方が庵野秀明的なものへのアンチテーゼだったという印象がある。旧海軍の腐敗と非合理に対して、オタク的な数学の天才が合理性と官僚制の力によってそれを乗り越えていく、という『シン・ゴジラ』的な物語になるのかと思いきや、実はそれすら日本的なニヒリズムに対しては無力だった。そういう虚無的な結論を突き付けられます。
 加藤典洋が吉田満の『戦艦大和ノ最後』(初版1974、講談社文芸文庫など)について書いていますね。せめて自分たちの敗北を記憶することで、捩じれや屈託を抱えた戦後的主体を再構築していこうと。先ほどの柄谷行人の憲法論にもつながりますが、欠点のない健全で完全なアイデンティティを目指すのではなく、汚れや敗北、屈折や弱さを抱えたまま生きていけるアイデンティティを選び直そう、というのが加藤典洋の〈戦後的思考〉であり〈敗者の想像力〉です。その意味では『ゴジラ−1.0』は、加藤的な「戦後」を打ち消し、利他的で健全で真っすぐなアイデンティを回復する。それに対して、日本は決してそっちに行けないというニヒリズムを突き付けたのが『アルキメデスの大戦』だった。それは『シン・ゴジラ』的なものへの疑念をも含んでいたような気がする。
 けれども『ゴジラ−1.0』では、そうした日本的ニヒリズムに向き合ったというよりも、もうずるずるのニヒリズムに向き合っても仕方ないので、むしろ健全でまっとうな夢を見よう、という感じに思えました。

 藤田 加藤典洋は、ゴジラは、加害者なのか被害者なのか日本人自身が理解し切れないことを象徴していると言っています。その捩じれがダイレクトに出たのが、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)です。第二次大戦で負けて沈められた戦艦大和を改造して、人類をナチスのような宇宙人から救うために宇宙へ飛ばすという話ですね。地球は核兵器による放射能で汚染されまくっていて、それを戦艦大和が救うための旅をする。自分たちの敗北した歴史を想像力の中で修正しているようにも見えるし、新生を近い世界のために戦おうとする作品にも見えますよね。山崎貴は実写版の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010)も作っているわけなので、その辺りの問題に触れているし、必ず深く考えているはず。『ヤマト』も、決着が特攻で玉砕、みたいになってしまう作品であって、劇場版などで特攻や玉砕が少ないバージョンに作り変えたりとか、『ゴジラ-1.0』の核心のドラマと同じ葛藤を抱えた作品ですね。
 『ゴジラ-1.0』は、そういうゴジラのどろどろした割り切れなさの感覚が薄いですよね。川本三郎はゴジラを「戦死者である」と言い、赤坂憲雄は「鎮魂の儀式である」と言い、加藤典洋は「被害と加害の割り切れなさである」と言った。そのように情念的な割り切れなさのようなものが、どろどろとあるわけです。でも山崎貴はそこをなくしてしまい、すっきりさせてしまった。むしろ本作こそが、それをしようとしている作品だというか。

杉田 『ジュブナイル』『リターナー』の頃からパスティーシュ、引用の織物の人ですよね。今回はスピルバーグのイメージが強い。ゴジラは『ジュラシック・パーク』的な恐竜から『ジョーズ』(1975)的なサメに形態変化する。よく言われているのが、今回のゴジラは殺意が非常に高い。人間を襲う狂暴な動物。あまり頭もよくないし、崇高さもない。

藤田 ゴジラには、第二次世界大戦の死者――英霊も含む――たちの倫理的呼び声という側面があるわけですよね。多分、本作はその文脈を踏まえてるんだと思うけど、それでああいうようにつるっとなってしまうのが山崎貴の作風であり、批評性であり問題性なんでしょうね。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズも、昭和という時代をCGを使って綺麗にクリアな世界として描いています。そこでは有機体的イメージやどろどろした感じが薄れてるんですよね。それは過去が理想的に美化されたレトロトピアという側面が強かった。今回の『ゴジラ−1.0』も、僕は銀座のシーンまでは観ていてイライラしてしまったんです。まず衣服がきれいすぎるし、セットもほとんど汚れていない。戦後ってそんな清潔な環境じゃないでしょう、と。同じ時期に塚本晋也の『ほかげ』(2023)を観ました。塚本晋也は、もっと建物や服やメイクも汚しているし、孤児も飢えているし女性も体を売ってなんとか食っている地獄のような状況を描き出している。塚本晋也は、『野火 Fires on the Plain』(2015)で、戦争や死のイメージが昨今の作品ではきれいになり過ぎているのを批判し、取材してリアルなものを作ったわけですが、本作でもそれが内容・デザインで貫かれています。
 それに対し、山崎作品は全部がきれいすぎると思う。作中の主人公とヒロインにしても、長年一緒に住んでいれば性関係も生じると思いますが、まったくその匂いもない。『ほかげ』では、戦争のトラウマを負っている男は暴力的になりDV的になったりするわけだけど、『ゴジラ−1.0』にはそういったシーンもなく、トラウマの蘇りもソフトですよね。昭和にあった生々しさ、有機性がまったく排除されて、アニメ的になっている。ノスタルジアにおける美化、ある種の歴史修正主義みたいなものと、CGアニメ的な感性で実写を作るという描き方自体が重なってしまっていて、そこに強い不満と問題性を感じた。今村昌平が経験し、描いているような戦後とは全然違うんですよね。
 戦前的なものとは、この作品で描かれたようなものではないというのが、僕としては大問題なんです。『永遠の0』の問題と同じで、戦争中の人たちはそんな風に現代人のようにものを感じたり考えたりしないだろう、ということ。戦争中に作られた戦争映画を見ても、あるいは当時書かれた文学を読んでも、そうではない。みんな、もっとえげつなくて滅茶苦茶なわけです。そのえぐみのある戦前、戦中の日本の価値観みたいなものが、今に引き寄せられ過ぎて描かれているのは、僕は納得いかない部分です。


◆北野武VS. ゴジラ


杉田 日本的なニヒリズムの深さということでは、北野武の『首』もちょうど公開されました。『首』は、権力も忠義も、男性同士の愛も、民衆も、あるいは美や宗教さえもすべて無意味であり、首というフェティッシュすらも徹底的に愚弄して無意味化していく。日本的な無常観や虚無感へすらも逃げ込めない、という徹底的なニヒリズム。『ソナチネ』(1993)の頃にはまだありえた空虚で殺伐とした美しさや、『アウトレイジ』(2010)の逃れられない悪循環の恐怖のようなものもなく、もっとずっと即物的な感じです。北野扮する秀吉が最後に首をキックするシーンがありますが、それも自己言及的であり、もうこれまでの北野映画すべてもどうでもいい、みたいな感じがありました。
 深沢七郎『風流無譚』(1960)の「皇太子殿下と美智子妃殿下」の首や天皇・皇后の首なし死体、三島が割腹自殺した時に新聞に写真が載った首、あるいは『もののけ姫』(1997)のダイダラボッチは首なしの身体――『千と千尋の神隠し』(2001)のカオナシもある意味で首なしなのかもしれないですが――などのある種の大逆精神の系譜を思い出したのですが、北野武の『首』は、首もないままにゾンビのようにウロウロ蠢いているのが今も昔も日本人であり、ここから逃れる道は一切ない、と宣言しているかのようでした。山崎貴もそうしたニヒリズムをある面では共有しているように思えますが、『ゴジラ−1.0』はそれでもまだ美しい夢を見せようとした。
 そういえば藤田さんの『シン・ゴジラ論』では、ゴジラの系譜を論じきったあとで、最後のBパートに北野武と松本人志についての論が出てきますね。ゴジラは日本人たちに両義的な倫理的葛藤を与えるんだという話のあとに、ビートたけし名義の『みんな~やってるか!』(1995)という怪獣映画を論じる。今回たまたま、『ゴジラ−1.0』と北野映画がほぼ同時期に公開されたのも、何かの反復なのでしょうか……。
藤田 北野武には、『三丁目の夕日』批判である、「コールタールの力道山」という作中作(『監督・ばんざい!』、2007)があります。それは、自分の経験した昭和三〇年代の貧困・悲惨さ・暴力性を見せるというもので、先に僕が言ったような「美化」に対する批評の作品ですよね。
 「特攻」のモチーフも脱臼させたことがあって、『龍三と七人の子分たち』(2015)には元特攻隊員が特攻して、米軍の空母の上に着陸してしまうというギャグがあります。先ほど言ったように、『宇宙戦艦ヤマト』で最後に特攻していくように、日本のエンターテインメントでは、最後に特攻のロマンに向かってしまう癖がありますよね。北野武作品は初期作でずっとそれを描いてきたわけだけど、このシーンはそれへの批評というか突き放しなんですよね。笑いを通じて、そのような問題系の中に閉じ込められていること自体から解放しようとしている、というかな。その点では『ゴジラ-1.0』と似ているのかもしれません。
 赤坂憲雄は、『ゴジラとナウシカ――海の彼方より訪れしものたち』(イースト・プレス、2014)の中で、何かを止める時に犠牲や供犠を必要としてしまうこと自体をどうにかできないか、という問題提起をしています。『ゴジラ−1.0』の最後で特攻と自己犠牲をするように見せかけて、しないという選択には、赤坂憲雄への応答を感じますし、人命を無駄に使っていた戦前の日本的体制に対する批判精神があるように見えます。
 その結果本作で描かれているのが、「健全なナショナリズム」なのかどうかは、僕は分かりません。民間人が勝手に戦争に参加する、加担するという方向に近いように感じて、ナショナリズムとは別のもののように感じます。杉田 民間人たちの行動と理念が日本人のナショナリズムを表象し代行する、という風に見えたんですけどね。


◆鬼太郎VS.ゴジラ


杉田 そういえば、今日ここへ来る直前に『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)を観てきたんです。戦前も戦後も、東京も田舎も、資本主義と結託した天皇制的な権威が支配している世界です。その点では『ゴジラ−1.0』よりももっと救いがない。民間の利他性とか、戦後の解放とかも存在しない。人間だろうが妖怪だろうが幽霊だろうが、権力と資本制企業は何もかも搾取して、血を吸い尽くす。玉砕を命令するが、上の人間は逃げ続ける。そうした構造が戦前戦後を貫いて浸透している。
 『ゴジラ−1.0』が特攻から生き延びた話だとすると、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は玉砕からたまたま生き残った話。しかしその背後には、名前すら記憶されず忘れられていくだけの死者たちが無数にいます。90%事実だという『総員玉砕せよ!』(1973)などで凄惨に描かれていますが、水木さんが玉砕を命じられて生き延びたことは有名です。しかも命懸けで守るよう命じられたものは、上司のつまらないプライドや守る価値の無い場所だった。本当に救いがない。
 そうした日本的な権威主義と資本主義を批判するためには、名前すら忘れられていく死者たちの記憶――それは日本人に限らず、幽霊族のような他者も含まれていて、確実にアジアの他者たちが重ねられています――を継承し、哀悼し、弔いながら生きていくしかない。『ゲゲゲの謎』では、敗戦後80年近く経っても玉砕の経験は何も清算されておらず、トラウマも消えておらず、弔いを永続的に続行しなければならない。その間に原作者の水木しげるは亡くなりますが、水木が残したキャラクターが死者を弔い、またそれを観る読者や観客たちが弔い続けていく……。
 それに比べると『ゴジラ−1.0』はさすがにちょっとアイデンティティの回復が早い。早すぎる。『鬼太郎』は80年間近く弔いを続けてきたけれど、結局日本は不幸な人のいない、貧乏人を搾取しない国にはなれなかった、約束を守れなかった、ごめんなさい、という映画です。ただしそこには、北野武の『首』のような泥沼のニヒリズムへも落ち込まずに、死者を弔うことと権威や資本と戦うことを通してかろうじて新しい命を未来に継承していく、という真摯さを感じます。逆に言えば、絶望し切ってニヒリズムに陥ることも赦さない。
藤田 なるほど。確かに『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、『ゴジラ-1.0』と対比的ですね。2023年は宮﨑駿『君たちはどう生きるか』、八鍬新之介『映画 窓際のトットちゃん』など、第二次世界大戦を扱ったエンターテインメントの力作が多く公開された年でしたね。『鬼太郎』は、無名の者たち――戦争の死者だけではなく、家父長制的な権力に搾取された民衆や、特に女性たちの恨み――を弔い続けなければいけないし、むしろそれこそが「革命」「解放」に繋がるし、主人公を倫理的に動かす動機になっていますね。戦争と結びついた、日本的な権威主義や家父長制と戦うという、戦後民主主義派的な倫理を齎す超越性になるわけですね。それを、幽霊≒妖怪≒キャラクターと繋げるという倫理的野心を感じます。
 同時に、山崎貴と同じように、未来を夢見れなくなった現在への批評もしていましたね。横溝正史の金田一シリーズを踏襲しながら、近代知には頼れない。科学と論理と結びついていた成長と進歩の夢にはもうノれない時代になってしまった。けれど、過去にしがみつき昔に戻ろうとする勢力とも本作の主人公は対決するわけですよね。未来は、夢見られたものとは違うけど、未来を夢見た人たちがいた、子供たちのために自分を犠牲にした先人たちがいた、そのことを通じて、未来への希望と期待を取り戻させようとする物語で、そこは日本における進歩・復古の葛藤に対する直截的なメッセージで、良かったですね。
 今回の『ゴジラ−1.0』を、杉田さんは「健全なナショナリズム」とおっしゃいましたが、昭和的などろどろしたものを失い、令和的なプラスティックな感じ、CG的なアイデンティティにさくっと変わろうよ、というメッセージにも見えますよね。一方、『鬼太郎』は、むしろそれこそを我々が持ち続けよう、覚え続けようという作品ですね。
杉田 『鬼太郎』の冒頭近くの汽車のシーンなんかも、病気の女の子が咳き込んでいるのに周囲は容赦なく煙草を吸っているような猥雑さも含めて、すごく「昭和的」でした。
藤田 そうですね。そういった過去の、現在と合わない部分を排除してしまうのが山崎貴なんでしょうね。現代の観客が共感しやすいものを作らなければいけないというエンターテインメントの宿命の部分もあるかもしれませんが。
 「被害と加害のねじれ」「割り切れなさ」の話で言えば、アメリカでこの作品がヒットしていることには注目されます。アメリカによって廃墟と化した戦後の東京を舞台に、それへの怨念の象徴としてのゴジラが出てくる話ですからね。本作のゴジラをアメリカと解釈する読み筋もありますが、そうするとますますどう観られているのか、よく分からなくなります。
 第二次世界大戦において、日本が加害者か被害者かという問題は、アジアからの視点ではもちろん加害者ですが、日本の庶民の視点としては、戦争は降りかかったことで、自分たちは被害者だと感じやすかった。戦後日本のエンタメは、佐藤忠男が言っているように、自分たちの被害を可哀想なセンチメンタルに描くことばかりをしてきて、攻め込んだ侵略については描かないという歪みがあった。戦争も自然災害のように受け止めてきた文化でもあります。
 ゴジラは、自然災害と戦争の描写を重ねることで、そのメンタリティに介入しようとしている。『永遠の0』にも、加害と被害の捩じれがある。零戦は重慶等に飛んで爆撃しているので加害者なわけですが、家族のためにやったとかの理由をつけ、可哀想な被害者として描いてしまう。本作はこの捩じれをすっきりさせているように見えるけど、今度はそれをアメリカ人が評価してしまうという捩じれが起こっている。なかなか奇妙ですよね。

 

◆戦争の呪縛としてのゴジラ


杉田 たとえば『犠牲者意識ナショナリズム――国境を超える「記憶」の戦争』(林志弦、澤田克己訳、東洋経済新報社、2022)という本がありますが、今のパレスチナに対するシオニストの態度もそうだと思いますが、自分たちを歴史的な犠牲者としてアイデンティファイして、自分たちの加害と被害の両義性を消し去る、という戦略は世界中で行われている。そしてそこには、日本人のリベラル左派たちの戦争加害者としての反省を、韓国の右派が取り込んで自分たちの主義主張を強化するというような、トランスナショナルな相補構造があります。アメリカの観客は、ある面では、日本の『ゴジラ−1.0』に、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争等の帰還兵のPTSDなどを投影しているのかもしれない。直観的な印象ですが。
藤田 単純にトラウマ帰還兵ものとして、『ランボー』(1982)のように観ているという説がありますよね。
杉田 クリント・イーストウッドの近年の作品もそうですよね。PTSDを抱えた名もない英雄こそがアメリカのナショナリズムを支えている真のヒーローだという。
 そう言えば、ギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』を観た時に、結構びっくりしたんです。日本の3.11の地震、津波、原発の映像を明らかに取り込んでいますが、途中のハワイ辺りの描写から捩じれていき、最後はアメリカの都市が理不尽に破壊されるという9.11映画になる。ゴジラの敵であるムートーがテロリズムの象徴なんだと思います。つまり、破局的な災害やテロリズムを媒介にして、日本とアメリカが融合する。そしてラストでは、ゴジラがアメリカの民を救済する「ヒーロー」になって、野球場の大画面に映されていく――それはある種、日米間の植民地主義の完成のようにも見えた。それもトランスナショナルな捻れを感じる。
 2024年にようやく日本公開になったクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』と『ゴジラ−1.0』が日本でも同時公開されていたら、『ゴジラ−1.0』の受け入れの文脈も変わっていたかもしれない。 震災やテロリズムや災害の映像的表象がなし崩し的に〈犠牲者意識ナショナリズム〉を強めていくという国際的な構造が、2010年代のゴジラシリーズを通じて醸成されてきた側面もあるんじゃないか。
藤田 確かにそれは面白いですね。構造的に似ている被害を、いろいろな地域の人が共感し感情移入する。ポジティヴに言うならば地域や文化を超えた連帯の意識を形成しようとしているとも読めるし、逆に当時の政治的対立の文脈を消しているとも言えますが、しかしそういうトランスナショナルな意識形成を、現在のフィクションは織り込んでいる、と。東京を空襲したのはアメリカ、原爆を日本に落としたのもアメリカですから、ゴジラ映画はアメリカと戦っている映画と観ることも出来る。しかしそうではなく、かつての政治的立場や対立を抜きにして、構造的に類似のもの、帰還兵のトラウマという話としてみんなが観れるようにすることにより、地域性や個別性の文脈を一段階抽象化しているんでしょうね。それには良い部分もあると思います。世界中の戦争や災害を皆が自分のこととして考え、連帯の意識を持つことによる新しいアイデンティティ形成の可能性は世界を良くするかもしれない。一方で、構造的に共感されにくい、歴史の固有性、文化の固有性はどうなるのか、という問題も残りますね。
杉田 加藤典洋の〈戦後的思考〉や〈敗戦後論〉も一種のPTSDモデルで成り立っていました。敗戦によって人格が分裂して多重人格(解離)化するから、それを統合するためには、死者の弔いが必要なんだと。そうした議論の中にすでに危うさがあるようにも見えます。
藤田 大江健三郎も、ノーベル文学賞を受賞したときの講演で、戦後の日本は「あいまい(ambiguous)」だと表現していますが、僕なりに言い換えると「引き裂かれた」状態だということです。敗戦まで続いてきたローカルな価値観と、戦後入ってきたアメリカ的価値観との二重の価値観を持っていて、自然に神を見出す神道的な感覚を維持しながら、科学技術立国とに分裂して生きてきてるわけですからね。宮﨑駿なんかは、この葛藤それ自体を作品にしてきた作家なわけですが、『ゴジラ−1.0』には分裂が全然ないんですよね。もう戦争の呪縛から解放されるべきだということなのかな。


◆過去を戦略的に作り直すことによってアイデンティティを作り直すゴジラ


杉田 『ゴジラvsコング』は、ここまでキャラクター化してしまうとどうなのかなと感じたけど、それも昭和ゴジラの歴史を反復している面もあるんでしょうか。それに対して、マイケル・ドハティの『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は結構面白かったです。怪獣映画とクトゥルフ神話と現代的エコロジー思想を組み合わせたような世界観。怪獣たちは人間が出てくる以前の太古の神々であり、しかも自然災害そのものであるとされる。光の使い方も神々しく美しく演出されます。
 主人公の妻がエコテロリストというか、千年王国主義的な救済史観の方へ暴走してしまう。しかし、そこまで過剰なラディカリズムに行かなくても、人間には連綿と継承されてきた神話や伝承の力があるので、それらの叡智をうまく使えば、怪獣の災害的破壊や気候危機をなんとか押さえ込み、人間と自然が調和して共存する道を歩めるだろう、と。その場合、西洋的な啓蒙主義では駄目で、東洋的な叡智を使おうというのはちょっとオリエンタリズム的ですが。あと、キングギドラは宇宙から来た外来種だから、地球の秩序に根差した調和の中に入れず、殺すしかないとされますが、それもちょっと微妙ではある。
 とはいえ、世界中の既存の伝承や神話をプラグマティックに、あるいはブリコラージュ的に使いまわしながら、西洋中心主義も反省しつつ、なんとか災害や自然と共存する道を実践的に見つけていこうというスタンスは、あんがい悪くないのではないでしょうか。
藤田 アフロ・フューチャリズムにも似ていますね。黒人たちが過去の神話から勝手に借用して未来への想像力を作り上げる、自分たちの神話も勝手に創作してアイデンティティを作り直してしまおうというものと近いですね。杉田 ロシア宇宙主義の系譜とも関連する新ユーラシア主義とか、ニック・ランドやマーク・フィッシャーなどの加速主義的なものもそう。神話的なものや陰謀論的なものも使いながら、現在の閉塞を突破していこうという話ですよね。黒人文化やロシア的なもの、あるいはフェミニティと魔女的なものなど、世界中であらためて注目されている。非常に危うい部分もあるんですが、そういうものが必要とされる切迫感も限りなくリアルではあります。
藤田 ロシアの言い分に似てしまいますが、多元主義的な未来観がどうもあるようですね。それぞれの文化や地域の神話や伝統を尊重しながら、それと科学や未来をつなげるやり方ですね。ユク・ホイという中国のハイデガー研究者は、技術多様性という概念を提唱しています。それぞれの地域の歴史や伝統の先に技術や科学がある、と。科学や技術は普遍性とつながっていると思われがちだが、ある程度地域の固有性があるという議論です。それぞれの地域の文化や神話を引き継ぎ、アイデンティティと科学や技術を結び付けて、いわゆる西洋中心主義で男性中心主義的な未来だけではない、多元主義的な未来を目指そうという構想は若干出てきていますね。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』にはその方向を感じます。
杉田 フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールも、気候危機の現実に対峙するためにも宗教的な終末論の認識があらためて重要だと言っていました。それらを過激化や陰謀論化とは異なる形で、プラグマティックに活用していくしかない。アフロフューチャリズムや新ユーラシア主義も、それじゃあ東アジアの文脈ではたとえば大東亜共栄圏や「近代の超克」を再生すればいいじゃん、という話に取り込まれる危うさもありますが……。とはいえ、健全なナショナリズムを夢見るよりも、そちらの方に両義的で猥雑な可能性があるのかもしれない。それはゴジラ映画の両義性や猥雑さにフィットしているとも言える。
藤田 宗教的なものや神話的なもの、人の心に根付いているパワー、それぞれの地域や文化の固有性を活かしながら、未来に必要な方向の道を作るのは、現代文化の一つの戦略のあり方かもしれませんね。一方で、それは、プーチンのブレインのドゥーギンに影響を与えた新ユーラシア主義とかロシア宇宙主義みたいなものとも似ますし、それこそ「近代の超克」やナチス的な思想にもつながりかねないので、なかなか注意も必要な気もします。
 そう考えると、山崎貴は昭和三〇年代主義の典型と言われ、昭和三〇年を美化していると批判されてきましたが、その戦略性を再評価することも可能かもしれません。スピヴァクが言った戦略的本質主義というものがありますよね。つまり、本当は本質は無いのだけれど有るということにするというもので、その分かりやすさを利用し運動などを盛り上げて実効性を持とうとするものですね。最近だとSNSのフェミニズムがこの戦略を用いていました。それと同じように、未来のために、今のアイデンティティの作り直しをしようとする、そのために戦略的に過去を美化している部分もあるのかもしれませんね。
 山崎貴は、理想的に美化された過去や昭和を描くレトロトピア的、ノスタルジー的部分もあるけれど、もう少し入り組んだ「戦略的過去美化主義」のようなところがありますよね。タイムマシーンものが基本的に好きですよね。最初期の二作品『ジュブナイル Juvenile』(2000)、『リターナー Returner』(2002)がそうで、「STAND BY ME ドラえもん」シリーズ(2014、2020)もそうです。「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズ(2005、2007、2012)にはタイムマシーンこそ登場しませんが、過去をCGで再現し、過去に夢見られた未来を提示するという時間の混ざりようは、前二作と共通している。
 今回の『ゴジラ−1.0』は、『ゴジラvsキングギドラ』(監督・脚本:大森一樹、1991)が下敷きなように思いますが、これは日本軍と共にゴジラが戦うという構図で、時間移動も登場します(笑)。戦争中に戦友だったゴジラが、戦後、豊かになった日本社会に戻ってきて、大企業の金持ちになっているかつての戦友と目を見つめ合い……というストーリーです。
 山崎貴は過去を美化して描きますが、基本的にSFの人、しかも95年不況以降のSFの人だと僕は思うんです。つまり、かつて未来には希望があった。明るく素敵な未来があった。それは科学によって到達できるという希望があった。しかし、今は未来に希望を持つこと自体ができにくい。そうなると、過去が美化されて感じられやすいから、レトロトピアが憧憬の対象になりやすくなるわけですが、山崎貴にはそこにもうひとひねりを加える介入をしている。
 「スチームパンク」という、科学が発展していき未来に希望があるという蒸気機関の時代を再現するというジャンルがあります。山崎貴がやっているのはそういうことではないか。つまり過去を美化して描きつつも、未来への希望をどう取り戻すかということを狙っている作家。
 「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズでは、過去に憧れています。「過去に戻りたい、未来は嫌だ」という思い。今の我々も、「AIって嫌だな」「情報技術についていくの嫌だな」「昔の日本はよかった」等と思いがちです。そんな心理に寄り添い心情に訴えかけて、しかしその過去には未来への憧れがあったよね、ということを伝え、現在の我々を未来への積極的な姿勢へ向かわせようという、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズはそういう戦略だったと解釈しうるのではないでしょうか。
 「STAND BY ME ドラえもん」シリーズもそうです。『STAND BY ME ドラえもん2』では、おばあちゃんがいた古き良き時代に戻るけれど、おばあちゃんは未来でのび太が結婚式を挙げるのを楽しみにしていた。そのように過去と未来を行ったり来たりする、ある種のタイムマシーン的装置として映画を作っているのでしょう。
 彼が東京五輪の式典のプランニングチームに選ばれたのも象徴的で、東京五輪、大阪万博も多分、未来に希望があった過去そのものを取り戻そうとする試みなんだと思うんですよ。きっと、計画している人たちに、そういう無意識がある。でも、山崎貴だったら、それをひねったかもしれない。単純に過去が素晴らしかったという考えは、成長の限界や経済的衰退に目をつぶる麻薬のように作用すると、浅羽通明も『昭和三〇年代主義』(2008)の中で批判していますが、でも、そのような麻薬に惹かれてしまう心理を一旦受け止めて、未来へとくるっと向きを変える、そのことでレトロトピアに耽溺したくなる現代の我々のアイデンティティを作り直す、そういう作家なではないか。『海賊とよばれた男』(2016)も『永遠の0』もそうですよね。
杉田 フィッシャーが「反資本主義」ではなく「ポスト資本主義」が大事なんだと言う時、左派たちは未来のコミュニズムを信じられなくなりメランコリーに陥っているけど、むしろメランコリーを徹底して、たとえば1960年代のカウンター・カルチャーのポテンシャルに遡行して、あり得たかもしれない未来を拓けるかもしれないと、デリダの憑在論などを参照して論じています。もう希望はない、資本主義の外部はない、という左派メランコリーの先に、時間の捩じれを作り出して、そこから新しい未来を再構築する。そういう感覚は山崎貴の中にもありえたし、ありえている、と思うんですよ。しかし今回の『ゴジラ−1.0』ではそうした可能性がやっぱり切り詰められていないか。美しい夢に撤退し非難する、という形で。
 例えば虚淵玄のアニメ「GODZILLA」シリーズは、完全に加速主義や暗黒啓蒙の思考実験なんですよね。エクシフという宇宙人は「宇宙と一体となれ」というスピリチュアリズムを主張しますが、その象徴は虚無としてのキングギドラであり、暗黒啓蒙的な立場と言える。それに対し、ビルサイドという宇宙人は「メカゴジラを信じろ」と主張する。これはゴジラ以上のテクノロジーによってゴジラを超えるという加速主義的なものです。あるいは、原住民のフツアという種族にとっては、ただ生き延びることが最重要で、モスラを神とする。フツアたちはゴジラは災害と同じなので、戦っても仕方ないと考え、原始共産制的なエコロジーに還っていく。
 これらの立場が三つ巴でせめぎ合っています。それらに対して主人公のハルオは、人間として惨めになってはいけない、屈辱に甘んじてはいけない、あくまでも戦え、と主張する。『進撃の巨人』(2009-2021)とも少し似ていて、奴隷状態に屈してはならない、とにかく戦うしかないと。そして最後には特攻して自爆的に死ぬんですよ。しかしそれで本当にいいのか。加速主義的な思考実験にうかつに行くのも危ない、ということでしょうか。
藤田 木澤佐登志さんがそういう問題系を扱っていますね。『失われた未来を求めて』(大和書房、2022)や『闇の精神史』(ハヤカワ新書、2023)を読むと、汎ロシアの場合もアフロ・フューチャリズムの場合も、SF、サイバー・スペースの場合も、かつてあった未来への構想の残骸、実現しなかった未来への構想の残骸を拾い直すことで、もう一度未来に対するオルタナティヴな想像力を復活させたいという気持ちがあるようです。それが現代の感覚であり、戦略なんでしょうね。
 アニメの虚淵ゴジラに関しては、僕は、あれこそが北野武の『首』に似ているような気がしています。要するに、科学と神と自然、どれにも頼れないという話ですよね。それで最後に自爆して終わり。救いが一切ない、ただのニヒリズムを直球で出している。これはこれで、一つの極限であるが、それはそれで芸がないのではないか、とも思ったりもしました。比較すれば、『-1.0』はそれの反対かもしれませんね。

 

◆ゴジラVS.すみっコぐらし、ちいかわ


杉田 資本主義ニヒリズムみたいなものが露呈している感じがします。旧統一教会が象徴するように、宗教と商売が一致し、ナショナリズムと売国が一致してしまう。驚くほどの虚無ですね。

 藤田 死の方へ傾き過ぎでしょうかね。

 杉田 加藤典洋の『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店、2010)によると、天皇のポジションを戦後にゴジラ(的なもの)という新しい神が乗っ取った。ゴジラは戦死者の加害性と犠牲者性という両義性を抱え込んだ存在で、それゆえ不気味な他者であり、戦後日本に強迫反復的に回帰してくる。しかし強迫反復を繰り返す中で、次第に無害化され馴致され、だんだんと小さなゴジラ、かわいいゴジラになり、そしてポケモンやハローキティのようなキャラクターになっていく。国家や天皇がなくても、八百万の神々のようなキャラクターがあれば生きていける。そうした戦後の成熟過程を象徴してもいるんだと。
 それで言えば、僕には『ゴジラ−1.0』と同時期に公開された『映画すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』(2023)がとても面白かった。「たれぱんだ」や「リラックマ」で有名なサンエックスのキャラクター商品が主人公の映画で、「ポスト資本主義」的な映画なんですよ。使えなくなって要らなくなってゴミになっていく者たち、能力主義の中で疎外されバーンアウトしていく労働者たちのあり方を描いているんですね。そしてそれだけではなく、むしろ今や〈資本主義こそがゴミになっているんだ〉という状況を描く。
 すみっコたちはくま工場長に命じられ、供給過剰なキャラクター商品を無理やり生産して消費者需要を喚起してそれを売ろうとする。しかしもうそれ以上は売れない。キャラクターたちがキャラクター商品を作るという自己言及的な労働自体がすでにブルシット(役立たず)になっているんです。そして資本主義の描き方も、産業資本主義段階の古典的なプロレタリアの工場労働あるいは認知資本主義段階のサービス労働というだけではなく、くま工場長は、各々ある種のマイノリティ性を抱えて屈折したすみっコたちに対して、「君はここがすごいね」「ここが長所だね」と滅茶苦茶褒めて働かせようとします。むりやりにでも褒めてしまう。労働能力のみならず各人の存在自体がクリエイティブに見なされるというハイパーメリトクラシー的な資本主義なんです。
 しかしそうやって色々と無理を重ねても、資本主義そのものがもう持たない、終わっている。物語の舞台になる「工場」(これにも顔があって、いわば資本主義自体のキャラクター化なのですが)は、かつてキャラクター製品を生産して繁盛していた工場だったけれど、デフレ状態になって潰れてしまった。そうした過去の痛みや悲しみを抱えたまま、何とか復活してやり直そうとしている。「工場」はほとんどゾンビのように無理やり延命している。その点でも『ゴジラ−1.0』や『ゲゲゲの謎』と似ているかもしれない(特に『ゲゲゲ』の水木は使い捨てにされたからこそ、戦後は資本主義の先兵になって勝ち組になろうとしていました)。そういう状況の中で、いかにポスト資本主義的な価値観や世界観を打ち出せばいいのか、ということを子ども向けの商品でありキャラクターであるすみっコたちによって試みているんです。
 ちなみにトカゲというキャラクターは、本当はトカゲではなくて恐竜なんだけど、恐竜だとバレると世間から迫害されるから母親の元から離れてトカゲの振りをしている、という悲しいキャラクターです。成長すると(母親と同じく)恐竜になるんですよ。つまり、ゴジラサウルスのようになる。加藤典洋が言った、ゴジラの零落形態としてのキャラクターそのものですね。今回の『すみっコぐらし』の映画は、キャラクターそのものが労働力商品となってキャラクター資本主義を自己言及的に回転させ延命させていく、全てが資本の中に取り込まれていく、というほとんどニヒリズム的な事態を引き受けながら、資本主義そのものの終わり=死を弔って哀悼しようとします。
 『ゲゲゲの謎』でも歴史の中で忘れられ虫けらのように死んでいく無名の死者たちを哀悼することと天皇制的資本主義の暴力に向き合うことが結びついていましたが、『すみっコぐらし』の映画にも哀悼的な闘争という側面があります。現代の資本主義ニヒリズムを受け止めつつ、ポスト資本主義的なユートピアのイメージを与えてくれる作品で、僕は率直にすごい作品だなと思いました。

藤田 「すみっコぐらし」や「ちいかわ」が流行るのは、自分には能力がなくいろいろなことができないと感じてしまう人たちが世間には多く、可愛くて無力な存在がサバイバルしていく話に共感するからだと思います。若い人たちの精神疾患や精神障害の率も上がっているし、学校教育の中でも自信を失いやすい。この社会が要求する過酷な能力主義から降りる生き方を求める人たちというのは、日本だけではなく、中国や韓国にもいるようです。中国では「寝そべり族」と言われていますね。そういう人たちが「すみっコぐらし」や「ちいかわ」に託して、別種の生なり革命の可能性を夢見ているのかもしれませんね。
 『ゴジラ−1.0』に話を戻すと、この主人公もある意味、無能力な人間として造型されていますよね。発砲できず、戦争で役に立たなかった。戦後も稼ぎもなく失業している弱い男で、去勢されていると言えるかもしれない。そして、船の機雷を除去する命がけの仕事をすることになる下層階級の労働者です。助け合いも描かれていて、隣のおばさんたちや同業者同士の助け合いはあります。とはいえ、この作品では無能のままぬるぬる生きていていい、という物語ではない。むしろ漢気を出して、人のために戦うことが良いことで、爆弾抱えて飛行機でゴジラを倒して「漢」になるという内容ですね。その戦いには女性は加わっていません。最近、エンターテインメントでは弱い男性を描く作品が多かったのですが、この作品のメッセージは、むしろ家父長制でマッチョなもののようにも見えます。この辺りをどう思われますか。

杉田 鬱病やPTSDを抱えた人々の孤独を描きながらも、山崎貴はそれらの人々に「大きな国家」を背負わせようとしすぎなのかもしれないですね。『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズですらちょっとそういうところがあった。そういえば『DESTINY 鎌倉ものがたり』(2017)なんかも、3・11の震災を主題にした作品と言っていいと思いますが、人間と幽霊が共存する小さなコミュニティの話なんですよね。『千と千尋の神隠し』の影響が色濃くある作品なのですが。しかしそこから一気に、日本の復興や、国家としてのアイデンティティのような方向へ飛びすぎなのかもしれない。弱さや小ささの問題が大文字の政治に解消されちゃう。
 ニヒリズムが蔓延する中で、リバタリアンのような市場的個人主義にも乗れないし、国家にもアイデンティティを託せないし、地域主義的な共同体主義にもいけない――先ほどの『すみっコぐらし』のような作品は、そうしたニヒリズム的状況の中である種の根無し草、エグザイルに成らざるを得なくなった存在たちが、それでも弱さや捩じれを抱えたまま、他者の弱さや小ささを尊重しながら、相互扶助的な小集団、アソシエーション的な場所を形成していく。アジールやシェルターのような場所を作って自分たちを外界の圧力から守りながら、しかし、資本主義や気候変動などの「大文字の政治問題」も同時に考えていく。「小文字のアジール」と「大文字の政治問題」がツギハギになっていて、それらを行ったり来たりする感じがする。そうしたツギハギの往復運動が重要なのではないか。
 たとえばいわゆる「日常系」のアニメーションを観て癒されていたら、青葉真司のような存在が京都アニメーションにガソリンを撒いて放火して多数の死者が出たというような象徴的な事件もありますし、小さな互助集団や自助団体を作って身を守る「だけ」ではおそらく足りないのでしょう。小文字のアジールや趣味縁を持続可能な形で護るためにも、社会問題や政治問題を同時に考えないといけない。セルフケアや親密な死者の哀悼のような話と、国家や資本主義に対する異議申し立てのような話とを往還して、ジグザグに、ツギハギにやっていく戦略性が必要なのではないでしょうか。[3] 

 藤田 僕は先ほど「令和的」と言いましたが、清潔さや画面の印象は確かにそうなんですが、令和的ではなく昭和的な部分もある作品ですよね。今の若い世代はメンタルが弱かったりして、仕事を懸命にやって病むよりはもっと楽に生きたいという感覚が強いと思うし、それは否定すべきとは思わない。しかし、『シン・ゴジラ』も宮崎映画もそうですが、ブラック労働ロマン主義みたいなものがありますよね。集団の一員になって貧乏くじも引きながら、死力を尽くし、限界を超えてもの凄く働いて貢献する、それによって集団が一体化し、「すべきことをしている」という実感を得ることに対するロマン主義のようなもので、それは小松左京の『日本沈没』でも描かれていたような、戦後日本において、戦争の継続として経済復興を目指していた労働の環境と関係していたと思います。
 実際、ゴジラ映画の場合は作っている現場もそうみたいですね。今回の『ゴジラ−1.0』も、後半は現場がそういうノリになってきて、その現場の空気を台詞などで作中に取り込んだりしているそうで、その「作り方」の熱気が憑依するのがゴジラ作品のある種の神がかり的な味であることは正直否めない。それは、アメリカとかのものの作り方とは違う。その魅力を充分に味わいつつ、「でもブラック労働肯定だよな……」というジレンマに引き裂かれるところがあります。「すみっコぐらし」や「ちいかわ」的な存在は、この世界に居場所があるのでしょうか。

杉田 立場の弱い人間の命を軽く扱う滅私奉公や「ブラック」労働ではないような利他性があってほしいんですけれどね。それこそデヴィッド・グレーバーがいう「基盤的コミュニズム」のようなものが本当は至る所にあるとすれば……。その辺りは山崎貴の中にも葛藤がありそうです。

藤田 とはいえ、最後の戦いに参加しているのは、多くは元軍人で、しかも男性だけですよ。割と反動的なマッチョさが回帰している気もします。本作を褒めている女性を、あまり見かけない気も……。

杉田 マッチョでホモソーシャルですよね。『シン・ゴジラ』は「女性総活躍」的な部分もあって女性の評価も高かったのに比べて……。

藤田 昔から、女性が強くて、男はむしろ『エヴァ』のシンジくんみたいに弱いのが庵野作品の特徴でしたね。フェミニストが本作を批判しているのは読みました。物語上必要な、殺されるためだけに出てくる典型的な女性、殺されて主人公が奮起するために必要な存在でしかないと。

杉田 最後に浜辺美波が生きていた、というのも僕は割と驚きました。予想はしてたけど本当にそうしちゃうのか、と。あの映画全体が男に都合のいい「夢」に見えた。他方で『鬼太郎』は徹底的に「他者を助けられない」話でした。

◆リアルとゴジラ


――世界が戦争状態に向かっています。『ゴジラ−1.0』と同時並行で起こったガザの問題、ずっと続いているウクライナの戦争。現実のリアルな戦争と、虚構と言えどもゴジラの描いた戦争が、どう現実とつながるのか? どう思われますか。

藤田 ウクライナで戦争が始まってからも、今回、ガザで空爆が始まってからも、ネットで画像や映像をかなり見るようにしているんです。それをめぐる議論も見ています。子どもや女性が身体損壊していたり死んでいたり凄まじくて生々しくてえげつない。悲惨さのレベルは、本作の映像とまったく違いますね。エンターテインメントではやはりそういうものは描きにくいという限界がありますね。それは『ゴジラ−1.0』でも『シン・ゴジラ』でも描かれていなかった。最近の日本の作品で意識的に描いたのは塚本晋也の『野火 Fires on the Plain』でしょうか。でも世界の映画では、アレクセイ・ゲルマンJrというロシアの映画監督の撮った『エア』(2023)は、第二次世界大戦の独ソ戦で活躍した女性の戦闘機乗りを描いた作品ですが、凄まじい描写でした。悪夢のような悲惨な状況を描いている。
 そういった生生しい戦争の描写が世界中で作られている今、『ゴジラ−1.0』の戦争シーンはぬるいという感じがしました。確かに銀座のシーンは素晴らしかったです。逃げ方等の動きもいいし、CGも素晴らしいし、ポスト・アポカリプス的なキノコ雲も素晴らしかった。戦争に「巻き込まれたときの、人間の感じ」みたいなのが見事に表現されていました。しかし、リアルな戦争としてSNSで流通しているものはそれとは随分違いますよね。引きからの空爆や銃撃の映像と、瓦礫や遺体などの痕跡が多くて、ああいう躍動感のある感じではない。
 『ゴジラ−1.0』で一番の問題だと思うのは、ゴジラが駆除されるべき害獣として描かれていることからも分かる通り、敵と味方が分かりやすいし、戦い方も身体的にも直感的、身体的ですよね。
 でも今の現実の戦争はそうではない。見せられる映像は、フェイクだったりAIで作ったものだったり、別の時期のものだったりするし、あるいは本当の空爆を受けた人たちをクライシス・アクターだと言ったりする。何が本当か分からない情報戦がものすごい。そこにイデオロギー工作や、ある立場から見た見方とか、様々な問題が入り交じり、ダイレクトではない。情報戦が蔓延して、SNS等で見る現実とされるものすら、どうなっているのかよく分からない。
 「敵と味方」みたいな、人間の脳が物語的に好んでしまう構図をハッキングして認知戦が行われ、我々を煽って変な方向にアジテーションし内戦や動乱を巻き起こそうとしている、という新冷戦の状況における戦争と、『ゴジラ−1.0』を比較すると、「物理的で身体的で分かりやすかった戦争」という感じがするし、戦争をそういうものと思いたいノスタルジイも感じます。複雑で認知的に認識困難なものを身体的かつ分かりやすい物語に落とし込むのが映画の魅力の源泉だとは思いますが、そこは、今起きていて我々が巻き込まれている戦争の状況を考えると、この作品の弱点だと思わざるを得ないし、むしろこの複雑さに対する否認と逃避として機能していると言わざるを得ない。そろそろ第二次世界大戦的な戦争観からアップデイトしなくてはならない。
 それを考えると、『機動警察パトレイバー2 the Movie』で押井守がやったことは偉くて、あの先に行って戦争観をアップデイトすることはできないものか、と思いました。

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杉田 SNSでは、『ゴジラ−1.0』公開後に「銀座の破壊のシーンがよかった」云々と多くの人が興奮しているのと同じタイミングで、パレスチナの凄惨な映像が流れてきてもいました。パレスチナの映像を見て悲しんだり怒ったりしているのに、映画の破壊シーンで「テンション上がった」「もっと壊せ」とか言っている。僕にもそうした感覚が正直ありました。もっと暴れて欲しい、と。今に始まったことではありませんが、この内なるギャップには正直戸惑いがありました。今もあります。

藤田 ただ、現代と通じていると感じる部分もあります。『ゴジラ−1.0』は、特に銀座のシーンで、キノコ雲というアポカリプス的なヴィジョンを見せてます。これを野放しにしておくと、第三次世界大戦の核戦争が始まりかねないと思わせる存在。それは我々がプーチンのロシアに感じることだし、イスラエルが核兵器の脅しを使う時に頭に浮かぶことです。第三次世界大戦、もしくは全面核戦争みたいなものを防ぐための戦いを、国に頼るのではなく民間人が自分でやらなければならないという本作の姿勢に共感する人は、世界中でも多いのではないでしょうか。OSINTの人たちも、自分たちで何とかしなくてはならいと、頼まれもしないのにネット上でいろいろやっています。SNSに書き込む行為も、世論戦、歴史戦などを戦っている竹槍部隊の一員として認識している人たちも多いと思います。

――最後の終わり方と、武器を使わないでゴジラと戦うというのは、確かに戦後日本の非武装の戦い方という面はあるのかな。

藤田 Twitterでバズっている意見というのは、言葉として現れる表面的な意見は左翼的リベラルなものですが、映像としては右翼的な内容だと。これはなかなか面白い指摘で、ここにこそ戦後日本の二重性や、捩じれが体現されているかもしれません。言葉と身体の分裂、と言いましょうか。そこは、憲法9条があるのに、PKOなどをやってきた日本と重なるかもしれませんね。主演の神木隆之介はフェミニンで優男ですが、物語としてはマッチョなところもそうかもしれませんね。

 

◆駆除されるべき害獣ゴジラ

――最近、映画としてエクソシストものが増えてますね。悪を感じているからか。その悪をカトリックだけではなく、いろいろな宗派が協力して封じる。多文化主義的です。

藤田 少し前までは、『ジョーカー』(2019)が典型ですが、悪は相対的なもので、同情の余地があるという話ばかりでしたが、純粋悪が存在するという世界観になってきたのかもしれませんね。あるいは、「物語」「イデオロギー」が憑りついて、銃乱射事件や、戦争や侵略に繋がっているこの現実の寓話なのかもしれません。

 ――今回の『ゴジラ−1.0』も、牛を襲った熊「OSO18」のように駆除されるべき存在として描かれてますね。ポストモダン的相対主義から進んで、純粋悪も考えないとならないかもですね。

杉田 人間とは根本的に異なるノン・ヒューマンとの関係を愛好している人たちが目立つように感じています。『ちいかわ』のセイレーンとか、『葬送のフリーレン』(2020-、アニメ:2023-)の魔族とか……。『呪術廻戦』(2018-、アニメ:2020-)とかも……。つまり理解し合ってほしくない、すれ違ったままの関係であってほしいと。それは逆にいえば、グローバルでリベラルな多文化主義の中であらゆる他者と分かり合わなくてはいけない、というプレッシャーの裏返しなのかもしれません。

――ポストモダン的な多面的理解が裏返り出しているということですか。

杉田 敵に「悲しい過去」なんて要らない、という声はずいぶん聞きますね。ノン・ヒューマンと共存しようとするから一層被害が拡大したり、おかしなことになるんだと……。むしろ徹底的に排除して抹殺すべきだと。『鬼滅の刃』(2016-2020、アニメ:2020-)や『葬送のフリーレン』にもそういう側面があります。

藤田 ポストモダン的なものは後退しているでしょうね。現実のネットを見ていると、我々の世界認識は非常に多元主義的でポストモダン的で、何が真実か分からない世界になっていると感じる一方で、だからこそポストモダン思想とか相対主義という考え方がよくないのではないか、この悪い状況をもたらしているのではないか、というポスト・トゥルース批判の文脈の意見を結構あちこちで見かけます。
 実際に映像を見てわかるように、戦争では人が死ぬ。身体が欠損したり子どもが無惨に死んでいるような生々しい映像を見ると、善と悪は明確にあるだろうと感じざるを得ないのかもしれません。ロシアとNATOのどちらが善か悪か。僕個人は西側に共感しますが、ロシア側からすれば自分たちが正しい。そこでどっちもどっちですよと相対性を持ち出しても世界は安定しないですよね。イスラエルとパレスチナもしかりです。「善と悪」は、相対的なものや多元的なものではなく、存在しているのではないか、と感じる人は増えているはずです。それは、倫理学や哲学というよりは、身体的な情動として、SNSなどの映像を通じて喚起されているように思います。

 ――『GODZILLA ゴジラ』(2014)の監督ギャレス・エドワーズの『ザ・クリエイター/創造者』(2023)という映画がありますが、共存できるという側に振り切っていて、むしろ人間側に問題があるという描き方でした。

藤田 異質な知性としてのAIとどう共存するか、あるいは排除するか、というテーマのものは多いですね。ゾンビモノもそうですが。

 ――ゴジラもそうですが、〈共存〉が今後の主題になるでしょうか。

藤田 共存できない存在もいるということが、今回の『ゴジラ−1.0』のメッセージですよね。動物愛護者でも、ゴジラと共存するのはなかなか難しい。

 ――それを言ってしまうと、前時代に戻ってしまうという考えも一方で出てくるでしょう。

藤田 何が善か悪かの基準は文化文明に依存すると言われたら、どうすればいいのか。普遍的価値はあるのか、という話になりますから、難しいですよね。

 ――『ゴジラ−1.0』は分かりやすい害獣。叩く対象としてあれくらいの分かりやすさがほしいということでしょうか。

藤田 本気で悪い奴を最近の映画では描かなすぎていますよね。『ジョーカー』では、ジョーカーという悪の象徴を可哀想な福祉の犠牲者のように描きました。でも本当にシビアな悪は現実にいる。プーチンやネタニエフなどの心理や事情、そう考えてしまう歴史的な経緯などを知ることも共感し理解することも重要なのですが、だから免責できるのかどうか、という問題が生じますよね。「それでも悪はいるのでは」と思わざるを得ない状況が、被害者たちの陰惨な遺体の写真を見ていると、思ってしまいます。
 例えば、「ちいかわ」「すみっコぐらし」的にみんなで暮らしたいとしても、そこにプーチンが侵略をしてきたらどうするのか。その時にどうしたらいいのか。ウクライナみたいなことになったらどうするか。そういうこともリアルに考えざるを得なくなっている。そのとき、武器を取って戦う必要が出てくるし、「男らしさ」も必要ではないか、という当然の考えが出てくる。それが有害な男らしさになれば、守ろうとする対象をこそ痛めつける悪循環になる――戦争帰りの復員兵は、随分と精神があれ、DVなどをしがちだったと言われます――ので、それをどう矯めるか、という問いに循環するわけですが、そこは神木くんの容姿や所作でみんな誤魔化されてると思う(笑)。

◆あまり安穏とした楽しい世界ではない


杉田 「ちいかわ」も「すみっコぐらし」もそれほど安穏とした楽しいばかりの世界ではないですよ。

――内ゲバ的なものはないんですか。

 杉田 それはないですね。「すみっコぐらし」は、既存のコミュニティや家族のもとに事情があっていられなくなった人たちが寄り集まっている世界ですね。

 藤田 僕の偏った経験によると、残念ながら、現実ではそういう集団は崩壊しがちだった(笑)。外れ者たちのコミュニティは、そこを維持する能力において、なかなか困難を抱えるな、って。

 杉田 リチャード・ローティが言ったように、共同体や文化ごとに善悪の基準は相対化されざるをえないけれど、普遍的な意味で「残酷なこと」は回避しよう、というスタンスもありますよね。拷問や強姦は普遍的にアウト、とか。アイロニーを経たリベラルですね。

藤田 どうなんでしょうね、この二つの戦争を見ていると、残酷なことは平然と行われているし、その是非の判断も相対化されているようにも感じます。イスラエルの人たちの中には、自分たちのやっていることが良いことであると感じている人もいるようです。ハマスの残虐行為をポジティヴに評価する者もいる。

杉田 たとえ現実がそうだとしても、残酷さの回避という点では普遍的に合意形成できるのではないか、それすらなければあとは相対主義とアイロニーの暴力に屈服するしかない、というのがローティの考えでしょうね。だからせめてリベラルアイロニーの立場を堅持せよ、と。

藤田 多分、それが出来ていないことが露呈しているのが――西側、リベラルのはずのアメリカが、イスラエルの残虐行為に加担しているわけですから――現在で、リベラルの価値観の前提にかなり強烈なダメージを与えている状況だと思います。国際関係論的には、「リベラリズム」と「リアリズム」が対立していて、前者は、普遍的価値を信じて、ルールを守りましょうよ、協調しましょうよという立場で、後者は、力とカネが全てである、みたいな世界観ですね。

杉田 劉慈欣の『三体』(大森望・光吉さくら・ワン・チャイ訳、立原透耶監修、早川書房、2019)のような、この世界はそもそも外敵と戦って奪い取るための狩場である、という……。

藤田 どちらというとそれに近いですね。話は少し変わりますが、中国で開催された世界SF大会で、ザハ・ハディッドアーキテクチャの建物を建てたんです。世界SF大会って、元々は単なるSFファンの集まりなわけですよ。そこに、SFの出版社がその町にあるという理由だけで、五輪で我々が建てられなかった規模の建築を建てた。共産党がコミットした、SFと科学を使った国威発揚なんだと思うんですが、こういう国威発揚や経済や科学の発展などと結びついているのが、現代の戦争なんだと思います。『三体』で描かれている異星人との戦いも、そういうものでしたよね。

杉田 福祉や貧困の現場にはわずかなお金も降りてこないのに、大阪万博の円環屋根を作るのに300億円くらいがパッと使われてしまう現実の中で、何が正義で何が公平なのかがわからない。それを議論するという動機自体が蒸発しかけている。「悪い現実」に向き合うことを放棄しかけている自分がいます。

藤田 腐敗し、ギャングのような連中が政権に入り込んでいる国なんでしょうね。それを言えば、イーロン・マスク等があれだけお金を持っているのもおかしい。アメリカを分断する内戦的な状況も、ロシアからの異議申し立てなども、やっぱり根本的な問題はやはり再配分のあり方にある気がします。  最近、世界的に世論が変わってますよね。
 パレスチナ支持のデモが世界中で起きている。そして、西側の価値観のようなもの、普遍的価値みたいなものが欺瞞だと思われている。そして、グローバル・サウスがそっぽを向いていて、むしろロシア側への共感が増えてきている。資本主義などのシステムは、西側に都合のいい、新植民地主義的なものなんだと言いたくなる気持ちはよく分かりません。それが、第三次世界大戦を招きかねない世界的な不安定さを呼んでいますよね。あっちが覇権握ったらどうしましょうかね。

――覇権までは握らないと思うけど。怖いのはアメリカが世界の警官にならないのが分かったこと。ベネズエラがガイアナを半分侵略するとか、世界戦国時代になる。誰も止めないから制御が効かなくなってますね。湾岸戦争のように無理やり警官やっていた方がよかったかも。第二次世界大戦前と符合するような不気味さがある。気候変動もこれほど早くくるとは思ってなかった。

杉田 科学系の本を読むと色々な危機は乗り越えられるかもしれないけど、気候危機だけは本当に難しい、という見解が多いようです。ブルーノ・ラトゥールも晩年は、気候危機を回避しうるポイントは超えたので、あとは希望を失わない撤退戦しかない、というようなことを言っていました。

◆科学に賭けてもいいのか?


藤田 円城塔がシリーズ構成を手掛けた『ゴジラ S.P<シンギュラポイント>』は、気候変動等のメタファーとしてのゴジラを描いています。それは、他の『ゴジラ』シリーズにおける科学や進歩への懐疑にカウンターをしていて、むしろ人類の危機に対して科学を信じよう、それしか希望はない、とでもいうかのような話ですね。AIが成長してなんとかしてくれる可能性があるから、恐れたり拒否しないで、それに賭けようという話です。インタビュー等を読むと、結局、科学に賭けるしかない、そこに希望があると言おうとしたようです。15年ぐらい前に、まさにそういう議論を円城さんとした覚えがありますが、そのときに円城さんは、科学が引き起こした問題も科学でなんとかするしかないんだ、みたいなことを仰っていたのを思い出します。

杉田 あれは科学技術というか、特権的な天才を信じろ、という話なのでは。

藤田 天才と、人類を超えた高度な知能が解決し得るのだと期待しろ、という話です。大半の人類はそれをもう理解できないと、作中でも描かれているし、多分実際の社会もそうなんでしょうね。複雑で高度化しすぎていて、自分の専門であっても、それ以外のことであっても、大半のことは、起こっていることすら認知できないような環境で生きているというのは、現代の我々の基本的な生の条件ですね。だからこそ、理解可能なものに縮減したくて、陰謀論が流行るんだと思うんですが。

杉田 正直、『シンギュラポイント』はよくわからなかった。ゴジラである必然性もわからなかった。ゴジラパートと天才たちのSF的議論パートが分離していると思う。

藤田 僕も、いわゆる普通のエンタメを観るような意味では、面白くなかった。ですが、今の時代に対するメッセージの側面においては、興味深かった。
 人類が科学を開発することで、今の我々が持っていない力を手にすることが可能で、それに期待するしかないのだということ。――原子力もそうだったから、悪循環な気もするんだけど、そこでニヒリズムに陥らないで、それで生まれる問題にはまた科学などで解決を図っていくしかない、そのような自転車操業の連続が人類が生きることなんだ、とでも言うようなメッセージがあって。
 そういえば、『オッペンハイマー』を観たんです。監督のクリストファー・ノーラン自身が明らかにしていますが、それは核兵器開発とAI開発を重ねて描いた作品でした。オッペンハイマーがパラノイアになるのは、核兵器を爆発させた時に大気が臨界になって地球まるごとが臨界状態になる説が当時あったからです。
 実際には起きなかったんですが、それを本当に恐れた。AIもシンギュラリティ・ポイントを超えて臨界に到達すると、自分で自分の知能を高度化できるようになり、人間が制御できなくなる。そうなると核兵器装置をハッキングしたり好きなことができるから、国連が国際原子力機関(IAEA)みたいな機関を作ると宣言しています。
 『オッペンハイマー』は明確に、今のそのAI開発とオッペンハイマーの立場を重ねています。天才がすごいものを作ったのはいいけれど、悪夢のような災禍が起き、人類を破滅させるかもしれないと苦悩する。それを止めようとしたら国から「アカだ」と疑われ、査問を受けてしまう。本当の危機を指摘しているのに、国の敵だと疑われてしまうというのも、大変今っぽい話です。『ゴジラS.P』と対比的ですよね。
 アメリカで、『ゴジラ-1.0』と『オッペンハイマー』を対にして観るべきという意見がありましたが、それはどちらも全面核戦争の脅威を予感させながらそれを止めようとする人たちの物語だからかもしれません。ゴジラにAI的な脅威を重ねて観ていたのだとすると、「時代遅れ」と見做されがちな者たちがアナログで対抗するという物語は、もうちょっと深い含意を持つでしょうね。


◆目くらましとしてのゴジラ?


杉田 そういえば原俊彦『サピエンス減少』(岩波新書、2023)などの人口学の本を読むと、人類が減っていくのは確定しているみたいですね。日本、韓国、中国もそうだし、アフリカは今後もしばらく増え続けますがやがて減少に転じる。我々が想像しているよりも短い期間で人類は収縮していくらしい。気候変動や疫病、戦争などをカウントに入れずとも。文明が発達していくと子どもを産まなくなるのは普遍的現象らしい。昔はかつての人口革命論では、あるポイントで下げ止まりすると想定されていましたが、どうもそうではないことがわかってきた。人口減少社会をどう食い止めるか、というより、人口減少局面で生じる破壊的な結果や格差をどうするか、ということを考えるべき段階なんだと。

藤田 エドワード・ダットンは『知能低下の人類史』(蔵研也訳、春秋社2021)で、豊かな社会になれば、生存率が上がることで遺伝子が劣化していき、知能が低下していくという説を述べていました。優生学的な文脈で批判されそうですが。そういう風に、人類は向上のピークを超えたという説を唱える人が最近は多いですね。それが、科学的に真なのか、時代の気分を投影しているだけなのかは、僕には見分けが付きません。でも、アメリカなどで、白人の男性が脆弱になっていて、数としても他の人種が増えていて、「白人置き換え理論」(グレート・リプレイメント)みたいな陰謀論を白人至上主義者が抱いているのを見ていて、「衰退」の気分になりやすい状況だというのはよく分かる。女性やマイノリティは「上昇」「発展」「進歩」という気持ちだろうけれども。
 そこで比較すると、山崎貴は、かつて未来に夢があった時代を取り戻そうとする戦略だけど、新海誠は衰退を受け止める心理的な装置を発明しようとしている。この状況をどう理解し、何を提案するかの差であって、どれが正しいのか分からないという前提を起きつつも、『ゴジラ−1.0』は衰退に入っていることの目くらましという感じも、どうしてもしてしまいますね……。でも、それがアメリカの邦画史上最高の成績になるわけだから、むしろ映画産業的には「発展」「拡大」感が出てくるという。

杉田 加速主義に対して、脱成長主義というより「減少主義」みたいな話もあっていいのかもしれません。ダニー・ドーリングの『Slowdown 減速する素晴らしき世界』(遠藤真美訳、山口周解説、東洋経済新報社、2022)という本が僕はわりと好きなんですが、この本によると人類は数が減って進歩がスローダウンすることで、落ち着いて成熟した社会になるらしい。人類は内在的必然によって少子化して成熟すると。
 ただ、本当にそこで止まるのかな、という疑問もある。少子高齢化や減速局面の中では、若年世代や社会的弱者によりしわ寄せが行くのではないか。だからスローダウン的正義、あるいは人類の絶滅過程の中での絶滅論的正義についての議論が必要なのではないか。この辺、専門家ではないのでもちろんわからないことが多いですが、そんな気がします。たとえば成田悠輔が高齢者の安楽死の話をして炎上した。しかし、成田氏を批判して済む話だとも思えない。気候変動や債務化社会など、様々な負担が若年世代や未来世代にしわ寄せされていくという問題が確実にあるわけだから。

藤田 今、小中学生、高校生の自殺者数が戦後最大だそうです。その世代の人数は90年代と較べて半分ほどになっているので、自殺率はとんでもなく上がっています。そして、精神疾患、精神障害の率もとても高い。原因は、特定できていません。ジョナサン・ハイトらは『傷つきやすいアメリカの大学生たち』(西川由紀子訳、草思社、2022)の中で、リベラルの甘やかしやSNS、ガリベン的な教育環境の影響を論じていますが、高齢出産等で単純に遺伝子が劣化しているのではないかという説もあります。どれが本当かは分からないけれど、人類が衰退して駄目になっていると感じやすい状況ではあると思います。先に述べた白人至上主義者も近いですよね。

杉田 白人も日本人もそもそも雑種化の産物だし、どの人種や民族も結局、緩やかに数が減っていくのは間違いないと思うんですけどね。心配しなくても。遅かれ早かれ。

藤田 長期的にはそうでしょうね。でも、第一世代では、元の国から出てきて、成り上がるぞという元気と野心と知性と能力があるような移民がやってくるから、アメリカはその上澄みを集めて世界最強の国になっているわけですよね。彼らも何世代かすると、同じ状況になるでしょうね。

杉田 中国からアメリカにだいぶ人が流れているようですが、中国も人口減少の局面ですしね。

藤田 東アジアはほぼ減少傾向にありますね。でも、先進国というか、豊かな環境において人口が減っていく傾向が絶対にあるというわけではないと思うんですよ。それは、民主主義や人権概念が現在のままであるという前提がありますよね。でも、もっと政府が強権的に自由を制限したり、男女平等ではない制度を採用すれば、解決できるんですよ。それが規範的に良いとは全く思わないですが、男尊女卑や自由の制限などを主張している人たちの念頭にはそれがあるはず。それが多数派になったり、あるいは、共同体が自らの存続を最優先に考えるようになれば、そのような選択肢もありえないことではないでしょうね。

杉田 一時的な反動としては強引な政策もありうるかもしれないけど、全体としての「近代化」の流れは止められないのでは。大きな時間の流れでいえば、今でもやっぱり人権概念や平等意識が漸進的に勝利しているし、その流れは今後も変わらないと思う。だから人口減少もしていくわけで。テクノロジーにしても、AIとかゲノムとか、加速的に発達しているように見えるけど、テレビやパソコンが登場した時に比べると、むしろ緩やかになっている、という話もあります。

藤田 どうなんでしょうね、ポストトゥルースになって、暗黒時代に戻った、つまり、近代から後退したという意見はよく聞きますが……。科学技術の発達に関しては、生活レベルの実感では、スマホとインターネットとコンピュータとゲームしか進歩していない印象がありますね(笑)。医療とかの領域ではすごいこともたくさん起きているのでしょうけれど。

杉田 人工知能が人間を超えると言う話はずっと前からされていたわけで……。

藤田 しかし、おそらくその衰退のプロセスはスムースにはいかないんじゃないかと思うんですよ。穏やかに礼儀正しく衰退して死んでいく、ということには、ならないんじゃないかな。気候変動で食べ物や住める土地がなくなり、それを奪うために戦争もおきかねない。差別や暴力、憎悪と絶望なども大変なことになると思うんですよ。衰退するなら衰退するで、そういう時代に必要な価値観、心の持ち方、神話や哲学などが発明されないと、不必要な苦しみがたくさん生まれてしまうでしょう。

杉田 それはそうですね。特に戦後世代の日本人は、衰退に備えて意識変革をしたり制度設計したりすること自体が耐えがたい、という感じがありますね。

藤田 特に「日本を取り戻す」の安倍政権、宗教右派勢力にはその傾向が強かったですからね。ITなどのイノベーションを促進する新自由主義政策やりながらそれだから、結局ネポティズムが蔓延って新身分社会みたいになってしまった。清和会じゃなくて宏池会に所属する岸田政権以降、政策などでマシになりうるはずだと僕は期待していますが。
 『ゴジラ-1.0』における敗戦を、コンピュータ産業における競争で負けた「第二の敗戦」のメタファーだと考えたら、敗戦したけど自分たちは根性と気合でなんとかするぞ、むしろ何もない廃墟になっても、そこで生身でがんばるぞ、ということのニュアンスも違うかもしれませんね。むしろ、それは本来的な人間の感覚を取り戻すことだと。
 『ゴジラ−1.0』は、海のシーンは船で沖に行って本当に撮っているんですよね。特撮、CGだけではなく、アナログも随分入れて身体的部分も重視しています。身体的なリアルと、デジタルが共存するうまいやり方がここで体現されていて、それは未来を示唆する気がします。

杉田 やがては肉体の呪縛から逃れて、火星や海上都市、メタヴァースにイグジットするんだという想像力も、現実の衰退過程に耐えられない人々の見る夢なのかもしません。

藤田 そうだろうと思います。イーロン・マスクは、そういう人たちの「夢」を集める戦略に出ていて、凄いのはそこだと思います。人間や現実の今あるありように満足できず、より良い別のあり方を夢見て、希望を持つのは、普遍的な人類のあり方だと思いますし、実際、そういう夢や願望に駆動されて人類は進歩してきたんだと思います。

――そろそろ結論を。

杉田 僕は絶滅を前提にして早めに動いた方がいいという立場です。少なくとも日本はかなり早い段階で人口学的に絶滅段階に至るはずです。科学哲学のジャン=ピエール・デュピュイの言うように、絶滅が必ず起こるという前提で動かないとそれを回避できない、あるいはそのダメージを緩和できない、というジレンマがある。
 ハイデッガーの「死の先駆的決意性」のように、民族絶滅をちゃんと自覚的に受け止めて、原発の廃炉ならぬ廃国家、「戸締まり」をしましょう、という話になります。絶滅可能性から目を背けて、人口増や国力回復を夢見るのは間違いだと思う。甘い見積もりを繰り返しながら、悪い方悪い方に来たわけですから……。衰退過程、沈没過程の中でそれでも不公正を回避して、なるべく多くの人々が幸せでいられるような社会が望ましい。それもまた、『ゴジラ−1.0』のような、美しい「ユアニッポン」の夢なのかもしれませんが……。

藤田 気候変動や第三次世界大戦の脅威は、『ゴジラ』シリーズが描いてきた、人間の科学技術による環境破壊や人類そのものの絶滅可能性という問題と繋がりを持っていると思います。それらに対して人類は本気で直面し対策を立てるべきだと思いつつも、ちょっと距離を置いて考えると、「人類は終わる」という終末論って、過去にも何度も現れているんですよね。『方丈記』もそうだし、末法思想もそう、第二次世界大戦のときだってそう感じていた人は多かったはず、キリスト教圏では千年王国主義の運動も何度も起こっていますよね。ジョナサン・ゴッドシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』(月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022)によると、キリスト教の成功の秘訣は、一人一人が歴史のクライマックスにいて、善と悪の最終戦争に参加し運命を決める戦いをしているのだ、というストーリーを提供することによるのだそうです。それは、その人の生や死の意味を提供する物語としても機能したと思うんですよ。だから、陰に陽にそういう「物語」の影響を受けやすい我々は、今が危機で転換期なんだと思い続けやすい癖を持っているのかもしれません。それは、OSINTとか、SNSで社会を変える運動を起こすとか、そういうことに繋がるので、悪いことだけではないのですが。
 我々は絶滅するかもしれないし、しないかもしれない。未来は誰にも読めないので、やれることをやっておくしかないんだと思います。パスカルの賭けではないですが。『ゴジラ-1.0』や『ゴジラS.P』が、そのような前向きなマインドに私たちを変えようとしていることは、評価せざるを得ないです。そのように前向きに信じることが、結果としてそれの実現可能性を高めるような、予言の自己成就的な効果が確かにそこにあるのでしょうから。信じるというのは、事実の問題ではなく、意志の問題ですからね。