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【書評#2】一つの町と家族の来歴が照らす歴史の深層(赤尾光春)/『ウクライナの小さな町』

東欧の複雑な歴史を複雑なまま理解するためにまさに今求められる注目書『ウクライナの小さな町』(バーナード・ワッサースタイン、工藤順訳)の書評を、ユダヤ文化研究者の赤尾光春さんにお寄せいただきました! 2回に分けて掲載します。

*前回の記事はコチラ→【書評#1】


■実証史を補う生存者の証言と「想像的飛躍」

本書には、巻末の参考資料から実証できないような事実や引用はいっさい含まれていない。

(xii頁)

 序文でこう記したワッサースタインは、ストイックな歴史家としての本分を全うすることに徹した旨を強調する。だが、「それでも時として、祖父やその他の人たちの心の内面がどのように働いていたかを推測したい気持ちに駆られることがあった」と述べ、「想像的飛躍」をした箇所があったことも率直に認めている。
 そうした箇所の一つは、著者の父アディをホロコーストから救う上で決定的な一手を差し伸べた人物についてである(228-232頁)。クラコーヴィエツに「帰った」家族と生き別れ、生まれ故郷のベルリンで不法滞在者となったアディは、ドイツの同盟国イタリアに「鉄道の切符だけ」で入国できることを偶然知り、1939年8月、運よくイタリアに落ち延びた。だが、避難先にもナチスの魔の手が迫り来る中、今度は、「イギリスの要請に応じてイタリアからポーランド国籍者を受け入れていた」トルコを目指し、ポーランド領事館でパスポートの効力確認――パスポートの効力確認の義務化は、ポーランド国籍のユダヤ人に「強制送還」を課したナチス・ドイツの政策に対するポーランド側の予防策として1938年10月に導入された(6-7頁)――を試みるが、徒労に終わる。
 そこで「ほとんど奇跡的なこと」が起こり、アディは友人の紹介で、「黒い教皇」と呼ばれていたイエズス会総長ヴウォジミェシュ・レドゥホフスキ神父との面会を許される。レドゥホフスキ神父は、「隠された回勅」として知られる教皇ピウス11世の回勅「フマニ・ゲネリス・ウニタス」――訳者注:「人類が一つであることについて」の意で、反ユダヤ主義をはじめとするレイシズムへの批判を含んだが、教皇の生前には発出されなかった――の発出を遅らせ、結局はそれを隠蔽したとして戦後非難されてきた人物である。
 ドイツ生まれのためポーランド語を話せなかったアディは、面会で家族の出身地について神父から尋ねられた際、「クラコーヴィエツ」とポーランド語風の発音で答えた。著者は、「(引用者注:ある外交官によると)カトリックの伝統的な反ユダヤ主義にどっぷり浸かっていた」神父がユダヤ人難民のアディに便宜をはかったのは、幼少期にクラコーヴィエツ付近で夏休みを過ごしていた神父が、この回答を通じてアディに「同郷の士」を認めたためだろうと推察する。
 もう一つは、クラコーヴィエツに「帰った」ヴァッセルシュタイン一家――ベール(著者の祖父でアディの父)と妻チャルナと娘ロッテ――を襲った悲劇的な運命に関わった人物についての考察である(214-217頁)。1941年6月22日に開始された「バルバロッサ」作戦からわずか2日後にナチスの手に落ちたクラコーヴィエツのユダヤ人は、近郊の町ヤヴォルフに設置されたゲットーに移送された挙句、1943年4月16日、ポルーデンコの森に連行されて皆殺しにされた。ベール一家は、ムィコラ・オラネクという地元のウクライナ人の小屋に匿われ、この虐殺を奇跡的に免れたが、1年以上ものあいだ匿われた末、1944年4月、オラネク自身の「裏切り」により、結局3人とも殺害された。
 クラコーヴィエツで生き残った数少ないユダヤ人の一人で、戦後アメリカ合衆国に移住したベール・ラクスから著者が直接聞いた話によると、オラネクの同級生だったラクス自身も彼によって匿われた一人であり、オラネクの母親は、かつてラクス家で「シャベス・ゴイ(安息日の異教徒)」――訳者注:安息日にユダヤ人が行えない家事を代行する非ユダヤ教徒――として働き、イディッシュ語を少し話すことさえできたという。ヤヴォルフへの強制移送が始まる前に路上で旧友と出会ったラクスは、「ドイツに協力したウクライナ警察に加わっていた」オラネクが、通りすがりのユダヤ人を無造作に射殺してから、「大丈夫だ、おまえは心配しなくてもいい。おまえはおれのユダヤ人だろうが」と言い放つのを聞いた。

■親密な関係と利害関係のはざまで

 家族の運命に纏わるこうした逸話は、周囲で圧倒的な暴力と殺戮が進行する状況下で、一人の人間の行為が別の人間の生死を決した歴史的瞬間の記録でもある。アディと神父の面会とラクスとオラネクの再会は、事態の緊迫度という点では著しく異なるが、いずれも、特定の人間のあいだで築かれるか、確認された親密な関係が、偏狭なイデオロギーや暴力的制度が課す強制力を時として超越し得ることを示唆している。
 先述のエリアハが編集した『ハシディズムのホロコースト物語』(Hassidic Tales of Holocaust, 1982)には、こうした現象の本質をよく伝える次の物語が収録されている。

 ダンツィヒの近くに、さる名門ハシディズムの末裔にあたるラビが住んでいた。豊かな暮らしぶりで、誂えの黒の上下とシルクハットに身を包み、銀色のステッキを突きながら、毎朝背の高いハンサムな婿と連れ立って散歩に出かけるのが彼の日課だった。朝の散歩道で誰かに出会うと、男性にも女性にも子供にも分け隔てなく、暖かい微笑を送っては「おはよう」と元気な挨拶をする。それがラビの日課だった。そんなわけで、かれこれ数十年、ラビは町の住民のあいだですっかり馴染みの顔となり、いつも正しい称号や名前を呼んで彼らに挨拶したものだった。
 町の郊外の畑で、彼はドイツ系ポーランド人――フォルクス・ドイチェ――のミュラー氏ともよく挨拶を交わした。「おはよう、ミュラーさん!」 ラビは畑で働く男にいそいそと挨拶した。「おはようございます、ラビ殿!」 善良な微笑とともに返事が返ってきたものだった。
 そして戦争が始まった。ラビの散歩は不意になくなった。ミュラー氏はSS(親衛隊)の制服に身を包み、畑から姿を消した。ラビはポーランドのユダヤ人の多くと同じ運命を歩んだ。彼は、トレブリンカの絶滅収容所で家族を失い、艱難辛苦の果て、アウシュヴィッツに移送された。
 ある日、アウシュヴィッツで選別が始まり、ラビは他の何百人ものユダヤ人と列をなし、生死を分かつ運命の瞬間を待ち受けていた。縦縞の囚人服を身に付け、頭も顎鬚も剃りあげられ、餓えと病のために目は熱に浮かされたラビは、さながら歩く骸骨だった。「右! 左、左、左!」 遠くの声が近づいてきた。純白の手袋をはめた手には錫杖を握り、鋼鉄のような声を張り上げ、我こそは神とばかりに、誰が生き、誰が死ぬかを裁く男。不意にラビはこの男の顔を見たいという強い衝動に駆られた。目を上げた途端、ラビはこう言い放つ自分の声を聞いた。「おはよう、ミュラーさん!」
 「おはようございます、ラビ殿!」 頭蓋と骨で飾られたSSの帽子の下から、人間味のある声が答えた。「どうしてこんなところに?」 消え入りそうな微笑がラビの唇に浮かんだ。杖は右を、すなわち生の方角を指した。翌日、ラビはもっと安全な収容所に移された。
 今ではもう80歳になるラビは、優しい声で私に言った。「これが挨拶(おはよう)の力です。だから人は友人にいつでも挨拶しなくてはなりません。」

(Yaffa Eliach, Hasidic Tales of Holocaust, “Good Morning, Herr Müller,” pp.109-110)

 互いに面識のなかったレドゥホフスキ神父とアディを結びつけた唯一の要素が「同郷の士」だったとすれば、オラネクとラクス、あるいは、ラビとミュラーを結びつけたのは、戦前に築かれていた親密な関係だった。これに対して、著者は、オラネクが面識のなかった「ベール一家――引用者注:ヴァッセルシュタイン一家――を匿った理由としてもっともあり得るのは、見返りに金を受け取ったか、あるいはもしかしたら将来報償をもらう約束を取り付けたかだろう」(214頁)と推察する。

■救う者と裏切る者の心理

 ヴァッセルシュタイン一家の運命に関して、著者は、「一度は助けてくれた人がなぜ裏切るのか」という「困惑させられる疑問」に悩まされたというが、ラクスが生前に著者に語ったオラネクの言動が、思いがけずこの疑問の「答えに至る糸口」を与えたと述べる。著者による以下の考察は、極限状況下に限らず、ユダヤ人と非ユダヤ人の間の歴史的な関係全般とともに、非対称的な主従関係にある諸集団間の政治力学を考える上でも示唆に富む。

助けの手を差しのべる者と裏切る者の心理は必ずしもかけ離れたものではないのだと気がつきはじめた。どちらも支配の一形態として理解することができ、それぞれの仕方で満足と自己正当化を得ることができるのかもしれない。

(217頁)

■主従関係と民族関係の政治力学

 「おれのユダヤ人」というオラネクの言葉は、単なる親密さの表明を越えて、極限状況下で肥大化した権力関係も暗示するが、この言い回しには、実は歴史文化的な先例がある。
 シュテットルが発達したポーランド王国の東部辺境地帯では、ポーランド人貴族が領地内の様々な不動産の管理や経営をユダヤ人に委託し、その見返りに賃貸料をユダヤ人から徴収する「アレンダ制」という制度が発達した。こうした社会システムの中で、ユダヤ人はポーランド人貴族のことをイディッシュ語(内輪)で「旦那」(porets)と呼んだが、この言葉は元来、「無法者」や「悪党」を意味するヘブライ語に由来する。「旦那が待てと命じたら、待たねばならない」(Az der porets heyst vartn, muz men.)とか、「ユダヤ人が口笛を吹き、旦那が耳の下をかくと、悪い前兆」(Az der yid fayft un der porets krakhtst zikh untern oyer iz a shlekhter simen.)といったイディッシュ語のことわざが示す通り、ポーランド人貴族は、ユダヤ人の間でしばしば放埓な暴君としてイメージされた。他方で、「旦那だけの暮らしも犬だけの暮らしも、健全な暮らしにあらず」(Aleyn porets un aleyn hund, iz a lebn on gezund.)ということわざ――ここでいう「犬」とは、もちろん、ユダヤ人の比喩である――もある通り、両者は往々にして持ちつ持たれつの関係にあり、自らの手となり足となって働くユダヤ人を「うちのユダヤ人」として重宝する貴族も珍しくなかった――ポーランド人貴族とユダヤ人の関係については、第5章「皇帝のクラコーヴィエツ」の末尾で、ヨーゼフ・ロートとアシェル・バラシュの小説を例に対比的に考察されている(96-99頁)。
 利害関係と親密さとが交じり合ったこうした主従関係は、「お宅がうちのユダヤ人を殴るなら、お宅のユダヤ人を殴ろう」(Du shlogst mayn yidn, vel ikh shlogn dayn yidn.)という、一見、滑稽に見えることわざに見事に表現されている。このことわざは、ポーランド人貴族が、自身の「手下」であるユダヤ人のことは積極的に守ろうとしても、自らの領地とは無関係の、したがって直接の利害関係をもたないユダヤ人の運命にはいくらでも冷淡になれることを暗示する。
 こうした主従関係が極限状況下で極めてグロテスクな相貌を帯びることは、オラネクが旧友のラクスという「おれのユダヤ人」以外のユダヤ人を目の前で射殺したという証言が雄弁に物語る。オラネクは、このぞっとするような行為を通じて、ラクス自身をも含むユダヤ人全般の生殺与奪の権を握っているのだという全能感を誇示したかったのだろう。このように、親密さを基準にした関係が特定の個人の救済につながり得る一方で、同じ救済者が、「ユダヤ人」という抽象的な集団全体の運命については、いとも簡単に冷酷な刑吏の役回りを演じられてしまうのである。

■救済の契機としてのイデオロギーと行為のズレ

 一方で、特定の集団が事実上の死刑宣告を受けたような極限状況下では、特定の個人における他集団に関するイデオロギーと行為の一貫性のなさが、人びとを破滅から救うこともある。実際、本書には、そうした一貫性のなさを例示すると思われる人物への言及がしばしば見られる。
 ハプスブルク帝国の宰相メッテルニヒはガリツィアを訪れた際、「どこに足を運んでもユダヤ人と出会うことが、この地方を台無しにしている」と妻宛の書簡で嘆いたが、こうした偏見が、ユダヤ人の諸権利の擁護者としての彼の評判を傷つけることはなかった(60頁)。また、ギリシャ・カトリック教会の長であったアンドレイ・シェプティツィキー管区大司教は、「驚くほど多くのユダヤ人が国の経済生活全体に侵入しつつあり、当局の行動は浅ましい強欲さを帯びています」と反ユダヤ主義的なレトリックを用いてソヴィエト政権を非難したが、このような毒々しい偏見は、独ソ戦の最中に「ユダヤ人に対する犯罪についてヴァチカンに報告し、ヒムラーに抗議文を送」ることを妨げなかった――他方で、シェプティツィキーは、「1943年に(ウクライナ人志願兵から成る)武装親衛隊ガリツィア師団の結成に際して祝福を送った」ことでも知られる(181-182頁195-196頁)。
 無論、これらとはまったく逆の例も報告されている。ワッサースタインは、「同情を寄せていると思われる人であっても、偽りの友人であることが判明する可能性があった」例として、1942年に起きた次のエピソードを挙げている。

ルヴフ近郊の接収された元ポーランド領主邸に住むドイツ人親衛隊の妻が、買い物から帰る途中で、ほとんど裸の六人の子どもに出くわした。女性は子どもたちを家に連れていき、夫の帰りを待つあいだ食べ物を与えた。しばらくして、帰ってこない夫に痺れを切らして、女性は子どもたちを近くの林の中に連れていき、溝に沿って一列に並ばせ、一人ずつ全員のうなじを銃で撃っていった。

(198-199頁)

■「善」と「善意」の間にある「灰色の領域」

 ユダヤ系のロシア語作家ワシーリー・グロスマンは、独ソ戦時代の人間模様を綴った長編『人生と運命』(齋藤紘一訳、みすず書房)において、ウクライナの農業集団化による飢餓とナチスによるベラルーシでのユダヤ人虐殺を目撃して精神錯乱に陥り、ユダヤ人を匿った廉で密告されてドイツの捕虜収容所に収監された元トルストイ主義者のイコンニコフ゠モルジュの口を借りて、いかなる見返りも求めることのない、盲目的とさえ言える、ささやかな「善意」(доброта〔dobrota〕)を、集団的殺戮をも厭わない大きな恐ろしい「善」(добро〔dobro〕)よりも上位に置くべきだという思想を展開した。グロスマンはそうした「善意」の例として、捕虜に一切れのパンを持ってきた老婆、傷ついた敵に水を飲ませた兵士、ユダヤ人の老人を干し草置き場に匿った農民などを挙げているが、いずれも前線などで実際に聞いた話だろう。
 一方、ワッサースタインの考察を通して我々が窺い知るのは、極限状況下では、こうした「善」と「善意」の間に、「助けの手を差しのべる者と裏切る者の心理」が紙一重となり得るような巨大な領域が存在していたことである。アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィは、強制収容所内で特別労務班(ゾンダー・コマンド)として働いたユダヤ人が置かれた境遇を処刑者であると同時に犠牲者でもあるような「灰色の領域」(La zona grigia)と呼んだが、オラネクの事例は、ユダヤ人を救うことも裏切ることもできた周辺の人びとの間に、同様の領域が収容所やゲットーの外にも存在していたことを示唆している。
 かくして、著者がときおり差し挟む「想像的飛躍」を通して、本書は、歴史の領域から人間の心理とモラルの領域へと一歩近づくことになる。

■民族浄化の果てに成立したウクライナの町

 独ソ戦を通じて、クラコーヴィエツを含む東欧一帯でユダヤ人はほとんど皆殺しにされた。数世紀にわたって築かれたシュテットル文化は、今や廃墟と化したシナゴーグや墓地にその痕跡を留めるのみである。
 第12章「一匹になった魚」では、クラコーヴィエツが1944年7月に赤軍によってナチスの占領から解放される前後の凄まじい状況が語られる。第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線は、少なくともナチスとの死闘という点では、1945年4月30日のヒトラーの自殺と5月7日のドイツ降伏でひとまずの決着を見た。だが、ナチスの退却によって、東部における戦闘と殺戮は終結を迎えるどころかいっそう激しさを増したことは、一般にはあまり知られていない。ナチス・ドイツ無き後の権力の空白地帯では、ソ連軍、ウクライナ蜂起軍、ポーランド人民兵部隊の三つ巴による壮絶な戦いがその後も繰り広げられ、蜂起軍の残党は実に1954年まで抵抗を続けたのである。本書はここでも、第二次大戦末期からその終結以降も継続した、この「忘れられた戦線」の恐るべき実態とその後の帰結を余すところなく伝えている。
 クラコーヴィエツはソ連の再占領により、再びウクライナ語の「クラコヴェーツ」となった。ソ連領内にいたポーランド人約130万人とポーランド国内にいたウクライナ人約50万人の「自発的な相互移動」と呼ばれた事実上の「双方向の民族浄化」――この政策で移住させられた人の多くは、戦前にユダヤ人が居住していた家屋をあてがわれた――の結果、クラコヴェーツは、ソ連領となった西ウクライナの他の町と同様、最終的に「ほとんど完全にウクライナ人の町」になった。

■シュヘーヴィチの亡霊

 本書を締めくくる第13章「クラコーヴィエツに帰る」は、著者が祖父の故郷を何度か訪れた際の見聞録である。町役場や祖父が通っていた学校など、訪問した先々で著者を待ち受けていたのは、この町で生まれ、ポーランド人高官の暗殺作戦などで頭角を現し、独ソ戦の最中に、ドイツ国防軍諜報部(アプヴェーア)が創設したウクライナ人部隊「ナハティガル大隊」等の指揮官を務めた後、ウクライナ蜂起軍を創設し、その「最高司令官」となったロマン・シュヘーヴィチの亡霊であった。
 シュヘーヴィチの指揮下にあったナハティガル大隊は、ルヴフ(現リヴィウ)やヴィニッツァ(現ヴィンヌィツャ)におけるポグロムに関与した疑いがもたれており、同じく蜂起軍は、最大で実に10万人ものポーランド人――その犠牲者には、ギリシャ・カトリック教徒とローマ・カトリック教徒の婚姻による家族も含まれていた(239-240頁)――を虐殺したと言われている。
 著者は、「シュヘーヴィチ崇拝」の中心地となったクラコヴェーツからこの町のユダヤ人が虐殺されたポルーデンコ村付近の森へと赴き、ささやかな追悼のプレートの前でカディッシュ――ユダヤ教の弔いの祈り――を唱えた。

■ロシアの全面侵攻で注目を集めたポーランド国境の町

 祖父の生まれ故郷への「帰還」の旅は、こうしてひっそりと幕切れを迎える。だが、ソ連時代に「深いまどろみに就いた」クラコヴェーツは、「本書がいよいよ印刷に回されようというタイミングで」、思いがけない形で再び歴史の表舞台に登場する。
 2022年2月24日にロシアがウクライナに全面侵攻を開始した直後、ウクライナ全土から西の国境へと殺到した避難民の多くが、ポーランド国境の検問所が設けられたこの町を通過したのである(277頁)。ロシアの全面侵攻を受け、ポーランド国民はウクライナからの避難民を快く受け入れるとともに、揺るぎない連帯の意思表示をすることで、必ずしも良好とばかりは言えなかったポーランド・ウクライナ関係に劇的な転換をもたらした。
 だが、ロシアという共通の敵を前にして醸成された両国の蜜月関係は、必ずしも盤石とは言えなかったことがやがて判明する。本書が刊行された後の2023年11月、ウクライナから輸送された農産物の流通が自国の農産物の価格下落につながるとの懸念から、ポーランドの農業従事者たちがクラコヴェーツを含む検問所付近の道路を何台ものトラックで封鎖する事態が起きた。ロシアとの戦争で両国間に思いがけず訪れた友好関係は、生活の糧をめぐる人びとのむき出しの闘争によって水を差された格好となった――数か月にわたる非難の応酬の末、2024年3月28日、ウクライナのシュミハル首相とポーランドのトゥスク首相がワルシャワで会談した結果、農作物の輸送に対する封鎖の一部が解かれた模様だが、根本的な解決には至ってない。

■「使える歴史」の政治利用への警鐘

こうした過去の断片から教訓を引き出すなどということは、わたしの目指すところではない。過去を教訓とするかどうか、そして教訓とするならばそれをどのように活かすかということは、一人ひとりの読者が判断されることだろう 

(xii頁)

 ワッサースタインが「まえがき」に記したこの言葉は、原書と訳書が刊行された時期にウクライナとイスラエルで戦争が勃発したことで、いっそうの緊急性を帯びているように思われる。これらの戦争は、本書が描いた歴史と直接関係しているとまでは言えないものの、その深層において相互に分かちがたく結びついている。
 戦争が往々にして当該国民の歴史認識や集合的記憶と分かちがたく結びついた形で遂行されることは言うまでもない。とりわけロシアとウクライナの戦争は、プーチンが侵略を正当化するために持ち出した帝国主義的な歴史観と、それを真っ向から拒絶するウクライナの抵抗という形でも闘われていることから、「歴史戦」の延長という側面が強い。
 この点で示唆的なのは、元ロシア大統領のドミートリー・メドヴェージェフ――2020年よりロシア安全保障会議副議長――が2021年10月13日に『コメルサント』誌に寄稿した「なぜ現ウクライナ政権との交渉は無意味なのか」と題した論説である――在日ロシア連邦大使館がこの論考の日本語訳全文をFacebookに掲載している。メドヴェージェフはこの論説で、ウクライナの「最も過激な民族主義勢力」に屈したとして、ゼレンスキー大統領をSSに奉仕したユダヤ人にたとえてその道徳的欠陥をあげつらうのだが、持論を補強するにあたって、1941年の夏にナチス占領下のリヴィウやその他の町で起きたウクライナ人によるポグロムに関するソ連の未公開資料まで添付する手の込みようであった。その4か月半後、プーチンは「ネオナチ」政権の打倒を主要な目標に掲げて、ウクライナへの全面侵攻に踏み切った。
 ワッサースタインは、「ウクライナに「ナチ」がいるというロシアの主張が、とんでもないブラックプロパガンダであることは自明なことだ」と述べる一方、戦争が必然的にもたらすナショナリズムの高揚が、現在のクラコヴェーツで見られる「シュヘーヴィチ崇拝」のような、過去の虐殺の首謀者を英雄視する風潮を助長しかねないことへの不安も同時に語る(279頁)。さらに、こうした英雄崇拝は、「ウクライナの一部の人たちに見られる、時に「使える過去」と呼ばれるものへの意識的なニーズに応えるもの」であり、「歴史の捏造に基づく集団的アイデンティティは本来的に汚染されており、潜在的に危険なものだ」と警鐘を鳴らしている(272-273頁)。

■ウクライナ・ユダヤ関係の未来

 マイダン革命後のウクライナでは、「脱共産主義化」の名の下、ソ連時代の記念碑の撤去や公共財の名称の廃止と並んで、バンデラやシュヘーヴィチを筆頭とする、ウクライナ民族主義者組織(OUN)やウクライナ蜂起軍の指導者たちの復権が急ピッチで進んだ。このような記憶の再編成は、官製の「ウクライナ国立記憶研究所」(Ukrainian Institute of National Memory)のイニシアチヴで推進され、上述の二つの民族主義組織がユダヤ人などのマイノリティ集団にあたかも寛容であったかのような歴史修正主義的なナラティヴの構築さえ企てられた。こうした状況に照らせば、ウクライナの地で虐殺されたユダヤ人の子孫であるワッサースタインが懸念を覚えるのも無理はない。
 とはいえ、マイダン革命以降の時期には、「スヴォボダ」等の極右政党の候補が選挙のたびに軒並み落選した一方、欧米の定評ある研究所の世論調査は、ウクライナ国内の反ユダヤ主義がヨーロッパ諸国で最も低い水準にあるという結果を示した。こうした事実にくわえて、なによりもユダヤ系のゼレンスキーが大統領に選出されたこと自体が、ウクライナにおける反ユダヤ主義の脅威が多分に誇張されたものであったことを示して余りある――マイダン革命から戦時下にかけてのウクライナとロシアにおけるユダヤ人をめぐる言説については、拙論「ロシア語を話すユダヤ人コメディアンVSユダヤ人贔屓の元KGBスパイ」(『現代思想』2022年6月臨時増刊号)を参照。
 さらに、戦時下には、欧米諸国からの注目を集めていることもおそらくは手伝って、敵国であるロシアへの怒りや憎悪を別とすれば、排外主義的なナショナリズムの高まりは概ね抑制されている。この点で、「使える過去」の政治利用という点で見境がなくなって久しいのはむしろクレムリンのプロパガンダであり、文字通り国家存亡の危機に立たされたウクライナにとって、ロシアという圧倒的な脅威を前に国民的団結を図る上で、国内外で論争の的になっている過去の記憶をことさらに活性化する必要はない。
 いずれにしても、ウクライナ社会が、本書で取り上げられた過去の記憶とどう向き合うかは、この戦争が終わった暁に改めて問われることになるだろう。

■付記――ホロコーストの教訓は誰のものか?

 2023年10月7日に起きたハマスのカッサム旅団によるイスラエルへの越境攻撃、そしてイスラエルがガザで行っている報復攻撃は、ユダヤ人とパレスチナ人の対立の歴史において最大の死傷者を生み出して現在に至る。両当事者間で真っ向から対立する歴史観と負の記憶の堆積にくわえて、この問題をいっそう複雑にしているのが、ユダヤ人がかつて居住した土地で被った歴史的トラウマの記憶であることは疑いない。この点を見据えて、アウシュヴィッツ収容所からの生存者でもある歴史家で科学哲学者のイェフダ・エルカナが1988年――第一次インティファーダ勃発の翌年――に語った次の言葉は、今なお有効であるばかりか、その重みをいっそう増しているように思われる。

パレスチナ人との関係においてイスラエル社会の多くを動かしている最も深い政治的・社会的要因は、個人的なフラストレーションではない。それはむしろ、ホロコーストの教訓に対する特別な解釈とともに、全世界が自分たちに敵対しており、自分たちは永遠の犠牲者であると信じてしまう心構えによって肥大化した、深い実存的な「不安(Angst)」なのである

(Yehuda Elkana, 'The Need to Forget,' Ha'aretz, 2 March 1988)

 この「不安」が時として怒りの発作として爆発することは、ハマスによる越境攻撃から約3週間後に国連で起きた次のエピソードに如実に表れている。イスラエルの国連大使ギルアド・エルダンは、国連安保理が10月7日の悲劇について「沈黙」したことに抗議するため、「二度と再び」(Never Again)と書かれた黄色いダビデの星を胸につけて登壇し、「あなた方は80年前の出来事から何も学ばなかった。あなた方が、目を覚まし、ハマスの虐殺行為を非難するまで着用する」と述べた。
 エルカナはかつて、「全世界が自分たちに敵対しており、自分たちは永遠の犠牲者であると信じてしまう心構え」に基づき、ホロコーストが「国民的経験の中心軸」となったことは、「ヒトラーの悲劇的で逆説的な勝利」であり、イスラエル国家にとって最大の脅威であるとさえ主張していた。今から30年以上も前のこの発言は、10月7日の出来事からちょうど半年後に俳優のミリアム・マーゴリーズ――映画『ハリー・ポッター』シリーズでボモーナ・スプラウト先生役を演じたことで知られる――がSNS上で発した言葉と響きあう。

私は、今ほどイスラエルを恥じたことはありません。私には、ヒットラーが勝利してしまったように思えます。彼は、私たちユダヤ人を、慈悲深く思いやりがあり、己の欲するところを人に施せという民から、残忍でジェノサイドに明け暮れるような国粋主義的な民に変えてしまったのです。

 マーゴリーズのこの言葉は、欧米の映画界で最近起きた論争の余韻冷めやらぬ時期に発せられたものだった。論争の発端は、アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその一家の日常を描いた映画『関心領域』(The Zone of Interets, 2023)――日本では2024年5月24日公開予定――で監督を務めたジョナサン・グレーザーがアカデミー賞の授賞式で述べた次の演説である。

私たちの選択はすべて、現在の私たちを反映し、現在の私たちと向き合うためになされます。「奴らが我々にしたことを見てみろ!」と言うのではなく、「我々が今していることを見てみろ!」と言うために。私たちの映画は、非人間化が最悪の事態へと導く地点を指し示しています。それこそが私たちの過去と現在のすべてを形作ったものです。私たちは今、かくも多くの罪のない人たちを紛争へと導いた占領体制(ocupation)によって乗っ取られた(hijacked)、彼らのユダヤ性とホロコーストに異議を申し立てる者として、ここに立っています。10月7日によるイスラエルの犠牲者も、現在進行中のガザへの攻撃の犠牲者も、みな、こうした非人間化の犠牲者なのです。私たちはどのように抵抗すればよいのでしょうか。

 グレーザーによるこの発言は激しい賛否両論を巻き起こし、ハリウッドを中心に活動するユダヤ系の映画関係者のうち、約450名がこの受賞演説を非難する手紙に署名した。以下が手紙の冒頭である。

私たちは、ある民族を絶滅させようとしたナチス政権と、自らの絶滅を回避しようとするイスラエル国家との間に道徳的な同等性を引き出そうとする目的で、私たちのユダヤ性が乗っ取られることに反対します。


これに対して、『ジョーカー』で主役を演じたホアキン・フェニックスやヨエル・コーエン監督をはじめとする約150名のユダヤ系映画関係者は、グレーザーのスピーチを擁護する手紙に署名した。以下が末尾の一文である。

私たちはホロコーストの記憶を追悼し、こう言います: 誰にとっても、二度と再び、と。

 このように、10月7日とその後の出来事をめぐって、とりわけディアスポラのユダヤ人の間で深い分断が生じていることが改めて浮き彫りになったわけだが、この分断が、イスラエルという国家の在り方とともに、ホロコーストの位置づけをめぐる対立を軸としたものであることは明らかである。一方は、ホロコーストの唯一無二性を擁護する立場からその普遍化に抵抗し、他方は、ホロコーストの教訓を普遍化することの必要性を訴えるという形で。
 とはいえ、ホロコーストの唯一無二性にあくまで基づいた上で、それを人類全体にとっての教訓とすることはもちろん可能だし、実際、そのような試みは広く行われて久しい。だとすれば、問題の所在はむしろ、イスラエル批判を反ユダヤ主義と同一視するような近年の風潮を疑いもなく醸成してきたイスラエルとホロコーストの不可分性をめぐる見解の対立にこそあると言えるだろう。
 「二度と再び」という教訓によって強固に支えられた国家は、己の生存をかけた闘争において、他者を非人間化せずにはいられない。だが、ホロコースト以後の世界にあって、他者の非人間化は、それがいかなる形態をとろうとも、「二度と再び」という教訓を思い起こさずにはいられないのもたしかである。
 ハマスによるイスラエル市民等の残忍な殺戮が引き金になったとはいえ、イスラエルによってガザのパレスチナ人になされてきた圧倒的な暴力――いうまでもなく、それは10月7日以前に遡るものである――を目の当たりにして、「武装したシュテットル」ともいうべきイスラエル国家とそれを無条件に支持するユダヤ人にとって、本書で描かれた「ユダヤ人一家の歴史」から得られる教訓は、そのモラル上の武器庫にこの上さらに弾薬を付け加えることになるだけなのだろうか。今や、我々はこうしたことに以前にも増して敏感にならざるを得なくなっている。
 ホロコーストを頂点とする反ユダヤ主義の暴力という非人間化の歴史から得られる教訓、そして「二度と再び」という標語が、そのような重たい歴史を背負ったユダヤ人にとってのみならず、非人間化の果てに起こり得るあらゆる暴力の被害者にとっても希望となるためには、本書が語り伝えたような歴史とどう向き合えばよいのだろうか。
 今ほど我々の想像力が試されている時はない。

*これまでの記事コチラ→【書評#1】

【プロフィール】
赤尾光春(あかお・みつはる)
1972年、横浜生まれ。総合研究大学院大学博士後期課程修了(学術博士)。国立民族学博物館特任助教。専門はユダヤ文化研究、ウクライナ・ロシア地域研究。共編著に、『ユダヤ人と自治――中東欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』(岩波書店)、『シオニズムの解剖――現代ユダヤ世界におけるディアスポラとイスラエルの相克』、共訳に、S・アン=スキ/ゴンブローヴィチ『ディブック/ブルグント公女イヴォナ』(未知谷)、『トレブリンカの地獄――ワシーリー・グロスマン前期作品集』(みすず書房)、デル・ニステル/ベルゲルソン『二匹のけだもの/なけなしの財産他五篇』(幻戯書房)など。