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古い写真を訪ね歩く 7 〜小林幸助さん(87)を訪問〜

佐久市と隣接する平林地区。国道141号沿い、町のスーパーや飲食店などが集まるエリア近くの『八十巌橋』を渡り、JR羽黒下駅に向かう途中に平林地区を通る。粋な門構えが素敵な、小林幸助さん(87)のお宅を訪問した。

額装され、大切に保管してあった製糸工場の写真を拝見。「この工場は、『丸〇ト(マルト)製糸』といって、私の叔父の小林健太郎と黒澤たけしさんら何人かが集まって、明治27年に創業した。場所は、黒澤酒造の下のバイパス付近にある、今のサク電機さんの辺りに会社があったと聞いています。あの辺りは、当時の海瀬村と穂積村のちょうど境になるから境田さかいだと呼んでいた。穂積の境田は下海瀬の赤屋と地続きでね。」
組合を一緒に作った黒澤剛さんは、黒澤酒造3代目恒太郎さんの妹さんの婿養子として黒澤家に入った方で、その関係で『*1 丸〇ト(マルト)』の名前がついた。その後、剛さんは別の会社へ移る事となり、健太郎さんが製糸工場を受け持った。

小林家は花岡村の出身、叔父の健太郎さんは兄弟の一番上で明治8年生まれ。幸助さんの父である芳吉よしきちさんは、5人兄弟の末っ子で明治24年生まれ。長男と末っ子で16歳の差があった。創業した明治27年というと、健太郎さん19歳、芳吉さん3歳の頃である。
「当時は、渋沢栄一の影響を受けた起業家精神の強い若者がいっぱいいたんだろう。このあたりも少し名のある家なんかの若い人が集まって、色々な組合ができた時代だったんじゃないかと思うよ。」渋沢栄一の影響と聞き、時代のピントが急に合い、明治の若者の勢いを感じた。

幸助さんの記憶に残る健太郎さんは、とてもハイカラな人でいつも着物を着ていた。時々、幸助さんと姉の幼い2人を連れて、お蕎麦を食べにいったことを覚えているそうだ。

製糸工場の前で撮影された写真


写真の裏には『丸〇ト製糸工場 御大典記念ごたいてんきねん総員57名。』と書かれている。御大典記念とは、昭和天皇の即位式(昭和3年11月10日)の事なので、撮影はおそらく昭和3年頃となりそうだ。


「事務所の前にさくらんぼの木があって、いちごもあってとって食べたって話をしてました。これは、工場のたぶん南側で撮られた写真だろうと思うよ。」
ずらりと並んだ女工さん、地元と周辺の南相木、北相木、海尻、馬越、崎田、入澤などから来ていて住み込みをする人や、通いで来る人もいたそうだ。幸助さんが聞いている話では16歳位の人からいたのではないかとのこと。


幸助さんが幼い頃、家に物置台にした棚があった。その棚はおそらく女工さんが宿舎で寝る時に使っていたベッドのような物だったのではないかという。「今でいうとベッドだね。昼間は柱に立て掛けてあって、寝る時に倒してベッドにしていた物だろうと思う、詳しくはわからないけど。昔は一つの家に何人か子どもがいて、娘の場合は上から順に働きに出てた時代だろう。」


写真をじっくりとみていくと、最後列に数人の男性と最前列の中央には子どもが2人写っていた。
このお子さんはどなたですか。と尋ねると「この2人は、私の兄だね。」続けて他の男性を指差すと、「こっちは親父。ここに写っている人はみんな、ボイラーマンとか釜番とか言われていた人たち。」と説明が入る。
「これがボイラーの煙突。繭をボイラーの蒸気で茹でてほぐしていって、大体一つの繭で長くて900mくらいの糸が出たそうです。」その後もう一枚、父の芳吉さんと写真に写っている2人の兄の3人だけで撮った写真も拝見した。

工場の前、父と兄、3人の写真


幸助さんは、奥の部屋から木製の車輪のような丸い部品と、紙でできたまちの大きな白い袋を出してくれた。袋には、◯の中にひらがなの『と』と書かれていた。

今も大切に保管されている当時の道具たち

「生糸はこの紙の袋に、大体26かせ入れて運んだそうで、それを横浜に運んでいた。」当時、健太郎さんは外交専門で、芳吉さんは読み書き算数が得意なため内勤の仕事をしていたそうだ。
その後この製糸工場は、昭和4年大恐慌の波に巻き込まれ、倒産し終わりを迎えた。

叔父の健太郎さん


健太郎さんは会社の責任をとって現場を退いた。
昭和4年以降、父の芳吉さんは養蚕農家などから繭を買い取り、市場や倉庫、製糸工場へ運ぶ仕事を始めた。主に夏場は山梨の韮崎、小淵沢、長野の鬼無里きなさ(現:長野市)や栄村、群馬の下仁田などを周り、地場の繭が入る時は戻ってきていた。納品は片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)や千葉県の旧横芝方面(現:横芝光町)の市場などにも行ったそうだ。昭和5年に撮影された佐原繭糸市場の貴重な写真も何枚か残っている。

佐原繭糸市場 千葉県旧横芝

 
幸助さんは四ツ谷の家で生まれ育ったが、各地で買取の仕事をする父と *2日赤従軍看護婦だった母が戦時中留守でいない時は、叔父の健太郎さんが家を行き来したり、母方の従姉と過ごすことの多い生活をしていたと話す。

後日、家に帰って当時の資料を探していたところ『写真記録 昭和の信州/信濃毎日新聞社・平成元年』の中に、"昭和2年 製糸工女の日々" というページに工場に住み込みで働く女性の写真記事を見つけた。"8月30日 岡谷の山一林組で女工1213人と男工らの争議、19日間続く。" と書かれておりその関連の写真だろう。
丸〇ト(マルト)製糸工場もこの翌々年倒産しているが、昭和の大恐慌で、この地域に繁栄をもたらしてきた数々の製糸工場が、この頃軒並み潰れていき、いくつかの大手の工場だけが残った。
幸助さんがお持ちになっている写真にも、そんな歴史の中に生きた人々の姿が写っていた。

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*1丸〇ト(マルト)は、黒澤家の屋号に使われており、マル=太陽、ト=昇る、旭日昇天で、事業の繁栄を意図します。

*2:日本赤十字社看護婦は、平時には日赤病院などに勤務し、戦時招集状が届けば、戦地に出動した。


文:鈴木


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