100パーセントになれない私たちのために

「99パーセントの宣言」朝倉 千秋

 100パーセントという言葉は甘い魅力を持っている。絶対的に、完璧に、そういう修飾は私たちを安堵させ、ときには高揚させもする。けれども、ほんとうの100パーセントなんてものは、この世にはほとんど存在していない。いつもどこか不完全で、不安定で、ときに馬鹿げたことが秩序をかき乱してしまうような世界の中に、私たちは生きている。
 本作品の主人公「僕」もまた、そんな不安定さの中に生きている。就職活動真っただ中の「僕」は歳の離れた恋人、冴子さんとの関係の中であまりにも不安定で頼りない。しかし彼なりに真剣に冴子さんを愛してもいる。その気持ちに相応しくあろうと、強く、誠実であろうとするほどに、足元はより不安定に揺れていく。
 世界は不安定で不完全だと言った。でもその言葉は少しだけ嘘かもしれない。私たちは「人間」と「世界」を対立させて、「世界」の側に不安定さの責任を押し付けているのかもしれない。確固たる意志を持ち、最後まで何かを成し遂げる人間は稀だ。明日やろうと思ったことさえ、その日になったら揺らぎ始める。永遠の愛を誓った恋人たちも、心変わりは容易く捕らえる。そんな脆さを抱えるからこそ、私たちは「100パーセント」に惹きつけられる。
 そんな不安定な世界の中で、そんなにも不安定な存在であるのに、人はなぜ「宣言」をするのだろう。そうすることで過去の自分が、それを知る他者が、重荷となって背中にのしかかり続けるというのに。宣言なんてしなければ、ずっと自由で楽なのに。それでも誓いたくなってしまうところに、人間の愛おしさがあるのかもしれない。失敗するかもしれなくても、その先に絶望があるのだとしても、今、この瞬間に自分自身を信じたいと願ってしまう。
 けれどもそれさえ願えなければ、生きているのはあまりに辛いことではないか。確かにこの世も自分も不安定で不完全なのかもしれない。それでもそこにひとつの希望を据えてみて、そこに向って進もうとする態度を、私はやはり肯定したい。痛々しいのかもしれないし、見苦しいのかもしれない、白々しいと言う人もいるだろう。それでも何かを信じてみるという態度の中でしか、私たちは前向きに生きられない気がするのだ。
 本作を読んだ人の多くが、「僕」のことを「ダメな奴だ」と感じるのではないかと思っている。私自身も書きながらそう思ったことは否定できない。でも人間はみな、多かれ少なかれどこかダメだ。そんなダメさを抱えながら、それでも何かを宣言してみようとする「僕」の姿が、少しでも好意的に受け取られればと、書き手としては願っている。


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