見出し画像

華麗なる暗殺者(宮元早百合)

 無数に存在する並行宇宙、そのひとつにおける私は新宿のホームレスで、PSPソフト『ゴッドイーター』の初期ロット版ではMP回復アイテムが皮下注射であったこと、しかしあまりにも一瞬のうちにダウンロード・パッチによって内服へと演出が変更されたためにほとんどのプレイヤーがそれを覚えていないであろうこと、だが彼女にとってはその皮下注射の動きこそが芸術であり、表現の自由であり、それによって自分が生きることのできるもの、人生の美しさの象徴であったことを虚空に向かって喚き続けている。そうではなかったこの私、宮元早百合、はフリーターで、東大を中退し、小説家を目指していて、この文章を書いている。
 私の初投稿であるこの記事はエッセイや批評ではなく、いわゆる「過去作品掲載」だ。エッセイや批評の滅法苦手な私に編集部が下した寛大な判断に感謝する。しかし掲載作品の選定にあたり、よりにもよって三年前、私が初めて書いた小説を載せることになり、正直なところ勘弁してくれと思う節も無くはないものの、実際この短編は次の文学フリマに掲載する新しい小説へのプロローグであり、伏線でもある。あのとき書ききれずに生まれた「謎」については、ほとんどが最新作で解決されているはずだ。一方で、よくあるような処女作の焼き直しとか、初期衝動を思い出すなどといった動機はなく、小島やボゴスロフスキイといった道具が単に使いやすかっただけのようにも思う。『華麗なる暗殺者』を書いたとき、私はまだ学生で、目の前のほとんど全てを信じていた。もし、これを書いたのが三年前のあなただったなら、今のあなたはどう書き直すだろうか?

『華麗なる暗殺者』

 毛蟹の雄は元来自負心の高い生物であった。他種の蟹を見下していた。聞けば人間界では毛の無い雄を禿と呼び軽蔑している。それならば毛蟹以外の蟹は全て禿である。雄の毛蟹はみな一様に他種の蟹を見下していた。
 けれども一度陸に上げられて食物となったら毛蟹は二軍であった。言うまでも無くここでの一軍とはタラバ蟹とズワイ蟹である。毛蟹は出汁こそ旨いものの体が小さく高級品であった。高級品ならばそれは誇れる事かも知れないが現実で偉い顔をしているのはタラバ蟹とズワイ蟹であったから仕様の無い事である。
 ある時これもまた毛蟹の雄で小島という名前の者が網に掬われてその日の内に釜茹でにされ、硬い背甲殻を押し開かれて内臓は剥き出し体液は垂れ流しの状態で真っ白な大皿に鎮座し料亭の豪華なる宴席に運ばれた。小島は調理時の衝撃で片方だけになった眼を惜し気なく振り振り、さて我を喰らうは何者ぞと問うた。
「私だ」将軍がその問いに答えた。将軍は今正に或る奪国作戦の一にして世紀の大虐殺を行ったその帰路に在って、返り血も乾ききらぬ褐色の衣装に些か粗末な綿の布を小さな頭に被り、汗冷えか戦の興奮だかで始終小さく震えていた。
「いえ、私ですわ」婦人が割って入った。この婦人は戦乱によって夫の遺産と会社を受け継ぎ見事大富豪に伸し上がった大物である。姿かたちにおいては特筆すべき事の無い至極一般的な大富豪の婦人のなりであった。
「イエ、私デスワ!」オウムが婦人の真似をした。このオウムは何所よりこの料亭に入り込んだのか誰も知らなかった。まるで贅沢且つ陳腐な装飾品のように当たり前の顔をして婦人の肩に留まっていたから誰ひとり咎めなかったが、婦人の方とてオウムとは全く面識など有らず、然れどもそのオウムはやはり贅沢で陳腐な装飾品のようにすっかり婦人の肩に納まっているのだから、それはそれで好しとされたものであった。
 小島は呻った。念を押すようだが毛蟹の雄は自負心の高い生物である。こんな妙ちきりんの連中の腹にむざむざ放り込まれるのは御免であった。かといって既に朱に茹で上げられ殻も剥がれた後の現状である。無闇に駆け出し料亭の路地裏にでも出ようものなら薄汚い野良犬の餌食になろう。それならばいっそオウムのほうがマシな具合である。
 毛蟹は先程の問いに答えなかった連中の様子を伺った。将軍に連れ立つ幾人かの軍人は皆真冬の少年のような赤い頬をだぷだぷと揺らして物も言わず魚の煮付けなどを喰らっては、小島の鮮やかな死体と上官の顔とをチラチラと見比べている。将軍が彼等に「グッド」とでも一声掛けようものなら一斉に小島の上に群がってその脚を引き千切り、殻ごと飲み込むに違いなかった。
 一方で婦人の側の手下と思しき人間は一人のみ、人体温で暖まったこの宴席においても灰色の分厚いコートを脱がず、西洋甲冑を思わせる不動ぶりである。出された料理に眼を配るどころか瞼を閉じたままである。或いは彼は立ったまま眠る類の人間であるのかも知れなかった。
 而して、小島はその眠れる紳士に興味を惹かれた。蟹にとって何より誉れ高き人生とは立派な生命の腹に入ってその一部となる事である。紳士はこの宴客の中では最も力強く、喰われるに値する生命である……煮えて固まった小島の片眼にはそのように映った。斯様なれば、小島は何としても他の客を押し退けて眠れる紳士にその身を捧げねばならぬ。その為には先ず如何にして眠れる紳士の眼を覚ますかを考えねばならなかった。
 初め小島は紳士に直接問い掛けるのを考えた。然しこの案は存外失敗しそうなものだと考えた。紳士が見た目どおり婦人の手下であるならば、主である婦人を置いて紳士が先に小島の身を口にするなど考えられぬ。従って素直に我を喰えと命じても拒否されるのは明白であった。またそれに依って即ち、婦人によって命じられたならば、紳士が先に喰う場合もあろうと結論付けられた。
 小島は婦人に尋ねた。即ち、本日はこの華麗なる宴席、勇豪なる戦士達の大いなる勝利を祝う席にて、皆様にこの身を捧げる光栄、感謝に至るや限りなし。然れど我、愚かな小さき毛蟹のささやかなる最期の願いを一つ聞いて頂けまいか。
「まあ、私に出来る事で有れば。どうぞ仰って」婦人は芝居掛かりに化粧塗れの眼を丸くして応えた。
 小島はチラと将軍の席を見た。将軍は鍋料理に夢中である。それで勢い付いて胴体を少しばかり起こした。腹甲にこびり付いた蟹の粘液がぱりりと音を立てる。小島は頼んだ。どうか私めの最初の一口を、そこの眠れる紳士に譲って頂けないか。
 途端に宴席の空気が変わった。将軍が俄に青ざめたかと思うと腰の刀を引き抜き小島の頭上に突き出した。「貴様、何を言うか!」と将軍が甲高い声で叫び、オウムが慌しく羽ばたき、刀の先端が小島の蟹ミソの中に一瞬プスリと刺さった。
「まあ、お止め下さいませ」婦人が芝居掛かりに口を抑えて叫んだ。「私デスワ!」とオウムも叫んだ。毛蟹は突然の大声に混乱して先程から目を回していた。その間にも婦人は芝居めいた台詞を繰り返しており、将軍は暫くして名残惜し気に刀を納めた。
 ところで、小島が前述の言葉を吐いた際、紳士は片方の瞼を少しばかり動かした。少なくとも紳士の形をした蝋人形ではない事が分かったので小島は一つ安心した。そして将軍が金切り声を上げ、小島が目を回し、そして目が覚めようとしたころに、彼は自分の脚が千切られるみちみちといった音を聞いたのであった。
 毛蟹は驚いて跳び上がった。しかし、もう茹でられて数分が経とうとしており、脚の筋肉が上手く動かぬ。数センチメートルも浮く事無く、皿と打つかって耳障りな音が鳴った。軍人たちが振り返ったが、不快気に毛蟹を見下ろしただけで何も言わず首を戻した。
 蟹は甲殻類である。その性質上、脚が?げ落ちても新しく生える。小島も二、三度然様な経験があった。然れど陸上で脚が切れた記憶は無い。青春時代の小島は時々その瞬間を妄想した。海中で脚を自ら切り離した場合には、滑らかな塩水が脚の付け根を撫で回す。しかし陸上にあるのは空気と、空気が巻き起こす風である。陸上では冷たい風が容赦なく俺の傷口に突き刺さるだろう……小島はそんな風に想った。
 小島は片眼を殻の中に竦めて痛みを待った。しかしいくら待ってもそれは訪れないのである。小島は一本ずつ脚を動かしてみた。皿の端を突いてその反響音を探った。するとどうやら未だどの脚も千切られていないのであった。小島は今一度軍人たちを見た。すると確かに誰もが、よく見慣れた、真紅にして細長い蟹の脚を手に持っているのである。見れば婦人もそれを持っている。小島は目を凝らした。小島の脚は短く、朱色である。彼らが手にするのは紛れも無く、憎き敵なるズワイ蟹の脚ではあるまいか。
 小島は蟹の言語で叫んだ。ズワイ蟹め、そこにいるのか。まもなく返事があった。如何にも俺がズワイのボゴスロフスキイである。鍋料理の向こう側からその声は聞こえた。何だとロシアの蟹か、いけすかん、と小島は苛立ちを隠さず叫ぶ。ボゴスロフスキイは答えなかったか、若しくは鍋料理の煮え立つ泡の音でその声は掻き消されていた。
 小島は気にせず叫び続けた。何をすかしてやがる、この禿め、お前は自分の仲間がよく食われるから得意になっているか知らんが、今日この場においては俺とお前とは何の変わりも無い、同じ一匹の蟹よ、俺たちは共に同じ生命の一部になるのだ、そも我等毛蟹は高級蟹、片や貴様等は一般家庭用品の下級蟹だ、俺と同じ席に立てたのを光栄に思うべきだ。
 小島がここで息を切らしてぶくぶくと泡を吹いている間に、ズワイ蟹のボゴスロフスキイは一言も話さなかった。小島がようやく泡を治めて次の言葉を吐こうとした瞬間に喋りだした。お前さん、人に喰われるのが幸福かい。俺はそうじゃない。死ぬまで蟹のままで居たかった。俺は不幸だ。お前が羨ましい……
 小島は激怒した。貴様は蟹の分際で、人間になった積りか。種の運命を弁えぬのは生命として最大の恥である。小島は怒りの余り全身の毛が逆立った。蟹のまま死にたいと言うならば、今すぐ俺が其処に行ってお前の全身をばらばらに切り刻んでやる。
 ボゴスロフスキイは嘲り笑う。切り刻むが良い。俺の手足は全部?がれて了った。小島はますます怒り狂った。よし見ていろ。元の形が判らなくなるまでお前の腹を裂き、甲殻を叩き割ってやる。小島は動かぬ脚を懸命に動かして皿から出ようとした。
 その時軍人のひとりがズワイ蟹を掴んで片手に掲げた。
「こいつをこの鍋に入れてみろ、きっと旨い出汁が出るぜ」
 毛蟹は鍋越しにズワイ蟹の身体を見た。ボゴスロフスキイの手足は確かに?がれていた。ズワイ蟹は静かに軍人を見下ろした。他の軍人共が囃し立てた。将軍は青白い頬に気味の悪い血色を浮かべながら黙ってその様子を見ていた。婦人は何も見ない振りをしていた。眠れる紳士は不動であった。
 やめるのだ! 小島は叫んだ。しかし蟹の言葉であった。それに気付いて人間の言葉で再び言おうとした。そこで小島はオウムと目が合った。オウムは首を傾げた。小島は自分が鳥の言語を話せるか自信が無かった。しかし一か八かで試してみた。『お前!俺の身を食いたいか!』
『お前の眼を喰いたい』オウムは応えた。『或いは、お前の口や触覚を喰いたい』
『喰わせてやるとも!』小島は興奮して叫んだ。『だからあそこの脚なしの蟹を今直ぐ奪い取れ!』
 オウムは直ちに反応した。「旨イ出汁ガ出ルゼ!」と叫びながら婦人の肩から勇ましく撃ち出て、軍人の手からズワイ蟹の胴体を奪い取って飛び去った。
「おお、この野郎!」軍人はいきり立った。将軍がそれを収めようとした。しかし小島にとって意外なのは婦人の動きであった。オウムを思わず捕まえようとしたあまりに、膝を乗り出して座敷の机に強く当たったのである。多くの皿が衝撃で机から滑り落ち、鍋は横に揺れて勢い良く将軍の顔に煮え湯を浴びせた。将軍が目を覆って倒れ込み、机が引っくり返らんばかりに揺れた。
 小島は皿から滑り落ちた。机の端は目の前にあった。小島は脚を引き摺って机から飛び降りた。机は低く、床は直ぐそこに有った。しかし床に落ちる寸前に将軍が小島を蹴飛ばした。小島の残っていた眼が衝撃で外れ、蟹ミソが飛び散った。小島は逆さまのまま机の下で小さくなった。
 眼を失った小島は耳を凝らして宴席の様子を伺った。
「まあ、申し訳ありません、中尉様」婦人が喉に引っかかったような声で何度も言っていた。軍人達の慌しい足音が聞こえた。将軍の声は聞こえなかった。小島は丸くなって音を探り続けた。
 やがて足音が聞こえなくなった。
「失敗だわ。……まあ、機会はまだまだあるでしょう。高崎」婦人が言った。語り口から、どうやら眠れる紳士に言ったようであった。紳士が応答した様子は無かった。婦人はそのまま一人で食事を再開した。誰とも口を利かなかった。
 静寂の中で次第に小島は後悔し始めた。他の客に喰われまいとして思わず取った行動が、最早誰にも喰われず廃棄されるという運命を導いて了ったのでは無いか。蟹ミソを失った小島の殻の空洞を、当て所の無い不安が巡り出した。小島は救いの一声を求めて暗闇の中ただじっと待った。
 遂に婦人が言った。「片付けておきなさい」そして婦人の立ち去る小股の足音が遠のいた。小島は喜びの余り踊り出さんとした。しかし最後の辛抱だと思って動かずに居た。
 皿の重ねられる音がした。小島は耐え切れずに声を上げた。其処に居る男、婦人の手下の男、聞こえているか、我は毛蟹の小島なり、どうか我が身を喰らえ、これは一生の頼みである。
 机上の音が止んだ。小島は期待に脚を幾度も動かし、跳ね、逆さまの身体が元の向きに戻った。紳士の手が伸びる気配がした。天晴、小島は望みを果たしたのだ! 小島は其の手を請うた。祈りを捧げるように両の腕を広げ、爪を開いた。
 力の弱い小さな掌が小島の身体を包んだ。毛蟹は戸惑い、頭上に尋ねた。貴方は先程の眠れる紳士ではないのか。頭上に声がした。
「如何にも、私で御座います」それは老いた声であった。小島が物を考える前に、次々と脚が引き抜かれた。料理人が引き抜きやすいように切れ目を入れていたのである。小島はあっという間に哀れなズワイ蟹のボゴスロフスキイと同じ姿になった。小島は混乱して叫んだ。お前じゃない、高崎だ!婦人の手下の、高崎を呼べ!
「如何にも、私が高崎で御座います」紳士は老いた声で言った。
 待ってくれ、と小島は言おうとした。しかし紳士の口が小島の胴体に齧り付いた。小島はくすぐったくて無い脚を振り回した。手足の感覚は既に失われている。小島の意識は瞬く間に紳士の喉を通り、胃袋に落ちて、速やかに溶解した。(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?