「縁結び」〜高木さん=神から考える「縁」について〜

 私にとってはもはや常のことなのだが、ブームの少しあとに、私は『からかい上手の高木さん』を本格的に読み始めた。そのきっかけのひとつは、最寄り駅に登場した絵馬かけ、そして駅員服で敬礼をする高木さんパネルだった。
 高木神社とのコラボを、そのとき知った。これもうちからわりとすぐ近くの場所にある小さな神社なのだが、それまで一度も参拝したことのない神社だった。なにせ、このあたりは神社や寺が至るところにあるのだ。
 この高木神社は縁結びに御利益があるらしい。思えば恋愛至上主義文化からずいぶん遠くに来てしまった私にはあまり関係のないところにも思える。しかし最近、そもそも恋愛なんて、数ある「縁」のなかのひとつでしかないではないか、家族、友人、先生、隣人、よく行く書店の店員さんといった人のほか、鉛筆、パソコン、家、ベッド、腕時計、本などの物、そして仕事やひらめきといった物理的な形をもたないモノまで、生きとし生けるもの、「縁」とまったく無縁に生きていくことなどできようはずがないではないか、と気づいた。
 そこで、自分の生まれ育った町で『からかい上手の高木さん』とコラボがある、これもまたなにかの縁だと思い、一度は手放してしまった分も合わせて単行本を買い、並行して高木神社のことなどを調べた。その過程で、『からかい上手の高木さん』と高木神社の間にある、ただ「高木」という名前以上の繫がりが見出されていったのだった。

 そしてこの時期、私は生活が大きく変化する局面を迎えていた。人はそのままではいられない。分かってはいながら、どこか足が竦む、そんな覚束ない足取りで過ごす日々を送っていた。
 そのとき、改めて自分の「縁」というものを考えてみよう、と思った。もちろん、そこに『からかい上手の高木さん』と高木神社を巡る随想が大きく関わっていることは間違いない。
 地縁、そして時の縁。まさかこんなところで「地縁」なんてことを、東京生まれ東京育ちの自分に引きつけて考える日が来るとは、夢想だにしなかった。しかしながら、遠出がしづらいこの情勢で自分が暮らす土地について考えてみることによって、広がる「オンライン」を、ただ拒否するのではなく、その流れのなかでしっかりと立つための地盤を作ることができるのではないか。作中の時間ではまだ新型コロナウイルスの報道がほとんどなかったから、これはまったくもって後付けに過ぎないのだけれど、しかし、まるっきり見当外れでもないと思う。余談であるが、私は自分の住む「町」について、いつかしっかりと書く必要があるのではないか、と思うようになった。

 オンライン化が進んで、以前よりずっと過ごしやすくなった人もいるだろう。それは理解しながらも、しかし人付き合いがそれほど得意ではないと思っている私は、ときに、いまは対面の方が楽だな、対面だったらもっとうまく伝えられるのに、と思うことがある。失ってみてはじめて、対面のコミュニケーションの持つ意味を強く実感している。
 さて、高木さんの「からかい」とは、西片との「縁」を離さないための直接的なコミュニケーションだと考えられる。すると、この情勢下で高木さんだったら、いったいどんな「からかい」を以て西片との「縁」を繫ぎとめようとするのか。それは、これから考えていこう。

(矢馬潤)

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