ブラックホール

 わたしたちは子供のころからずっと同じ価値観を共有してきたはずだった。かっこいい男の子を見つけて、その子のことを丹精込めて育てて、それなりの社会的地位と金銭的な余裕を与えたうえで自分のものとする。それぞれの美的価値観の違いがかっこいい男の子に微妙な差分を与え、最終的にはこうした過去の誓いというものそのものから解き放たれて、お互いのことを忘れて未来に生きる。それが幸せへの一本道だと信じ込んでいた。境川さかいがわ七恵ななえとわたしの間にある、脚を引っかければすぐに切れてしまうようなたった一本の細い糸。いつまでも足にくっついたまま離れずにいる、絡新婦ジョロウグモの放った糸のひとすじ。
 この幸福が破綻する条件はいくつかある。まずひとつ、価値観の近接があまりにも過ぎた場合。それにより同じ男の子に目をつけてしまった場合だ。このとき、わたしたちは喧嘩をすることになる。ひとりの男の子を取り合ってぶつかり合う少女がふたり。実にありきたりなエンターテイメントだ。それを消費する他人がいないという以外、完璧な娯楽だといえるだろう。だがこの線は考慮から外していい。なぜなら、取り合いになるような男の子に目をつけるようなありさまでは、そもそもわたしたち以外の第三者による介入がありえる。それではだめだ。わたしたちは早期にターゲットを見極めて絆という先行者利益によってその子の人生そのものを独占していなければならない。だから、共通の相手を好きになるようなへまをしているようでは、計画そのものが破綻するということだ。そもそもわたしたちは外見からして違っているのだから、遺伝的に考えても好きになる相手には差が生まれるはずだ。動画配信サイトや真偽不明のナントカペディア、その他ゴミの掃きだめみたいなSNSを見ていれば嫌でもわかるさ。わたしたちはランドセルを背負っているころからこんな話し方だったし、社会的勝利者になるためには幸せな結婚が必要だと考えていた。金を運んでくる優良な男に乗れ。そしてそれに乗るために必要な自分磨きとかそういう類のことをやればいい。
 わたしたちは、とずっとそうくりかえしてきた。
 幸い、わたしと七恵は早期に別々の男の子に的を絞ることができた。わたしはガッチリ体育会系の男の子が好きだった。身体は資本になる。いい大学に通っていい会社に通い、あるいはもう自分で会社作っちゃって稼ぎまくる男の子というものは、まず最初に身体が強くなければいけないとわたしは考えた。格闘技の強いひとは自前の会社を持っていることも知っていた。この考えに誤りはないと何度も検討を重ね、わたしは学習帳に彼のキャリアプランを書き込んだ。わたしはさりげなく彼にアプローチする。彼女が好きなタイプはちょっと野暮ったい感じの三つ編みだということも知っていた。彼のスマホの待ち受けに映っているお母さんへの視線がかなり偏執的だったので、まあそういうことだろうと思った。だいたい、男の子ってのは自分のお母さんが世界で一番好きなもんだ。そうでしょう?
 七恵は違った。子供の頃から眼鏡をかけているような、ちょっと身体能力的にどうなんだというタイプを好んだ。だが彼は確かに他の子とは少し違った。おそらくだが、一般的な人間とはすこし違った特性を持っている。一般的という言い方は、いまの時代だとよくないかもしれないな。平均的とか言った方がまだしもましかもしれない。それと違う集中力を持っていた。彼は虫の話が好きだった。カブトムシに詳しい男の子は世間にいくらでもいるが、ハエについて詳しい男の子というのはなかなか少ない。クワガタについて熱く語る男なんてこの世にいくらでもいるものだが、オサムシについて熱弁をふるえる小学生というのもなかなかめずらしい。虫どころか、小学校にある図鑑という図鑑のすべてをそのメガネくんは知悉していた。七恵は彼についていくために伊達メガネ娘になった。メガネくんは無邪気に七恵のことを仲間と思い込んで、いつもふたりで仲良くハエやジェット戦闘機や屠畜される牛についての話題で盛り上がっていた。七恵が相当のやり手だということはこれで伝わったことだろう。
 かくいうわたしは、単なる野暮ったい三つ編み女子で終わることをよしとしなかった。自分磨きのために母の買う女性誌を読み込むのは当然のことだが、キラキラ系SNSで最前線の情報を収集しつつ、お姉ちゃんたちから仕入れた最新の男骨抜きテクニックで彼に媚びることをやめなかった。それと、余計な羽虫が彼にくっついてくることが嫌だったので空手を学んだ。空手を軸にいろんな格闘技をかじった。実際に同世代の女子を泣かせたこともある。彼に知られないようにだけど。わたしが陰で腹パンの綾瀬と呼ばれていることをマザコンの彼は知っていただろうか。まあ、知っていたとて、計画の進行に支障はない。要は、彼に近づく女という女を排除し、彼の選択肢を狭め続けるだけでよい。
 中学生になっても、わたしと七恵の計画に狂いはなかった。むしろ順調すぎて怖いくらいだった。
「ねえ、七恵。あの子についていくのって、キツくないの?」
 中学に入ってから、勉強のし過ぎか遺伝の問題か知らないが、七恵は真のメガネ女子になっていた。彼女が眼鏡をついとあげるその仕草。ネイルどころか普段のスキンケアすら怠っているような人差し指が、メガネのふちに触れるその瞬間に、いやな動悸を感じた。
「幸せになるためには多少の犠牲が必要だと思うよ。毎日お肉を食べる為には、毎日牛さんを殺さないといけないでしょう? それと同じことよ。誰かと添い遂げるためには、誰かとのつながりを断ち切らないといけないことだってあるでしょう。ね、みいちゃん?」
「ふっ。まあ、そうでしょうね。確かにそうだと思う。スポーツ系男子ってのはどうしてああもモテるんだか」
「そんなこと言って、なんだかんだ毎日楽しそうじゃん。こっちもそこそこ苦労してるつもりだけどさ。こういう苦労の中にだけある充実感みたいなのあるなって思う。これって青春って呼べばいいのかな」
「アオハルとか一過性でダサいしね」
「暴力は普遍?」
「愛よりも説得力がある」
「そうかもね」
 たった一枚の硝子板を経て、遠くにある景色を見つめている七恵。わたしには風の色というものが見えない。春の色のこともわからない。なぜ青春が青なのかということをわたしは説明できなかった。そういうことを知らなかった。男の骨を抜く方法はわかっていても、女と喧嘩する際にまずは自分の三つ編みを後ろにまとめて掴まれないように準備することは怠らなくても、七恵の目に映っているものがなにかということを私はまるで感じ取ることができないでいた。
 わたしたちが男の子との関係を彼氏彼女で語れるようになるころには、わたしたちの計画はだいぶ進んでいて、世の中の倫理基準というやつに唾を吐くように、男との間に肉体的な関係を結んだ。まあ、こういう関係を持つ少年少女は割合、少なくないものだ。女子たちの間に、そうした行為を嗜好する者もいる。まったく逆にこれらを嫌悪して潔癖であることを求めるものもいた。それは高校生になったあとの、ある十二月の二十四日。それは奇しくも日曜日だった。日をまたいで二十五日になるころには、わたしたちは俗な言葉で語るところのオトナになっていて、男の子をベッドに寝かしつけるところまで徹底していた。
 先に電話をかけてきたのは七恵だ。
「ねえ、聞こえる?」
 聞こえている。はっきりと。
「うん。なに」
「隣に男の子、いるでしょ」
「いるとも言えるし、いないとも言える。それは定義の問題だと思うよ」
 隣にいるというのが、自分以外の他人が自分の声が届く範囲に存在するという意味であれば、どちらかと言えばいない方が正しい。
「難しい言葉を使うようになったんだ」
「内心ではいつもこんな感じよ。でもま、口に出すようになる心境にはなった」
「ねえ、いま幸せ?」
 七恵の声は震えて聞こえた。電波の悪さ、通信品質の低さ、様々な表現がわたしの中を走り抜けていった。でもそのどれも該当しそうになかった。わたしは家のベランダに出る。外はとても静かで寒く、冴え冴えとした空には星さえ見えていた。このあたりって田舎だよな、とわたしは思った。それくらいしか自分の心を誤魔化す方法を知らなかった。
「さあ。でも、これから幸せになる予定はある」
「そうだよね。私たちって、これから幸せになる。そのためにずっと子供のころからがんばってきたんだよね」
「ねえ、七恵」
 わたしは自分の頬がひどく冷たいことに苛立っていた。風が吹きつけてくるとほっぺたが気化熱で冷えるんだ。
「いま、メガネかけてないでしょ」
「どうしてわかる?」
「わかるさ。わたしたちってそれくらい仲がよかったじゃん。これってシンクロニシティだと思うんだよ」
「じゃあ、次に振る話題を当ててあげようか」
「どうぞ」
「それはひどく下世話ですか」
「質問から物体を当てるアレかよ」
「やっぱりそうだった。じゃあやっぱり、みいちゃんはこの話をする。性の六時間の話」
 くだらない都市伝説だ。だけど、わたしは統計に興味がなかった。だからその説が真なのか偽なのかを証明するすべがない。そしてひとつ明らかだったのは、そのタイミングに男子を押し倒すとほぼ百パーセントの確率で目論見は成功するということだ。それはわたしが男の子というものと付き合ってきた中で唯一、後続の女の子たちに伝えられるであろう真理だ。
「だから別にシンクロニシティとかじゃないよ。偶然……」
 ぐうぜんだよ、と七恵は言った。
 それから数分、わたしたちはお互いの吐息がノイズとなって通じ合う時間を過ごした。指先は凍りつき、部屋に戻って蛇口をひねって出てきた冷水さえもあたたかいと感じるほどだった。
 どうしてだろう。
 わたしたちは純潔を失ってから、会うたびにひどくお互いのことを意識するようになったと思う。彼氏の女の扱い方に関する差異を検討しながら、七恵の彼氏が最近は酪農に関する知見を深めていること、だからきっと進路はそちらにつながる方向になるだろうという話を聞いた。わたしも自分の彼氏が総合格闘技というやつに興味を持っていることを話した。それはそれとして、東京にある学費が安くて高いステータスが得られる場所に入れるくらいまで勉強を追い込ませるということも話した。わたしの正拳突きは素人に打っちゃだめだとたしなめられたことも。七恵の手が肉と骨で構成された凶器に触れる。
 まただ。
 なんでこんなにいやなドキドキを味わわなければいけないのだろう。
 七恵のレンズの向こうにある瞳の奥には、わたしの心を吸い寄せるひとつの天体があった。それはあらゆる光を吸い込んでしまうがために、長年に渡ってその存在を観測するすべがなかった。あるのだ、と断言できるようになったのは割合最近のことだ。確か、ニュースになったと思う。ずっと昔からあると言われていたものだったのにね。誰もその実在を疑ったものではなかったというのにね。それはまるでわたしが信じていないひとつの感情と同じように、世間様があると信じて疑わないひとつの心の有様としてそこにあった。七恵の瞳がそれだった。この世のすべての光を吸い込み、純粋さのすべてを棄てたあの夜にわたしの頬に流れ星を生み出した星。それがずっとわたしのことを見つめている。
「ねえ、みいちゃん」
 うん。わたしは答えられない。
「そろそろ、お別れかもしれないね」

 それはある十二月の二十四日、日曜日。
 だいぶ時間がかかったけれど、わたしたちは結婚することになっている。
 パートナーは理想的に育ったよ。
 生活に困ることなんてないよ。
 他人はわたしたちのことを幸せだと言ってくれる。
 嫉妬の視線を向けられることに快感さえ覚えるよ。

 でも、どうしてこんなに寂しいと思うんだろう。

「みいちゃん」
「七恵」

 わたしたちは完璧な日曜日のなかで、ずっと昔から好きなように扱って来た男を手に入れた。そして永遠にうしなう。
 七恵はわたしのお友だちになった。単なるお友だち。
 ずっと昔から愛していた、たったひとりの、

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