面白く、「思えない」ことオモシロク

※こちらの記事は、自分の考えを整理するため、過去の体験経験、家族との葛藤などを好き勝手にあーだこーだと述べ散らかしている正真正銘の自己満足な自分語りでございます。また「死」について自分の考えるところを率直に記載しております。どうぞご容赦ください。

 ほんの少し、シロウト演劇をかじったことがあります。
 何回か舞台に立ちました。4作品?くらいかな。
 ある作品では、「少年」の役をしました。「僕は…!」と宝塚の男役になったようなツモリで臨みましたよ。また、ある時は戦隊モノのピンク役をしました。ぶっちゃけ劇団の人間関係で遠のいてしまいましたが(わたし、コレばっかり)、演技することは楽しかったし、今でもやりたいなあと思っています。

 「少年」の役は、とてもハマりました。物語に。そして物語上の「役割」としての少年の立ち位置に。感情移入し、深く楽しく演技できました。台本に出てくるキャラクターは個性的で、「少年」以外の役も読みこみました。今でも、時々ボロボロの台本を出して、読んでみることがあります。
 一方、戦隊ものは、脚本の方が「ピンクにとても思いを込めて書いている」と言われ、わたしにその思い、セリフを託してくれました。
 わたしは「嬉しいです」と言いました。「がんばります」とも。
  しかし、まったく台本に書かれたピンクのセリフに、感情移入できませんでした。ピンクの立場や思いに、共感できませんでした。お客さんの感想で、「舞台は面白かったけど、役者さんの技量に差がありますね」というのを見かけて、(ああ、自分のことか……)と思った次第です。

 わたしと言う人間は、自分のスキキライ、ハマるときとハマラないときが、はっきりしているようです。
  しかしそのことを言葉ではっきりと言い表すことができない。
 ちょっと、過去の家族関係から自分語りを致します。

 幼稚園のとき、「祖父母参観」なるものがありました。その予行演習として、実際の参観前に「おじいちゃん、おばあちゃんのどんなところが好きか、考えて発表してみましょう」というのがありました。
 わたしは、「おばあちゃんが、お葬式の時にスカートをはいているのが好きです」と言いました。先生は、大笑いしていました。
 おばあちゃんは女の人なのに、普段着はいつもズボンで、あまりおしゃれな格好はされない方でした。しかし、お葬式に参列の際には、礼服で黒いスカートをお召しになっていました。
 3歳のわたしとしては、「おばあちゃんがスカートをはいて女性らしいおしゃれをしている格好が好き」と言いたかったのです。
 その話を家に帰って母と祖母にすると、母は烈火のごとく怒り出しました。「葬式の話を持ち出すなんて、不謹慎だ、常識がない」
 延々とネチネチネチネチ怒られ続け、結局、本番の祖父母参観では「おばあちゃんは、ピアノを習わせてくれるところが好きです」みたいな話に落ち着きました。

 もうひとつ、吐き出させてください。
 実家は、祖父の代から小さな個人商店を営んでいました。祖父母と父と母の家族経営で、わたしは車に積まれて祖母や母と一緒に、商品の配達に行っていました。子供心に、(ウチは、のび太くんやサザエさんの家とは違う)と思っていました。サラリーマン家庭が主流の頃でしたからね。
 幼稚園に入ったころです。ある日、母に聞かれました。
「うちは、サラリーマンじゃないけど、どう思う? 聞いておこうと思って」
 子供なりに、「ふつう」ではないこと、だけど、毎日平日も土日もなく一生懸命に仕事をしている大人の姿を見ておりましたので、その感謝を伝えたかったのです。そこで、
「うちはフツウじゃないけど……」と言いかけました。
 すると母は、「そうか、やっぱり、そうか」と言い、それ以上聞いてもらえませんでした。
 ずいぶん後になるまで、「お前はサラリーマン家庭じゃなくてイヤだったんだろう」と言われ続けました。そのたびに「違う」と言うのですが、母の中では「イヤだったんだろう」ということになっており、わたしの言い分を聞いてもらえることはありませんでした。

 ささいなことのようで、自分の中では、大きなトラウマであります。
 「おばあちゃんのスカート姿」を、素直に口にして、コテンパンに叩きのめされる。また、自分の「言いたいこと」の一部だけが相手の中で過剰に拡大解釈され、「お前はこう思っている」と言われ続ける。

 わたしは、よく変わっている、と言われます。着眼点が、ちょっとフツウではないようです。
 わたしの方からすると、ヒトが言っていることは、表面的で奥行きがなくて、タイクツなんですけどね。学校でちょっとお勉強ができたときに「あなたはデキナイ人をバカにしているんだろう」と教師からも生徒からも袋叩きにあったことがあります。しかし最終学歴は地方の国立大学を卒業した程度です。お勉強ができるレベルなんてとてもとても。学力とは関係のない、ただの個性なのだと思います。
 自分の「言いたいこと」は、社会的にズレている、とは分かります。
 これも過去の自分語りで恐縮ですが、学生時代、中学生の妹の同級生のおかあさんがお亡くなりになりました。

【ここから「死」に対する認識について記載しています。わたしが感じたこと、体験を率直に書きました。重ねてお願いします。どうぞお気をつけください 】

 亡くなった妹の同級生のお母さん、おそらく40代頃でしょうか。
 妹は、友人の気落ちした姿を見て、我が事のように悲しみ、母にその思いをつとつとと語っていました。
 わたしは、その時に肉体を身まかった魂が、天に召されながら我が子を心配して見守っているような場面が、ふと浮かんできたのです。
 わたしはそれまで、肉親の死に立ち会ったことなく、テレビで人が亡くなること以上の実感が、持てませんでした。
 よりによってその時、「幽体離脱」と口走ってしまいました。
 途端に母と妹が血走った眼でこちらをにらみつけ、「お前はまた……」といわれました。もう、そこからはフクロダタキでした。
 
 わたし自身が、「人が亡くなってこんなにも悲しい」ことを目の当たりにしたのは、高校三年生のときに、難病を患っていた一学年下の方が、在学中に亡くなったときです。その方は病気療養をしながら、帽子を被って通学されていました。遠目に「ああ、あの子か」と分かりました。
 わたしの高校は4階建てで、1年生が4階、2年生が3階、3年生が2階を使用するのが通例でしたが、その方が通いやすいように、特別に2年生が2階を、3年生が3階をその年は使用することとなりました。
 わたしの彼女に対する認識は、「病気大変だね。こっちはあなたの病気のおかげで2階に降りれなかったわ」でした。他人事でした、完全に。その子が卒業できると思っていたからです。学校に顔を出しながら、周囲の協力を得ながら、彼女は卒業するものだと思っていたからです。
 彼女が亡くなったと聞いて、そんなに悪かったのか、と思いました。
 キリスト教系の学校で、生徒も参加できる形で特別に告別式が行なわれました。自由参加でした。授業が終わった放課後に、受験勉強の手を止めて参加しました。
 故人に向けた手紙を、同級生の方が読み上げました。
「○○ちゃん………」もう、涙で声が詰まって言葉にならないのでした。
 人が亡くなる、とは。遺されたものの悲しさとは、こういうことか、と目の当たりにした瞬間でした。

 何が言いたいかというと、わたしはそれまで、「人の死」というものが、完全に他人事だったのです。自分と縁のない遠い世界の出来事だったのです。
 人間は「自分がいつか死ぬ」ことを、他人の死を見て知りえます。
 赤ちゃんが成長し、成熟し、老いて、死ぬ。
 「死ぬ」ということは知っていても、「死ぬことに寄り添う」ものの感情は知らなかったのです。
 おかあさんを亡くした同級生を見た妹は、「○○ちゃん」と声を詰まらせ弔辞を読んだ故人の友人を見たわたしと、「近い衝撃」を感じたのだろう。そう分かったのは、何年も後のことです。
 家族のなかで、「おねえちゃん」は「人の気持ちの分からない子」「変なことを言う子」「オカシイ子」でした。

 わたしは、自分の「思うこと」が素直に表現できません。
 「おばあちゃんのお葬式のスカート姿、女の人らしくて好き」をコテンパンに否定されたときから、自分の感じた素直な表現を封印して、一生懸命「社会的に許容される表現」を模索してきました。
 でも、とても苦しいんです。本当は「どーでもいい」とか「キライ」とか思っていることを、「興味あります!」「好きです」という。または、沈黙する。
 とても、苦しい。苦しかった理由が、やっと分かりました。

 「死とは何か」(池田晶子著)という本の中に、「本当の自分とは本当の言葉を語る自分でしかない」という言葉があります。
 わたしは、本当の言葉を語ってこなかったのです。本当の言葉とは、たとえば「他人の死について、(その時点の)わたしにとっては他人事である(どーでもいい)」とか「別に○○の話に興味ないし」みたいな、ヒトと場所と時を慎重に見極めなければならないような本音です。
 本音それ自体を、否定してきたんです。「他人の死をどーでもいいと思ってはいけない」とか「○○を好きな人もいるのだから、その気持ちに寄り添わなければ」とか。
 同じ地球のどこかで餓死している子供のことを、おそらくわたしたちは普段「気にも留めていない」と思います。その意味では、他人の死は「どーでもいい」ともいえるのです。それが、「家族の」とか「お世話になったあの人が」となると、その死の「重要性」がその人の中で、途端に変わってくる。

 和歌の神様と言われた平安時代の貴族、在原業平の歌に「からころも きつつなれにし つましあれは はるはるきぬる たひをしそおもふ」というものがあります。「長年着慣れた唐衣のように、長年連れ添った愛しい伴侶よ」、といったような意味です。
 自分の体に長年連れ添ったわが身になじんだ衣が、すぅっと天に召されていく。死を悼む尺度とは、遺される者の、「着慣れた衣」への愛情と執着の強さなのでしょう。
 自分も、同居した父方の祖母と、別居の母方の祖母、二人の祖母が他界していますが、同居のおばあちゃんとのお別れは、涙がどんどんあふれてきました。正直、機能不全家族をひっかきまわした戦犯の一人であり、スキキライで言うと「微妙」です。スキではない、かといって、キライとも違う。あの実家での日々をともに過ごした「着慣れてなじんだ衣」への愛着ですね。それがどれほどわが身と一体していたのか、お別れしてみて初めて分かるのかも知れません。

 話が大変に逸れてしまいました。
 まあ、そんなこんなで、わたしという人間がロクデモないことと、ロクデモないなりに、社会に適応しようとして、本心本音を隠してきた、というお話です。まあ、隠そうとしても出てしまうものですが。

 冒頭の演劇の話で、わたしは「少年」の話や役どころは好きで、大変ハマりました。しかし、戦隊もののピンクはハマりませんでした。
 その時に「わたしはピンクがハマらない!」というところから、始めるべきだったなあ、と思うのです。
 頼まれごとをされると、ついつい(本当は興味ないのに)「すごく興味あります!ガンバリます」と言ってみたり、「わあ、やりがいがある作品ですね。練習しよう」と言ってみたり。だけど本音は「興味ないし、どーでもいい」「やりがい? メンドクサイ、イヤだ、キライ」とかだったりするわけです。
 その「どーでもいい」とか「キライ」を、今までは「誰かに分かってほしかった」のだと思います。
 しかし母をはじめ誰にも、わたしの「どーでもいい」「キライ」を分かってもらえませんでした。少なくとも、「分かってもらえた!」という感覚になったことがありません。
 親身に話を聞いてくれる方からは、「それは常識がない」とか「引き受けた以上は全力を尽くさないと」とか「キライなりにいいところを探して」とか、いろいろなアドバイスをいただきました。それはもちろん、わたしのことを真剣に考えて言ってくださっているものだと、理解しています。
 なのにもかかわらず、「分かってもらえた!」とは思えないのです。
 当然です、人様がどうこう言う前に、自分が自分で「どーでもいいなんて思ってはいけない」と自分の本音を全否定しているわけですから。
 まずは自分が自分で「どーでもいい」と思っていることをしっかりと受け止める。そう、わたしはどーでもいいものはどーでもいいし、キライなものはキライだし、ムリなものはムリ。その出発点を取り違えていたので、苦しかったのだなあ、と思いいたったのでございます。

 ああ、長文になっていましました。
 わたしと言う人間は、本当に変わっていて、社会性がなく、ヒトの感情のワカラナイ存在です。まずは自分でそれを認めること。ここから取り組んでいこうと思います。

 記事内では、あえて自分の思いを率直に記載しております。それによって不愉快な思いをされた方もおられるかも知れません。「わたしが率直に書くことを、不愉快に感じる方がいるかも知れないから」書かない、これが今までのわたしのやり方でした。
 それを変えていきたい。しかし、今まで取り組んだことがないことにて、加減が効かない部分があるかと思います。本当に人としてアウトなことは記載していないつもりです。筆も人間も幼く未熟な部分が大いにあります。一生懸命に隠してきました。しかし、それを表に出す必要があると感じております。どうぞ平にご容赦ください。よろしくお願い申し上げます。
 

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