現実世界の美しい線引きの仕方

※こちらの記事は、自分が思ったことを整理するために、日記代わりに思うまま書き散らかしている完全に自己満足の自分語り記事でございます。法学について語っていますが、完全に個人の主観で述べたものです。どうぞご容赦ください。

 飲食チェーン店のアプリをダウンロードしてみると、「ミニデザート無料」クーポンが配信されてきました。
 おお、これはぜひともサービスにあずからなければ、とお散歩がてら片道30分歩いてお店に到着。行き帰りのカロリー消費も計算に入れ、罪悪感を感じず甘いものを食すという、隙を生ぜぬ二段構え。
 店員さんに、「この無料クーポン使います」と提示し、向こうも慣れたものでハイハイと。その後、ミニデザートの種類を伝えていなかったと思い、店員さんのところにいくと、なぜかひきつった表情で、あのお客様、と切り出されました。
「わたくしの確認不足でして、先ほどの無料クーポンは単独で使用できたものかどうかと、もう一度アプリを拝見できますか?」
「え!?」
 いやこれは、本当に虚をつかれたというかなんというか。
 確かに、使用条件のところに「単独では使用できません」と書いてある。なんなら、クーポン画像の下の方に※付きで注意書きが書いてある。
(わあ、どうしよう。抹茶パフェ追加で食べようかなあ)
 実は、前回来店時、調子に乗ってデザート2品を平らげたところ、胃もたれしたのでございました。昭和生まれが令和まで生きると、まあそんなもんです。
 しかし店員さん、「せっかくご来店いただきましたし、わたくしの注文時の確認ミスですので、そのままお召し上がりください。会計もいりません」と、わたしがよほど狼狽えていたように見えたのでしょうか(その狼狽は、デザート2品を食べられるかどうかの懸念でありましたが)、心遣いをしていただきました。
 ミニデザート400円也。
 チェーン店にそんな気遣いさせてしまって、ありがたいような、申し訳ないような。今度、ちゃんと食べに行こうと思います。

 本当は「単独では使用できないクーポンでした。よかったら何かご注文をお願いできませんか?」でもよかったんです。というか、本来はそちらのほうが「ルールにのっとった運用」だったでしょう。それをお店の側が譲歩してくれた。
 今回のは、わたしという一個人にとってはありがたい措置でしたが、「公平性」の観点からすると、他のお客さんから「ひいき」とか「ズルい」とか言われかねない部分もあるでしょう。
 ミニデザートの無料クーポンだから、「まあケチケチしなさんな」で済む話。同じ「あなただけに、こっそりサービスしますよ」的なであっても、これがたとえば「株取引の極秘情報」とかになってくると話が変わってきます。インサイダー取引というヤツですね。
 「どこまで目を瞑るか」なんて、世間のさじ加減。ということが言いたかったのです。

 世の中にルールや決まり事はあふれているけれども、「現実」は小さなルール違反なんてポコポコ発生しています。
 たとえば、横断歩道。自転車は「自転車横断帯」を通行するか、自転車を降りて押さないと道交法違反でございます。ですが(自分を含め)、実際に道交法に則って運転されている自転車は全体の何%か。
 車の制限速度などもそうでしょうか。「時速40km」の道を、法定速度通りに走っている車の後ろに付くと、わたしなどは「おそいなあ」と感じてしまいます。みなまで言いますまい。実際にお巡りさんが取り締まるのは何十kmオーバーで、少々のことは問われない。
 その「少々のこと」とは、果たしてどの程度か。そこに運用する人間によって差異が出てくる。ルールや法律って、そんな側面があると思います。

 わたしは、大学の時に法学部に入りました。
 と書くと、なんかアタマイイ感じを字面から受けますが、ゼミは「法律でなくてもよい」寛容な先生のゼミで、「排出権取引」だの、「スーパーのレジ袋不要時のオマケポイントの分析」だの、法律とはまったく関係のない分野を「ちょっとかじってみて」発表し、法学の授業はサボリまくって、アルバイトに明け暮れるという、ダメ学生の見本のような日々を送っておりました。
 法学部は、卒論が必要なかったのです。どーせ勉強しないなら、もう少し視野の広がる時間の使い方をするか、徹底的に何もしないか、のどちらかにすればよかったかなあ、と今になって思います。少し自分語りになりますが、わたしは機能不全家庭でイジメられていた人間でして、ほとんど自分の肉体的精神的な自由がなかったもので、まずは世間に出てみるところからの拙いスタートだったわけです。

 で、法学部のお話。
 法学部を選んだのは、もう一つ本当に行きたかった「文学部」に比べて、ツブシがきく、と周囲に言われ、また自分も就職に有利な学部の方がいいかな、と思ったためでした。
 法曹、という選択肢もゼロではありませんでしたが、法学を少し学んでみて、「ああ、わたしは法律というものと相性が悪い」と感じ、早々にあきらめました。と言いますのが。

 例)夜上月君が、デスノートに「L」の名前を書きました。「L」は3分後に確実に死んでしまいます。
 しかし、月君がノートに名前を書いた1分後に、弥 海砂が「L」の心臓を刺して殺してしまいました。
 さて、月君は殺人罪でしょうか。殺人未遂罪でしょうか。

 刑法の「結果無価値論」と「行為無価値論」と言ったと思います。
 刑法の授業では、「屋上から人を突き落としました。被害者が落下中にゴルゴ13が被害者を射撃してトドメをさしてしまいました……」みたいな例で習ったような記憶があります。
 法律に定められたルールは、すべての現実に当てはめることはできません。水戸黄門のように「ご隠居が印籠を出したら解決!」とはいかないものです。自動車の「法定速度」が即「取締まり速度」ではないように、現実は、「グレーゾーン」がある。
 そのグレーゾーンを、矛盾のないように、どのケースにもあまねく適用できるように理論だて説を整える。それが法学の入り口でわたしが習い、「合わないなあ」と思った部分です。結局「L」死んでるわけじゃん。月君が殺人か殺人未遂かについて、どちらになったところで遺族の溜飲がさがるわけではないでしょう。延々と論を構築することに対する、徒労感?というか誰のための法律かと思ったり致しました。

 J.R.R.トールキン著、「指輪物語」というファンタジー小説があります。実写映画化もされました。
 トールキンは、「指輪物語」の世界の歴史や文字を事細かく設定し、緻密で完成された架空世界を作り上げ、多くのハイファンタジーファンを虜にしました。
 「現実」に「法律」を当てはめて、完成された世界観を作ろうとする行為。法学脱落者の妄言ですが、わたしの法学に対する忌憚なき印象です。
 社会のために、それは必要です。人間同士の折衝を、「法の裁きに委ねる」というのが法治国家ですから。ジャイアンがのび太を殴って、欲しいものを取り上げて終わり、じゃないんです。のび太が訴えれば、窃盗罪、暴行罪という形で、ジャイアンに戦いを挑むことができる。
 誰かが、「法律」をできるだけ広い「現実」に適応できるよう、議論し枠組みを整える仕事をしなければならない。だけど、地方の大学で感じたのは、それとは別のモヤッとでした。

 大学入学直後にゼミでこんな議題が出ました。
「ある人が、日本政府が渡航を制限した紛争地域に、個人で渡航し、誘拐されてしまった。これは自己責任か? 政府が介入するべきか?」
 ゼミ生の90%が「自己責任だ」と述べました。自己責任で、政府が助ける義務はない、と。
 高校生のときに「人権学習」に力を入れるキリスト教系の学校で、紛争地域での人道的活動なども学んだことのあるひよっこ大学生としては、「そこは政府が助けてやらなければならんのだろうか」と義憤にかられたものでした。
 今になってみると、「自己責任」と線を引く必要性も理解できます。
 ただ、その場で感じたのは「人間の営み」を「机上の理論」で完結させようとする空気に対する、違和感でした。

 「法律」を「現実」に適応させるために、美しい完璧な理論。
 それは、ある程度抽象化される必要があり、帰納法的にエッセンスを抜き出して練られるべきものでしょう。
 しかし、あてはめるべき現実に「演繹的」にあてはめる視点が欠如しているように、ゼミや授業において感じたのです。
 大学は、理論を研ぎ澄ませる場所であります。しかし、理論を研ぎ澄ませた先にある現実の温度を想像できない者たちが、あーだこーだと戦わせた議論は、どんなに「美しい」ものであっても、「キモチワルイ」と感じてしまったのです。

 繰り返しますが、これは法学の入り口で脱落したものの妄言です。現実に法曹界でご活躍の方は、このグレーゾーンをこそ駆使して、日々論を戦わせておられるのではないかと妄想しております。
 かつて同じ塾に通っていて、その時わたしよりも成績順位が下だった方が、京大法学部を卒業し、現在は地元の法律事務所でご活躍されているのを拝見して、「すごいなあ」と思う反面、少し悔しいような思いもいたします。
 スタート地点は一緒だったのに、彼女のいる場所はまぶしく、きらめいているように映る。かといって、自分が法学を学んで法曹になろうとしたか、というと答えは否です。法学という先人が築いてきた純粋な理論の世界を前に、わたしは理解することもなく、「自分には合わない」と去りました。
 法曹界で活躍する彼女がまぶしいのは、そんな自分がどこか、「ミジメだ」「逃げてしまった」と、自分で感じているからかも知れません。
 わたしにとっての法律は、「チェーン店の店員さんが、気遣いでオマケしてくれたミニデザート」のように、線引きできないグレーゾーンを、譲り合い、時にはぶつかり合いしながら営んでいく、その日々の中にあると感じる次第でございます。

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