清濁をあわせのむ

※こちらの記事は、自分が体験したことについて、自身の過去や考えを整理するためにあーだこーだと好き勝手述べている自己満足感満載の自分語り記事でございます。どうぞご容赦ください。

 先日、ある方にお借りしていた品物を宅急便でお返ししました。
 荷物を送った直後に、LINEメッセージで送り状の写真と追跡番号をお伝えし、先方からすぐに「ありがとう」と返信がありました。
 その数日後、追跡番号から宅配済みということは分かったのですが、念のために「届きましたか?」とLINEで確認してみました。すると、「届いてるよー。だから、ありがとうって送ったの」と返信が。
 
 「ん?」と思いました。
 LINEのメッセージには、日付をたどってみても、わたしが荷物を送った直後の「ありがとう」しかなく、それ以降その方からの連絡はありません。「うーん」と思ったものの「届いてよかった、煩わせました」とお返事しました。

 事実をベースに話をする、というノウハウがあります。
 わたしはコールセンターでの勤務経験があります。スポット業務といって、期間限定でコールセンター業務を請け負うことがあります。そのときは、とある乳製品に異物が混入して全品回収となり、その会社からオファーを受けて、緊急のお客様対応窓口が設けられました。
 わたしが対応したお客様と、こんなやり取りがありました。
「異物混入って、口に入れるものに対して責任感がないんじゃありませんか?」かなり感情が昂ぶっておいででした。
 はい、はいとできるだけ丁寧さを心掛けて相槌を打っていると、「こいつじゃ話にならない」と舌打ちのような雰囲気が電話の向こうからして、「あなた、やけに明るい声でハイハイ話してるけど、ホントに悪いと思ってるの? 会社として、謝る気がないように聞こえるわ」
 うわあ、と思いました。もともと声は高めなのですが、その方以外にそんなこと言ってきたお客様はおられません。おそらく、もう何でもかんでも物申したいお気持ちだったのでしょうね。

 この時のお客様は「感情ベース」でした。「異物混入なんて不祥事を起こして、許せない!謝れ!謝れ!とにかく謝れ!」
 しかし、緊急コールセンターの趣旨は、異物混入の経緯と謝罪、健康被害は確認されていない旨の説明です。なので、お客様の「感情ベース」を「事実ベース」にしなければなりません。
 まずわたしは、「会社は関係ありません。わたくし個人の対応が至らず、ご不快な思いをさせて申し訳ありません」と声のトーンを落としてお伝えしました。
 相手は少し呑まれた様子で、感情の勢いが幸いにも多少和らぎました。こちらの話を聞いてもらえそうな雰囲気になったのです。
 声のトーンを低くしたまま、できるだけ感情を入れずに経緯を説明し、最後に「本当に申し訳ありませんでした」とお伝えしました。なんとか上長対応とならずに収まった件です。
 クレーム対応はヘタクソでして、失敗談がたくさんあります。大体相手の感情に呑まれて失敗することが多かったように記憶しています。もう10年も前の話です。

 事実をもとに話をする。
 過去の家族とのトラウマを少し話題にします。わたしの母は、わたしが幼児の頃から、その「言うこと」がコロコロ変わり、「やる」といったことを平気でやらない、何なら「そんなこと言ってない、お前の勘違いだ」と平気で言い捨てるバカ親でございました。
 その「言葉」に信用がおけないのです。
 また、幼いわたしの些細な言葉の言い間違いを過剰にあげつらね、「そんな言い方をするのか」「お前はおかしい」とネチネチと事あるごとに言われました。
 幼いわたしは、彼女の言葉をできるだけ記憶し「確かにおかあさんは、あのとき言っていたよ」と覚えるようにしました。また、自分が何かを言うときは、衝動的に思ったことを口にするのではなく、TPOにふさわしい、当たり障りのない言葉を、可能な限り考えるよう心掛けるようにしました。立場の弱い子供のとることができる、その時の精いっぱいの対応策でした。
 しかし、母ときたら厚顔無恥な剛の者でありますので、「そんなもん知らん」「わたしは、あんたと違って頭がよくないから分からん」と、やはり自分の言葉に一切の責任を負うことをしませんでした。またわたしの言葉に対して聞く耳を持つ、という姿勢もありませんでした。

 世間の大人たちは、コレよりはマシではないだろうか、と思ってきました。希望を抱いてきた、といってもいいかもしれません。
 わたしの母や家族、また小学校の先生や同級生たちが、タマタマ言葉が通じない類のイキモノなのであって、きっと話の通じる人たちが世の中にはたくさんいるはずだ!と。
 また、自分は事実をもとにして言葉を丁寧に扱い、身を正して、アレらの同類にならないように、気を付けようとも思ってきました。
 不意なことを言わないように、その場限りの言葉を言わないように、できるだけ「実行可能」なことを言葉にするように心掛けてきました。

 いま、わたしの周りの人間関係は、幼いわたしが囲まれていた人間関係よりも、ずいぶんとマシになりました。
 しかし、母と同類の類人猿をお見かけすることは決して珍しくありませんし、通常のコミュニケーションでも、「言った」はずのことを覚えていないとか、言葉の些細な行き違いなんて、ぽこぽこ発生します。

 冒頭のLINEのやりとりも、その一つです。
 少し前のわたしであれば、「ありがとうと送ってもらったのは、荷物を送付した直後で、到着後は何も送られてきていませんよ」と相手にワザワザ伝えたか、表面上は「了解!」みたいに収めておいて、胸の中でフツフツと(あの人の言葉は信用できない……)とか(わたしがオトナになって、相手のマチガイをなかったことにしてあげたんだ……)みたいなことをですね、思っていたと思います。
 他人にも、そして自分に対しても、「言葉」に対する許容範囲がとても狭かったのです。
 
 江戸時代に「寛政の改革」を行った松平定信の政治は「白河の 清き流れに 魚住まず 濁りし田沼の 流れ恋しき」と詠まれました。
 松平が政治を執る前は、田沼意次が賄賂政治を行い、風紀が乱れていた。それを正そうと、クリーンかつ厳しい施策を行ったものの、「あまりに澄んだ川には魚も住めない。賄賂まみれの田沼の時代が懐かしい」と風刺されたのです。
 ここで賄賂政治とクリーン政治、その是非を問いたいわけではありません。ただ、あまりに澄み渡った水、すなわち「正しい」「理想の」世界には、何物も住まうことができないのであろうということを言いたかったのです。

 事実をベースに話をする。その言葉に行き違いなく信用がおける。
 これが「理想」の姿だとすれば、わたしは今まで、あまりに澄んだ水に住まおうと努力をしてきました。
 それが最近、「清濁をあわせのむ」ということについて、少し思いいたるようになってきたのです。
 ○○が100%正しい、なんてことは、起こりえません。なぜなら、わたしたちは地に足付いた人間の視点から空を見上げることはあっても、神様の視点で俯瞰することができないからです。
 神様の視点でモノを見ると、青く美しい地球という星のアチコチで、森林は焼かれ、砂漠化が進み、資源は使いつくされようとしています。
 食べ物がなくて亡くなる幼い命がある一方で、飽食の日本では大量の食品廃棄物が連日発生しています。
 この世界は、もともとそんな「不公平な状況」が、清濁あわせもってアタリマエに存在している場所です。
 自らの襟を正すために、その「言葉」に責任を持つことは必要でしょうが、カンペキを求めることは、逆に「清濁あわせもつ」この世界の摂理に対して反しているのではないだろうか。
 ともすれば「清」という正義に酔いしれ、かといって、すべての「濁」を飲み込むまでの器はいまだ育たず、わたしはいまだに「正しい」「間違っている」のはざまで葛藤する未熟な存在です。
 ただ今まで、とにかく清ければいい、清いのが正しい、正しくあればいいという視野の狭い世界から、一歩抜け出した。清濁あわせもつ世界の歩き方を、ここから少しずつ学んでいきたいと思っています。

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