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父の生き方

初めてなんだよ、自由になったの。

はっきりとは覚えていないけれど。
70を目前に控えた父は、そう言った。

64歳で退職した父は、90歳を超えて一人暮らしをしている自分の母の元で、週の半分を過ごすようになり、ご飯を作り身の回りの世話をする生活を始めた。
1、2年が経ち、母(私の祖母)が施設入居したのを機に、その生活も終わりとなった。

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教師だった40年

父は教師だった。
数十年前にまだ父が若手の頃、当時荒れていた中学校に赴任し、生徒指導の担当を任されていた話などを、いつだったか聞いたことがある。
「生徒指導担当の先生」と言えば、思春期真っ盛りなヤンチャな生徒を厳しく指導する、強面の先生を私はイメージした。自分の出身校もそうだったし、ドラマなどの印象もあったのだろう。実際はいろいろなタイプの先生がいるのだろうけど。

しかし父は怒ることもあまりなく、娘から見ると、そういう役回りは似合わない。

「ヤンチャな子たち、どうやって指導してたの?」
あまりに不思議で、私は尋ねた。すると父は、

「ただ話を聞くの。彼らの話を、まずは聞く。いきなり叱ることはない。そしたらね、だんだん父ちゃんの話も聞いてくれるようになったよ。」

なるほど、と思い、昔のリビングの光景とリンクした。
当時小学生くらいだった私の記憶の片隅に、『平日の夜遅くまで、家の固定電話のコードをビヨンと伸ばして、夕飯も食べずに何時間でも長電話をする父』の姿が刻まれている。
1度や2度ではないその光景の中の父は、いつだって相槌がメインで、口調はとても穏やかだった、ような気がする。

今ならわかる。
ヤンチャで思春期で、懸命にその時を生きていた子どもたちの葛藤に、夜な夜ないつまでも耳を傾け、否定せずにただ受け止め、自分のプライベートの時間まで費やしていたのだ。
そんな先生がいてくれて、よかったなぁ。
我が父ながら、私は心からそう思う。

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そして40歳を過ぎた頃、父は特別支援学校への赴任を希望した。
障がいについて自分でイチから勉強し、教員としての残りの時間をその世界で使おうと決めたのだ。
なぜなんだろう。そういえば、聞いたことがなかったな。
父がなぜそうしたのかはわからないけれど、私はその後、障がい児の通園施設の保育士になった。

重い障がいをもつ子どもたちや、その家族の人生に伴走し続け、父は約40年にわたる教師人生を終えた。

親孝行の日々

そして父はすぐに、祖母の家へ通って介護を始めた。
慣れない料理も勉強した。ヘルパーさんの置いていく弁当を食べなくなっていた祖母が、父の料理は残さず平らげてくれるのが嬉しくて、いつも料理写真のラインが届いた。
生まれて初めて背中を流してあげた、感慨深い日もあった。
第二の人生というか、退職後もやりがいを持てていることに、私は安堵した。

そんな祖母も、施設に入居することになり、職員さんたちにすべて任せることになった。

はじめのうちは、里心がつくとばあちゃんが寂しくなっちゃうかもしれないから、施設での生活に慣れるまでは会いに行かないことにする。

と呟いた父の言葉には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。

押し付けた、やりがい

私はそれから、父のことが心配だった。

退職前の父は、「退職したらシルバー人材に登録して、近所の子どもたちに英語を教えたり、趣味の日曜大工を生かしてできることをやろうかな」と話していた。
しかし予定がすっぽり空いた父が、動き出す気配はなかった。

私の母はまだ現役で働き、多忙な日々を過ごしている。やりがいを無くした父が、実家に毎日ひとりでいることを想像すると、このまま健康で長生きしてほしいあまり、私は心配になってしまった。

そんなある時、実家に帰る時に迎えに来てもらった車の中で、私は口うるさくこう言った。

シルバーさんやるんじゃなかったの?おばあちゃんの所にも行かなくなって、毎日予定ないんでしょ?なんかした方が、絶対にいいよ。障害児関係のボランティアとかもいいと思うよ。

普段どんなことも否定しないで聞いてくれた父が、珍しくはっきりと、強く言い返した。

何曜日の何時にどこに行って、何をする。それがずっ・・・と決まってた。今はそれがなくなった。
何曜日の何時に何をしてもいい。初めて自由になった。

曜日が関係ない人生。
父ちゃんは、今が初めてなんだよ。

言葉にならなかった。

父は大学で教員免許を取って教師となり、母と共働きで3人の子どもを育て、全員を大学に行かせて、定年退職のその日まで働き続けた。

それだけではない。私たちは物心がついた時からずっと、曜日や時間が自由ではなかったはずだ。
決まった曜日の決まった時間に幼稚園や学校に通い、大きくなれば休みの日まで部活に通い、決まった時間の電車に乗り遅れないようにして、次の日を案じてだいたい決まった時間にベッドへ入る。

疑問にも思わず、そういうものなんだと、当たり前だと刷り込まれて、生きている。

しかし、退職して介護もひと段落した父は、今までの「当たり前」に縛られない自由というものを、70を前にして知り、大切だと気づき、そして謳歌しはじめていた。

心も身体も健康に保つために、リタイヤ後も何かしらの活動をして少しでも長く生きてくれることを、周囲は願う。
でも本人は、働き続けた自分を労い、初めての「何もしない自由」を噛みしめている。

しあわせに死ぬこと、生きること

しあわせに生きるって、なんだろう。
しあわせに死ぬって、なんだろう。
その人にとってのしあわせって、いったいなんなんだろう。

正解はわからない。
だけど私は、父に何かの活動を勧めることを、やめた。
またやりたくなったら、その時にやればいい。やりたくなければ、それでいい。
身体を動かした方が、長く健康でいられるかもしれない。
誰かと会って話した方が、脳も活性化するかもしれない。
でも、違うんだ。それが1番大切なことじゃ、きっと、ないんだ。

さみしい。
長生きしてよって、言いたい。
だからあれやろうこれやろうって、言いたい。お願い、元気でいてよ。

だけど、相手を想うあまり周囲が生き方を押し付けることが、本人にとってしあわせとは限らない。
自分で選んで、自分で決めることが、どんなことよりも大切なんだ。
やりがいって、生きがいって、なんだろう。

父は、家族を守るために懸命に働き続ける背中を見せ、最後までやり遂げてから自由に生きる姿を見せ、そして大きな問いかけをそっと置いた。

その問いかけとは、人がどう生きるか、どう死ぬか、どう見守るか。
私はゆっくりと向き合っていく。

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