「不登校支援」のあり方と私にできること

不登校の子どもが増えている。
TVをつけるとそんな単語をよく耳にする。
SNSでも「不登校」の文字を目にすることは多い。
そういう時にいつも考えるのだが、はたして本当に「今」なのだろうか?
私が学生のころ(35年くらい前)を振り返ると、学校にきていない子は少なからずいた。一学年170人くらいの中学校で4,5人はいた気がする。
私の友人も2年ほど完全不登校だった。
当時は「登校拒否」と言われていて、学校がその子に対して何かケアする、という姿勢はあまりなかった気がする。先生がやったことといえば、彼女と親しかった私を同じクラスにし、毎週1回プリント類を届けるように申しつけたことだろうか。今は生徒にそんなことさせないだろうな。
私は彼女が好きだった。学校が好きではなかったのに、休む勇気もなかった(親がね、怖かったんでね)から、意思を貫いた彼女を「かっこいい」と羨望のまなざしで見ていたのを覚えている。
あの時、学校がもっとアクションしたら彼女は登校できるようになっただろうか?きっと、彼女は登校しない選択をしたと思う。
彼女のことを思い出すたびに「登校しないという選択」もある、認められるべきだ、と私は思うのだ。

義務教育期間において「学校」がすべてなのだろうか?
「学校に通わないこと」は悪なのだろうか?
「学校」って「学校教育」ってなんだろう?

学校から足が遠のいてしまう理由は千差万別だ。
〇学校に行くことで、学校内で起こるかもしれないことへの不安
〇学校に行くことで、留守にしている家で起きるかもしれないことへの不安
〇集団で行動しなければいけない、合わせなくてはいけないことへの苦痛。
〇自分の学力にそっていない(上も下もありうる)学習をすることへの苦痛
等々。とてもひとまとめにできるものではない。

学校に行きたいのにいけない子もいれば、行きたくない子もいる。

様々な事情や理由を抱えた子たちを学校が一括に対応するなんて、土台無理な話なんだとは思う。
「学校に行きたいけどいけない。環境が整えば(友人関係のトラブルや学習面のサポートなど)行ける」という子には、学校が丁寧にアプローチしてあげてもいいんだろうな、とは思うけど。

登校しない、という決断をするのは子も親も勇気がいると思う。なぜか、「先が描けない」からだ。これまで、学校に普通に通った先の未来は沢山提示されてきているが、登校しない決断をした家庭の先、その後が提示されてきていないから、不安になるのだ。

「学校に行かなかったらそのまま引きこもりになるのでは」「何もかもうまくいかなくなるのでは」

確かにそういう例もあるが、登校しないまま成功を遂げたり、幸せに生活している子どもはいるし、家庭もあるのだ。

だが「学校に行くことがスタンダード」とされる社会では、そういった上手くいった事例はなかなか表に出てこなかった。
SNSが普及して、当事者が「学校行かなかったけど、こんな風に幸せだよ」って発信できるようになったのは本当に良いことだと思う。

でも、まだまだ「学校にいかないで生活する」ことはマイノリティで、肩身の狭い思いをしている人はたくさんいるんだと思う。理解者が少ないと、親が頑張るしかなく、親はどんどん疲弊していく。

数年、福祉の世界で子どもや親とかかわっていく中で「自分に何ができるか」をずっと考えてきた。困りごとをヒーローのように解決することなんてできないけど、疲れた時に休める場所を提供したり、体の中に溜まって吐き出し場を失ってしまった感情を吐き出してもらう手伝いならできるかも、との考えに行きついた。

「学校の代わりとなる場所」ではない。
親子だけでいて煮詰まるなら、一緒に遊ぼう。
勉強がいやなら、とりあえず一緒に遊ぼう。
もっと知識を得たい!自分の知識を披露したい!なら、おばちゃんに披露してほしい。勉強は教えられないけど、おばちゃんもみんなの知らない色んな事を、トレードで教えてあげられたりするよ。
親御さんも、一人で頑張らなくていいんです。
「大変」って言っていいんです。
先が見えないなら、どんな先があるか、一緒に探しましょう、考えましょう

元気がチャージされたら、自分が行くべきところへすすんでいってほしい!
疲れたら思い出して、ふっと帰ってこれる、そんな場所を私は作っていきたいなって思っているのです。


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