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本日の一曲 vol.262 打首獄門同好会 音楽依存症生活 (2013)

打首獄門同好会については、以前ご紹介しました。

本日ご紹介する「音楽依存症生活」は、音楽ファン、あるいは音楽を日常的に鑑賞している人々にとっての真実を指摘した歌が歌われています。

音楽に魅入られた俺達は
耳の穴から注いだ何かを
どういうワケだか力に変えてる

音楽依存症の俺達は
今日も不快にまみれた世界を
テンションだけで切り抜ける
テンションだけで乗り切れる

音楽のリスナーは、耳から入ってくる何かによって、なぜか気持ちが変化して、その変化を享受しているわけです。

リスナーに音楽を届ける側はどうなのでしょうか。音楽を届ける側には、生演奏の場合には、作曲者、演奏者、楽器を使う場合には楽器製作者、エレキの場合には電気関係者、録音の場合には、録音者、媒体の製作者、ミュージック・ビデオの場合には、映像制作者などなど。昔は、オペラが総合芸術などと言われていましたが、現在では、総合芸術の幅も広がって、現代ではIT(Information Technology)を巻き込み、音楽も総合芸術といってよいでしょう。

音楽を届ける側は、ものすごく手間がかかっています。例えば演奏者ですが、中野雄さんの言葉をお借りします。

「楽譜を正確に、美しい『音』にするという物理的な作業を全うするだけでも、三歳とか五歳とかの幼児期からピアノ奏法の履修をスタートさせて、(ごくごく少数の天才児を除き)まず最低十年はかかる。一日のうち、ピアノの前に座る時間は五時間以上、人によっては『平均八時間』との声もある。演奏技巧の練磨だけにそれだけの日時を費やす上に、必要とされるのは曲想の把握と表現法の修練で、そのために必要な学習と研鑽に要する、気の遠くなるような時間と労力----更に、それを賄う厖大な資金はいったいどれだけの額にのぼることであろうか。」(宇野功芳・中野雄・福島章恭「クラシックCDの名盤大作曲家篇」文春新書4頁)

中野さんの言葉は、クラシックの演奏者を念頭に置いたものだと思いますが、クラシック音楽だけに限らず、音楽全般について、演奏テクニックの習得には、労力、努力、資力が必要ですし、演奏者に限らず、音楽を届ける側の人たちには、とてつもない何かが犠牲になっているわけです。

その犠牲がリスナーの力に変化しているんだろうなと思います。そんなことを考えながら、あと2曲ご紹介します。

サンタナ(Santana)の「ソウル・サクリファイス(Soul Sacrifice)」。

アンドレイ・タルコフスキー監督の1986年公開の映画「サクリファイス」で使用されたバッハの「マタイ受難曲」よりアリア「憐れみ給え、わが神よ」。アルトはユリア・ハマリ(Julia Hamari)さんです。

(by R)

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