見出し画像

死が価値を生み出してしまうことに関する考察



死ぬことって結局ひとつの価値を生み出してしまってるよね!


…このタイトルでこんな軽い書き出しなわけないな。


尾崎豊って今も生きてたらどんな曲書いてたんだろうか。

バイク盗んで走り回るとか、校舎の窓ガラス壊すとか、そういうのは昔だったらとても共感を呼ぶのかもしれないけど今だとなかなかない話だ。

もうしばらくすると「え、なんでこんな犯罪を曲にしたの?」みたいな反応になることもあるかもしれない。

さて、今も尾崎豊が生きてたら、TikTokで流行るような曲を作ったのか、未だにあの頃の非行少年を歌ったのか、現代の非行少年を歌ったのか。

もしかしたらいつの間にか音楽やめてて、一発屋扱いされてた可能性だって否定はできない。

そんなことを考えていた。

もし尾崎豊が生きていたら、尾崎豊はどんな風に世間が扱っただろうか、と。

ただ尾崎豊に関しては生前から社会現象になるような人気だったはずだから、仮に生きてて今いい曲を書けてなかったとしても、なんかやらかしてたりしても、一発屋として曲が歴史には残り続けただろうと思う。


昨年のちょうど今ごろか、映画を見た。

フィッシュマンズ

とあるバンドのドキュメンタリーだ。

わたしはフィッシュマンズを聴いてはいたがそこまで詳しくはなかったので、映画でいろんなことを知った。

フィッシュマンズというバンドは伝説の、すごいバンドだと思っていた。

ただ、彼らはとにかく売れなかったのだと知った。

とは言ってもCD、バンド全盛期と言っても過言ではない当時、今で言ったらかなりの枚数を売り上げていたとは思う。

あれで売れてないと言ったら怒られてしまうんじゃないかと思うほどに。

ただ先述したように時代が全盛期であったことと周りの大人の期待、本人たちの生活、ということを考えるとなかなか売れなかった、というのが正解なのかもしれない。

実際映画の中でもそのような表現がされていたので「売れなかった」という表現を用いるが

これは決して彼らを落とす意味ではなく、たとえば先述したような尾崎豊などと比べて社会現象にまでならなかった、といった意味と捉えてもらえるといい。


わたしの生まれた年でもある99年、フィッシュマンズのボーカル佐藤伸治さんが亡くなった。

作曲はほとんど彼が行っていたこともあり、これによってフィッシュマンズの曲は二度と新たに作られなくなったし、本来の声で歌われることはなくなった

「売れなかった」彼らであったが、今、そのバンドのドキュメンタリーを見に当時のファンだけでなく、私のような当時を知らない若者が映画館に集った。


もし、今も彼が生きていたらどうなっていただろう。

どんどんと減り続けたメンバー。

最後は2人にまで減った。

最終的に誰もいなくなってしまったかもしれない。

売れないまま、今も曲が生まれ続けているのかもしれない。

音楽をやめてしまったかもしれない。

もちろんその後社会現象となった可能性もあるが。
 


そうしたら、今、映画はできていたのか。

音楽は我々の世代に、そしてそれより下に、受け継がれていたのか。

その人が亡くなるということはもう二度と見られないということであり、新たなものは生まれないということ。


単純に考えると希少価値が上がる。


その人の遺志がわからないため、どこまででも解釈のしようがあり、その人を忘れまいと、その功績を忘れまいと周りが動く。

ふつうに宣伝をするよりも広まり、親しまれやすくなる。

そんな感じで死というものは一種の「価値」を生み出してしまう。



他にも「なくなる」ということは「劣化しない」とも言える。

死に限らず、バンドの解散などは「落ちぶれた」や「昔は良かった」と言った論争すら排除してしまう。



ここで唐突に話を変える。

いじめ、パワハラ、誹謗中傷。「しんどいからやめてくれ」と何度声をあげてもなかなか響かないが、人が一人死ぬと話が変わる。

つらかったのだろうと理解され、相手を責める。

そんなことするなら学校に行かなきゃ、仕事を辞めれば、早くに相談すれば、良かったのに、と。


でも実際には学校に行かないと勉強がままならない人も多い。

勉強ができても学校に通えないと大卒の資格すら取れない場合もある。

高卒の引きこもり、自業自得だなって思う人がきっと多い。

実際にしんどいけど死なずに逃げた人は、ちゃんと学校に通って卒業して仕事してる人と比べたら差ができてしまうし、それを掬いあげてくれるひとがどれくらいいるか。


仕事を辞める。

辞めてよかったと言ってくれる人がどれくらいいるか、そのあとの生活を面倒みてくれる人がいるか。

学校に行かなくて、仕事に行かなくて、何もできなくて、人に頼って、迷惑かけて、その罪悪感をどう打ち消すのか。


死ねば、自分は解放され、同情され、相手を責める流れにすらなる。

なんて簡単に、死は価値を持っている。


わたしが言ってもいいのかわからないけれど、死は価値を持ってはいけないと思う。

でも死なない方がいいことなんてどれくらいあるんだろう。

悩んだときやつらいときに、死なない方がいいことってなんなんだろう。

死んだら成仏できないとか、後悔するとか、死の瞬間を何度も繰り返すとか

死後の世界にならないと「死ぬデメリット」がわからないのか?

まあそれでも「生きてても死んでてもダメ」っていう結論にしかならなくて

そうじゃなくて「生きてるだけで偉いよね」っていうことをもっと大事にしなきゃいけないと思うのだ。


「生きてるだけで偉いよね」

とは決して

「生きてるだけでいいんだよ、こんな簡単なこと」

と言っているわけではなく


「生きてるってことはつらいんだよ、それができるのはすごい」


っていうことだと思う。


「生きていることは、多くの人ができていることでありながらもとても難しいことなんだ」ということを多くの人が理解しなくてはいけない。

生きていくのはしんどい。

しんどいことをやってるんだ、生きてるだけで。

まあ気楽に生きてる人もいるだろうけど、気楽じゃない人に届けば良い。

わたしもそうじゃないからね。

このストレスを受け続けていたら、きっと長くは生きられないと思っているけど。

いつ死んでも大丈夫って感じで生きているつもりだ。
これは諦めというのもあるかもしれないが、雑巾を絞る感じで生きてると思う。

もうちょい水、出るかもしれないから、絞ってみるかっていう。

バケツの水は真っ黒になりそうです。


























もしも良いと思われましたらサポートお願いします!いただいたサポートはインプットやら活動のために使わせていただきます。