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MBTI:INTJが「建築家」と呼ばれること

 人間の精神に対して「崇高」を感じた。修辞表現としての"崇高"ではなく、美学上の概念である崇高、すなわち畏敬の念としての崇高である。峻険な山岳を眺めやるとき、人間がある種の恐怖を抱くとともに自らの存在の卑小さを意識せざるを得ない。そこで感じる恐怖は安全な距離から見ている限り精神を高揚させる。本来、人間にとって不快な感情であるはずの恐怖が美的感動を齎す。そんな真の意味での崇高を人間の精神に感じたことに衝撃を覚える。

 INTJがクレバーでドライといった話を以前のnote記事で述べたが、それらの言葉では生温過ぎて到底その精神を表現できていない、そんなINTJの人が居た。恐らく私が出会ったどのINTJらしき人達よりも峻厳で苛烈そして冷徹な精神の持ち主だ。知的能力についても自分が寸毫程にも比較対象となるとは思えない。ただ、呆然と立ち尽くすのみである。

 衝撃が未だ冷めやらぬ状態だが、彼がnote記事で示したメソッドや体系的認識はパーツに分けて見てみると、かなりのものが見覚えのあるものだ。本や論文から見知ったものであり、かつて独自に個別的な形で思考した内容でもある。しかし、私は、それらを整序し、組み立て、体系立ったメソッドにしようとは思いつきもしなかった。もっとも、たとえ同じようなパーツを用いてメソッドを組み立てても効果や精度あるいは頑健性に劣るものしかできないであろうし、また価値観等もかなり別の形となるであろうけれども。

 しかし、INTPという知識コレクターが使いもしないのに好きなものを集めるだけ集めているだけの有り様であるのに対して、知識を集め考察して組み立てメソッドとして完成させて運用するINTJの有り様を目撃して、「なるほど、INTJが"建築家"と呼ばれるのはこれ故か」と深く納得した次第である。

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