見出し画像

MBTIという性格診断についての印象

 MBTIという性格診断がある。性格を二分する4本の評価軸を用いて合計16タイプの性格に分類する性格診断である。つまり、性格を4次元的に把握して類型化ようというものだ。用いられている評価軸は

興味関心の方向(Favorite world)
E - 外向型(Extravertion)
I - 内向型(Introvertion)
ものの見方(Information)
S - 感覚型(Sensation)
N - 直観型(Intuition)
判断の仕方(Decisions)
T - 思考型(Thinking)
F - 感情型(Feeling)
外界への接し方(Structure)
J - 判断型(Judging)
P - 知覚型(Perceiving)

となっている。

 しかし、この評価軸の名称もそれぞれの類型の名称もあまり的確ではない。もう少し何とかならないものだろうか。また、それぞれの評価軸とは一体なんであるのかについて、MBTIを利用している一般的な人々はごくごく表面的な理解しかしていないような印象を受ける(註1)。更に言えば、MBTIの利用に関してあまり適切ではない利用もしばしば見受けられる。このことについても注意が必要だ。

 まぁ、それはともかくとして、MBTIは結構面白い認識枠組みだ。自分とはかなり異なる精神の持ち主についての理解が深まるようにも感じられる。現段階で理解した限りについて、自分のMBTIについての考察をnote記事にまとめておこう。

 では、これから実際にMBTIの各評価軸がなんであるかについて述べていく。


MBTIの各評価軸について

■興味関心の方向(Favorite world):E - 外向型とI - 内向型

 E 型とI 型についてだが、外向型と内向型と呼ばれて興味関心が外に向いているのか自分に向いているのかの違いとされている。また、外界からの刺激を受けるのを好むのがE型で、内省を好むのがI型といった説明が為されることもある。

 ただ、MBTIのE型・I型についてのアレコレの言説をみるとそれらの説明は的を外しているように思われる。E型とI型の違いはそういった形でも現れるが、根本的なところは価値と他人の関係性であるように思われる。まぁ、次の評価軸のS型・N型も価値が大いに関係してくるのだが、E型とI型における違いは価値に他人が絡むかどうかである。以下にE型とI型の価値の形を示そう。

E型:他人と共有された価値
I型:自己で完結する価値

 つまりE型人間にとっては他人と共有されないものに価値を見出すことができない。一方、I型人間にとっては自分にとって価値があればそれで十分である。例えば、美味しいケーキを食べて「このケーキ美味しいね!」と誰かとその美味しさを共有できないならばE型人間にとってはケーキの美味しさは価値が無い。一方、I型人間にとっては「お、このケーキ美味いな」と自分が感じればで十分であって、その自分が感じた美味しさだけでそのケーキの美味しさに価値を感じる。


■ものの見方(Information):S- 感覚型とN - 直観型

 S型とN型に関して 感覚型と直観型とあるが、これはかなりミスリードを誘う類型名称であるように思われる。通俗的にS型が現実主義でN型が理想主義と解釈されているように、そちらのほうがまだSN軸をよく表現している。

 SN軸に関しては「即物的or観念的」と言ってもいいのだが、S型人間は現実世界そのままに生きているが、N型人間は自分の中で構築された観念の世界を通して現実世界を生きているといった方が正確だ。あるいは、世界像を自分の中に持っているかどうかの違いとも言える(註2)。

 S型人間にとっては世界とは自分の五感を通して直接的に感じる世界がその全てである。したがって、S型人間についてはかなり分かり易い。例えば、S型人間の特徴として、現実主義・具体的思考・観察力に優れる・経験重視・現在志向であることが挙げられる。これは、S型人間が現実世界にだけ生きていることから生じてくる当然の特徴なのだ。なぜなら直接的に五感を通したものだけが彼らにとっての世界なのだから、現実主義であることは当たり前だ。そして彼らにとって世界は現実世界しか存在しないのだから何かを考えるときにも現実世界を離れることはできず具体的思考となる。また、彼らにとって世界を知るには現実世界を観察しなければ始まらない。そして、彼らにとっては経験した事実だけが世界の事実である。さらに、現在志向であるのは直接的な感覚器官が働くのは現在だけであって「未来の世界」に対しては感覚器官が働き得ないからである。

 一方、N型人間とって自身が構築した「自分はこんな世界に生きている」という世界像こそが本当の世界である。もちろん、N型人間の世界像は現実世界からの修正を常に迫られる。しかし、そうであってもN型人間にとって本当の世界は構築した世界像のほうなのだ。

 N型人間が構築する世界像についてなのだが、構築された世界像は現実世界のような複雑性を持っていない。理解可能な法則や構造で構築された世界像しか人間の能力ではつくり出すことができない。したがって、構築された世界像は構築した本人にとって「なにがなんだかわけが分からないよ」という性質を原理的に持つことが出来ない。もちろん、「そうであったらいいのに、なぜそうじゃないんだろう?」と感じる性質は構築した世界像には存在する。しかし、構築した本人にとってまったく理解不能である構造を持つことはできないのだ。

 このようなN型人間の有り様から、理想主義・抽象的思考・理論重視・独創性がある・全体的や大局的な視点を持つ・洞察力や直観力に優れる・未来志向といった特徴が出てくる。N型人間にとって自身が構築した世界像こそが本当の世界であるのだから、その世界像とは異なる現実世界の方を否定しがちになり理想主義になる。また、N型人間にとっての世界は構築した世界像なのだから当然ながら具体的な現実世界からは距離があり、N型人間が世界について思考するとき現実世界とは離れた抽象的思考となる。さらに、世界像の構築に当たってはその世界像の構造を支える理論こそが重要なのであって細々とした事実はさしたる重要性を持たない。また、世界像は基本的にN型人間自身が構築するものなので、当然ながら独創的であり、全体像とも言い換えることが可能な世界像をつくっているのであるから全体的・大局的な視点になり、構築した自身の世界像の構造や構築するに用いた理論を引っ張り出して提示すれば洞察力や直観力に優れると評されるだろう。そして、N型人間自身の構築した世界像と現実世界のズレから、そのズレが解消する可能性がある未来を志向するのもまた、N型人間の有り様からそうなるであろうと言えることだ。


■判断の仕方(Decisions):T - 思考型とF - 感情型

 TF軸に関しては比較的に正確な名称とも言える。とはいえ、この名称もまた微妙な部分がある。そしてそれはT型についてもF型についても存在している。

 まず、T型を「思考型」と呼ぶのは少々語弊があることについて述べよう。

 T型人間の判断は「かくかくしかじかならばこうである」という形の判断であるので、名称は思考型というよりも論理型が相応しいように思われる(註3)。またT型人間の判断の根拠に関して、合理的な原理原則あるいは規則やルールだけでなく非合理な慣習や伝統などであっても構わない。そのような非合理なものであっても盲目的に用いることがあるので「思考型」という名称が適切と言いかねる場合があると言えよう。

 次に、F型を「感情型」と呼ぶにふさわしくない場合について説明しよう。

 F型人間の判断に関して、人間が関係してくる場合はまさしく「感情型」と言えるのだが、人間が関係してこない場合については別の所(=N型)で用いられている「直観型」と呼ぶ方が相応しいといえるだろう。それというのも、例えば「~は妥当である」「~は正しい」「~はおかしい」「~は誤り」といった判断において、「私がそう感じた(IF型)」「みんなもそう感じるであろうから(EF型)」という直観による判断を用いる。もちろん、T型人間の判断であっても根拠を遡っていけば直観に行きつくものだが、F型人間の判断に関しては判断の直近のところで直観を用いている。

 さて、人間が絡んでくる物事についてT型人間とF型人間の違いをみていこう。そして、F型人間に関してはIF型とEF型の違いも見ておこう。

 T型人間については人間が絡んでくる物事であっても判断のやり方はほぼ同じである。一方でF型人間は人間が絡まない物事と人間が絡む物事では判断のやり方がかなり変わる。そこもTF軸の大きな特徴だ。

 F型人間の判断に関して人間が絡まない物事については先に見たので、人間が絡む場合について説明する。このときIF型とEF型はちょっと違うので区別して説明しよう。

 人間が絡む物事の判断において、IF型人間は「その物事に出てくる人間が自分であればどう感じるか」を根拠にしてその感情的価値から判断を下す。一方、EF型人間は「その物事に出てくる人間がどう感じているか」を根拠にしてその感情的価値から判断を下す。

 この違いに関して「地震被害のTVニュースが流れた場合」という具体例で解説する。このとき、せっかくなのでT型人間についても同時に見ることにしよう。そして、結構な違いのあるST型・NT型とIF型・EF型の判断の違いを比較して見てみよう。

 さて、ST型はニュースで流れた映像や情報から分かる被害で地震被害の重大さを判断する。一方、NT型はニュースで報道された内容を判断材料にして自分の世界像の中における被害の重大さについて考えて地震被害の重大さを判断する。因みにこの具体例に関してはIT型やET型に関しては大差がない。それというのも、その判断について自分がそう考えていれば十分なIT型と他人と共有し得る判断でなければならないとするET型といった違いに過ぎない。

 では、IF型とEF型の違いを見てみよう。IF型は被害者の立場に自分が立ったとしたらどう感じるであろうかといった事から地震被害の重大さを判断する。一方、EF型は被害者がどのような感情を抱いているかで地震被害の重大さを判断する。因みに、SF型とNF型の違いは判断材料とする被害者に関して現実の被害者であるか想像上の被害者であるかの違いに過ぎない。

 以上のような違いがTF軸での違いである。


■外界への接し方(Structure):J - 判断型とP - 知覚型

 JP軸に関しては「判断型-知覚型」よりも「義務型-欲求型」といった名称のほうが相応しい。「判断型-知覚型」も間違いではないのだが、この評価軸の性質を理解するにあたって分かり難い名称だ。それというのも、JP軸は「外界への接し方」という名称になっているが、そんなものよりも「行動原理」にでもした方が余程JP軸を的確に表すことができるのだ。

 さて、なぜ私がJP軸を「行動原理」という名称にした方が的確で、J型を「義務型」とし、P型を「欲求型」にした方が相応しいというのかと言えば、J型人間とP型人間は平たくいえば以下のような類型だからだ。

J型:「やるべきだからやる。やるべきでないからやらない」という人間
P型:「やりたいからやる。やりたくないからやらない」という人間

 つまり、J型は義務感から行動し、また行動を抑制する。一方、P型は欲求から行動し、また行動を停止する。このことが分かれば、「義務型-欲求型」という名称の方が相応しい事が明らかだろう。ただし、「判断型-知覚型」も間違いではない。なぜかといえば、J型は規範から判断して行動するのに対して、P型は欲求を知覚して行動するからだ。そういう意味では「判断型-知覚型」の名称も間違いではないのだが、やはり分かり難い名称であるように思われる。


MBTIに関する注意事項

■MBTI自体に関する注意事項

 MBTIに関して各評価軸で性格を二分するときにどちらに区分されるか微妙な場合も少なくないだろうなとの印象を受ける。

 譬えで説明してみよう。

 レモンを二つに切り分けたとき、その部分が右側になるのか左側になるのか微妙な部分は結構多い。すなわち、切り口がちょっとズレていれば反対側になる部分がかなりある。このレモンを二つに切り分けるときに生じる構造と同様の構造がMBTIの各評価軸での二分法にある。

 この時生じている事態について別の譬えでいえば、100点満点のテストで50点のラインで区切ったときにそのボーダーラインの点数近辺の人はかなり居るだろう、ということだ。

 ちなみに各タイプの人数比がバラバラなので正規分布の真ん中で区分しているという訳でもなさそうだ。また、分布に関して単峰型を想定して上記の注意をしたが各評価軸における分布状況も良く分からない。二峰型で分布しているならば、二分法で発生するどちらに分類されるかの問題について多少は緩和されるかもしれない。

 また別の注意事項として、評価軸での評価の大小もその性格傾向の強度というよりも頻度として捉えるほうが適切である事も多いと言えるだろう。

 これについても譬えで説明すれば、甘党-辛党という好みの分類において、辛党の度合いに関して大酒呑みか嗜む程度かという見方もあれば、甘いものも食べれば酒を飲む人に関して酒を飲む方が多いならば辛党だろうとする見方もある。MBTIの各評価軸における評価の仕方も同様のような印象だ。

 以上はMBTIの評価軸の性質についての注意事項だが、MBTI自体の受け止め方に関しても注意が必要だ。前回書いた私のnote記事のテーマであるが、性格診断のようなタイポロジーは科学ではない。言ってみればタイポロジーは名付け行為なのであってそれ自体は科学足り得ない。

 もちろん、同定作業の厳密性などでは科学的手続きと同様の評価基準が適用されるが、名前を付ける行為自体は真偽で評価される対象ではない。例えば、冥王星は2006年に惑星から準惑星となったわけだが("準惑星"という概念自体そのときつくられた)、2006年時点において冥王星を準惑星と分類した、そのことだけを取り上げればそれは科学ではないのだ。つまりて「コレをこう呼ぼう」という名付け行為が科学の条件である反証可能性を持つことは無い。MBTIについて考えるときもこの点に関しては注意が必要である。


■MBTIの利用に関する注意事項

 MBTIの性格類型の利用についての注意事項について述べよう。

 先にも述べた通り、個々人の性格に関して各評価軸において二分するときのボーダーライン近辺に位置している場合が少なくない。すなわち、二分される二つのタイプのどちらであるのか微妙なケースが現実世界ではそれなりに存在している。つまり、MBTIで例示される16の性格類型がそのまま全員に当てはまるわけではない。

 このことを生物分類を譬えにして解説しよう。

 生物分類の「魚類」と分類される動物の説明において、「魚類」であればマグロやイワシといった紡錘形で胸びれ・背びれ・腹びれ・尾びれがある「これぞ魚!」という典型的な形態の魚類が例示される。もちろん、魚類の定義からウナギやヒラメのような紡錘形とはいえないものも魚になるし、それどころかアカエイやウツボやタツノオトシゴのような外見からは「こいつ等ってホントに魚なの?」と思うようなものも魚類になる。また、「鳥類」と分類される動物の説明において典型的な鳥類であるタカやハトが例示されて「鳥は空を飛びます」と紹介されたりするが、ダチョウやペンギンを思い起こせは分かるように空を飛ばない鳥類もいる。つまり、分類における典型例はその分類概念の理解において便利であるのだが、それに分類されたものが全て典型例に酷似した存在であると認識するのは危険なのだ。

 MBTIの性格類型も同様で典型例で各類型が説明されている。しかし、その典型的な性格類型は各個人の性格とピッタリ同じではないのだ。むしろ、各個人の性格は「それっぽい」といったレベルであるケースの方が多いだろう。

 このことをもっと詳しく説明しよう。

 MBTIの各評価軸からみた性格に関して仮に10段階で評価できるとする。このとき、MBTIで用いられている評価軸は4本なので各自の性格は4つの数値で示すことが可能だ。たとえば(6,4,5,7)といった形で個々人の性格を示すことが出来る。だが、このように捉えた場合はすべてのパターンを考えれば10000パターンにもなる。だが10000パターンもの量のパターンになるとちょっと普通の人間にはキチンと弁別して認識することは不可能だ。そこで下:1~5、上:6~10で一纏めにして(上,下,下,上)といった形に変換し直して16パターンに集約する。その集約した16パターンに対してESFP型やINTJ型といった名前を付けて類型化するのだ。そして、この類型化した性格(ESFP型やINTJ型等)を具体的に解説する段になって(10,1,1,10)といった極端な数値の組または(8,3,3,8)のような分類内での中間値の組で示される典型例で説明するのだ。

 MBTIを巡る事態はこのような構造を持っている。したがって、MBTIを実際に活用する段において、自分が属する性格類型の典型例と自分の性格は(大体の場合は)異なっているということについて個々人が理解しなければならない。先の数値例でみるならば、(6,4,5,7)という数値で表される個人の性格は、性格類型の典型例として示される(10,1,1,10)という性格と同じ類型に属しているものの、(6,4,5,7)の性格と(10,1,1,10)の性格は違うということである。先の生物分類について擬人化して譬え話にすると、タツノオトシゴが「自分は魚類なんだからマグロなんだ」と思うべきではないのだ。

 このことに関して、アイデンティティ形成期にあたる10代から20代前半と思しき人達が勘違いしている。MBTIの性格類型の典型例を自分のアイデンティティ要素にしようとしている人がかなり存在している。それはMBTIのあまりよい利用法とは言えない。

 また、他人に対してMBTIの性格類型を適用する場合も不適切な形で使用している人が、若い世代の人に少なくない。MBTIの性格類型で人を理解することは、人をステレオタイプで判断することと同様の行為なのだ。その人の性格を判断する直接的な手がかりを用いずに、MBTIの性格類型の典型例をその人の性格と判断することは間違いだ。

 このことは他のステレオタイプで性格を判断することと比較すればその不適切性がよく分かる。

 例えば、(男性,運動部,学業成績悪い,背が高い)という特徴のある人物と(女性,文化部,学業成績良い,背が低い)という特徴のある人物がいたとしよう。もちろん、これらの人物像からステレオタイプ的理解によって典型的な性格を想像することはできる。だが、そのステレオタイプ的理解によってイメージされた性格を、それらの特徴をもつ目の前の具体的な人物に対して適用することが適切だろうか?と考えてみればよい。当然、ステレオタイプ通りの性格の持ち主もいるだろう。しかし、多くの場合はそんなステレオタイプ通りの典型的な性格をしていない。そういった状況にあるにも拘らず、目の前の人物をしっかり見据えて性格を捉えるのではなく、ステレオタイプからの導かれる性格をその人の性格と考えるのは道理に合っていない。もちろん、自らが出会う人全員と深い交流を持つような事態が可能であるのは余程出会う人の数が少ない場合だけだ。それなりの数の人間と出会う状況においてはそれらの人々との交流の濃淡はあるので、さほど親しくない人の性格を捉える際にステレオタイプ的理解で処理することはあるだろう。しかし、親しく交流している相手に対して、その人そのものに向き合うことなくステレオタイプ的理解で済ましてしまうのは、相手に対する誠実さに欠ける行為となるのだ。

 もちろん、上の例に挙げた(男性,運動部,学業成績悪い,背が高い),(女性,文化部,学業成績良い,背が低い)といった4次元マトリクスよりもMBTIが採用している4つの評価軸に基づく4次元マトリクスの方が同一分類内の性格のバラツキは少ないだろう。というのも、そういうものを選んで評価軸にしているハズだからだ。しかし、そうであっても上記の事情は変わらない。

 以上のような注意事項があるにせよ、やはり人間理解に役に立つようにも思われる。とりわけ、自分とは全く異なっている、あるいは相当異なっているタイプの人間を理解する手がかりとなる。いや、理解の手段と言うよりも納得する手段と言ってもいいかもしれない。自分の延長線上で思考・共感することが難しいタイプが持っているであろうナラティブとそれに基づく行動に対して理解・納得が可能になってくるように思われるのだ。




註1 とはいえ、私自身はMBTIはおろか心理学の専門教育を受けたわけでもないので、ド素人の門外漢が何を偉そうにいっているんだか、という話ではあるのだが。

註2 この節の見方の核心は私がフォローしているイブリース氏の見解に依るところが大きい。

註3 「思考型というよりも論理型ではないか」という指摘はイブリース氏のものであり、私もそのように感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?