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目標と努力のはなし

 別の記事を書いているときに、横道に逸れそうな事を書いてしまったのでスピンオフさせます。

■努力しないで達成できるものは目標ではない

 目標は努力しなければ基本的には達成できない。というよりも、努力しなければ得られないからこそ目標となり得る。過去の経験を超える場合だけでなく、現状を維持するのであっても、それどころか現状を維持することが覚束なくとも、そこに努力が必須であるのであれば、それは目標になり得る。

 しかし、努力せずとも達成で出来るのであれば、それは目標ではない。

 気負うことなくその辺を散歩でもするかの如くにできるのであれば、実際にやればいいだけのことだ。その事が常人が出来る事とは隔絶していても、当人にとって現状で出来るのであれば何て事はない。それは目標とはならない。

 私の体験談で恐縮だが、むかし器械体操部の友人に「バク宙できる?」と聞いたら「できるよ」と言ってその場でやってくれた。私にはできない「バク宙が出来る事」は、その時の彼にとっては目標にならない。目指そうが目指すまいが出来るからだ。もちろん、「20年後でもバク宙ができる」となると、バク宙能力維持の努力が必要であるために彼にとっても目標とはなり得る。しかし、その時点においてバク宙することは努力なしにできるので彼にとっては目標にはならないのだ。

 この目標と努力の関係は、ごく普通の当たり前の事が目標として設定された場合に実感することが出来る。

 例えば、ある人から質の悪い冗談ではなく真剣に「半年後も呼吸が出来ていることが目標」と告げられた時、もはや余命いくばくもなく努力しなければ「呼吸していること=生きていること」も出来ない状態にあることを理解する。あるいはその人が希死念慮に囚われて生を継続することに精神的な努力が必要な状態であることを理解する。

 一方、心身ともに健康な人間が同様に「半年後も呼吸が出来ていることが目標」と言ったとしよう。そのとき周囲の人間は「えぇ!気付かなかったけど身体悪いのか?」と驚愕の後に恐る恐る尋ねるだろう。あるいは「・・・いま凄く悩んでる?」と気遣うだろう。それに対して「いや、全くそんなことないよ。半年後でも呼吸が出来ていることは楽勝で出来ていることだから目標と言っただけ」と答えたならば、周囲の人間は「てめぇ、ぶっ飛ばすぞ。冗談は冗談と分かるように言え!」と怒るだろう。

 シリアスな状況での言葉の使用は、その言葉の概念の構造を明確にすることが多い。極端な状況での概念の使用の有様を見ることは概念自体の構造を探る思考実験の一つの型である。そして思考実験は今回のケースも有効である。

 結果として分かったことは「目標には努力が必須」ということだ。換言すると、努力を必要としない目標モドキは目標足り得ないのだ。

 因みに、努力には獲得する方向のものだけでなく、手放す方向の努力もある。断捨離するとき、捨てる物と残す物とを選んで努力して捨てる。捨てられない気持ちになっても努力して捨てるのだ。モノだけでなく、囚われた感情や思想といったものも断捨離の対象である。ダイエットに苦労した体験があれば、減らすのも努力なのだとすぐに分かる話ではあるのだが。




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